鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

大江山へ!源頼光&四天王の素性に迫る!~後編

酒呑童子絵巻」 根津美術館所蔵

というわけで後半です。前編を読んでくださった方、ありがとうございます。

前編ではもともと武士とは「破邪/辟邪の力」を朝廷から期待されており、その力でもって災厄やケガレが朝廷に降りかかるのを防ぐ役割を担っていた。酒呑童子伝説で有名な源頼光とその子孫が代々任じられていた「大内守護」という役割においても現代的な警備員や近衛兵とは違い呪術的な力も求められており、それこそ本来の意味での「武力」であった...しかしそれも鵺退治でおなじみの源頼政が打倒平家に挙兵して敗死したのを機に「武力」といえば「破邪/辟邪」ではなく現在の我々が思い浮かべる暴力的な力が主流になっていく...みたいなことを書きました。

しかしそうした朝廷と武士との関係は完全に消えてしまったわけではなく、その後も細々とながら受け継がれていったようです。例えば、源平合戦のすえに成立した鎌倉幕府は武士政権である幕府が朝廷を守る、みたいな立ち位置を持っていました。というかどうやら朝廷周辺の貴族たちはそうみなそうとしていたらしい。「愚管抄」の著者にして天台座主、そして九条兼家の弟でもあった慈円なども朝廷と幕府との関係を「武士が朝廷を災いから守る」図式に当てはめようとしていた様子がうかがえます。そうすることで権門の貴族たちはどうにも避けられない時代の変化の衝撃を自分たちにとって都合の良い形で解釈して受け入れようとしていたのでしょう。

つまり、かつての「大内守護(この役職は頼政の死後も彼の子どもに受け継がれますが)が朝廷を破邪/辟邪の力でもって災いから守護する」という構図が「将軍(その名も征夷大将軍)がその暴力的な力でもって朝廷を災いから守護する」構図に変化しただけ(少なくとも貴族たちの脳内では)。「なんだ、大して変わってないじゃんか」と無理に自分を納得させようとしていたのかもしれません。

いわゆる「脳内補整」ってやつでしょうか。

平安時代における征夷大将軍の代表格である坂上田村麻呂からして鬼退治の伝説がいくつも伝わっているのも大内守護と征夷大将軍との間にそれほど大きな違いはなかった(少なくとも朝廷の人たちはそう見ていた)ことがうかがえるように思えます。

そんな彼らの幻想は鎌倉時代まではなんとか維持できていたと思うのですが(モンゴル襲来という究極の「災厄」も坂東の武士(と神風?)が防いだわけだし)、それも後醍醐天皇の登場によって激変。

楠木正成名和長年といった当時の社会にうごめいていた素性のよくわからない「夷」に属する人々を直接取り込んだ後醍醐天皇が鎌倉政権という朝廷が「内部に抱え込んだ夷」を滅ぼすことによってこの幻想は完全に崩壊することに。(持明院統大覚寺統による皇統分裂に際して鎌倉幕府ができるだけ穏当に対処しようとしていたことを思い出されたし)

自らの手による天皇親政を目指すために長い間続いた朝廷の秩序そのものを破壊しようとした後醍醐天皇の大胆さには改めて驚かされるわけですが、そんな彼の目論見もあたかも幻想に過ぎなかったようにほどなく崩壊。その後南北朝の騒乱を経て最終的には足利義満によってこれまでとは大きく異なる形で朝廷と幕府の関係が築き上げられることになります(それが義満が本当に望んだ形だったのかどうかは別として)

歴史上初の武家政権となった鎌倉時代を軽視するつもりはありませんが(とくに承久の乱)、よく言われるように建武政権南北朝にかけての時期は日本の歴史上において非常に大きな変化の時期、地殻変動のようなものが起こっていた重要な時代だったように思えます。

酒呑童子伝説&頼光四天王から話がかなりずれてしまいましたので軌道修正。

頼光&渡辺綱のコンビに関しては酒呑童子伝説とともに土蜘蛛退治の伝説がよく知られています。この伝説にはいくつかのVerがありますが、今回は「土蜘蛛草紙」バージョンを。東京の国立博物館には14世紀に作られたこの絵巻が所蔵されており、しかも撮影可能なのでこれをベースにします。

京都の蓮台野において頼光&渡辺綱の主従は空を飛ぶ不気味なドクロと遭遇、それを追っていくと強大な顔を持つ尼、奇妙な鞠のような白雲を投げつけて襲いかかってくる美女、体長60メートル()の鬼などの異形のモノ達と次々と遭遇、最後は土蜘蛛と対決し見事に首を切り落として退治することに成功する。

...これが基本的な筋書きですが(平家物語では発端が頼光が病気になったところに化け物が襲いかかってくる形になっています)、絵が非常におもしろい。わたくしの撮影の不手際でちょっと見にくいですが、ぜひ楽しんでいただきたく候↓

モノノケを描いた中世の絵巻物のほとんどに共通した特徴である「人間よりモノノケの方が明らかに気合い入れて描かれている」原則にも忠実、身長1メートル、うち顔の長さが66センチ()の尼さんのインパクト!「たとえようもない美女」と書かれた白雲を操る女性の目がイッちゃっているような表情、落ち武者と河童の出来損ないみたいな異形の鬼たち。

じつに素晴らしい。ラスボスの土蜘蛛が地味に思えてくるくらい。

この土蜘蛛退治の功績によって頼光は摂津守に、渡辺綱丹波守に任じられたのでした。

めでたしめでたし。

京都にはこの土蜘蛛を葬ったとされる遺物が東向観音寺(北野天満宮のすぐ近く)と上品蓮台寺2か所にありますが、どちらも近代に入ってから元の場所から移動されたものです。上品蓮台寺にある蜘蛛塚(かつてはもう少し南にあったらしい)は上記の土蜘蛛草紙の舞台にもなった蓮台野にあるうえに船岡山の近くでもある。

↑は東向観音寺の土蜘蛛灯籠。現在当お寺は写真撮影の制限がとても厳しいようなので訪れる際にはご注意ください。

↑は上品蓮台寺の「頼光朝臣塚」。この説明板にある土蜘蛛に斬りつけたという「膝丸」が後述する「薄緑」です。源義経によって現在の名称に変更されたと言われています。

船岡山と言えば保元の乱後の処理で平城太上天皇の変(薬子の変)以来じつに約350年ぶりの死刑が行われたとされる場所(それも後述する頼光が土蜘蛛を斬る際に使ったとされる刀を受け継いでいた源為義が斬首される)、というのも何やら因縁じみておりますね。

土蜘蛛退治の功績によって頼光が摂津守に任じられた点については実際には頼光の父満仲の時代にはすでに摂津守に任じられており、多田の地を本拠としていました。しかし恐ろしい化け物を退治したこの二人が京都の西側の地の国司となったというこの伝説の内容には「破邪/辟邪の力」を期待されていた当時の武士の役割がよく現れていると思います。

京都の4つの境(四堺)のうち2つ、大枝(おおえ)と山崎がこの摂津・丹波国にあります。しかも大枝(現在の亀岡市老ノ坂峠)には酒呑童子首塚を祀っているとされる首塚大明神なる神社があります(よく知られている酒呑童子伝説のVerでは童子の首は宇治の平等院に収められている)

そして京都から見て丹波を越えた先の丹波丹後国の境に大江山がある。

ついでに京都から摂津、丹波を超えてはるか北西の先に後鳥羽上皇(この人は源実朝を過剰に「朝廷に抱え込んだ夷」として手懐けようとした形跡もある。おそらくそれが実朝暗殺と承久の乱双方の遠因になっていると思います)後醍醐天皇が配流された隠岐国があります。

地図で隠岐と京都の位置関係を見るといかにも「もう二度と京に戻ってこないでね」という朝廷(と幕府)の偽らざる心境が見てとれるような気がします。(四堺の残り2つ、逢坂と和邇を越えてはるか北東(鬼門)にあるのが佐渡ですね。ちなみに酒呑童子の出身地に関しては新潟説もけっこう知られています)

つまり、この伝説における頼光の摂津守と渡辺綱丹波守就任からは西&北西方向から京都に向かって迫ってくる災厄やケガレを彼ら(つまり武士が)ブロックする役割が期待されていた事情が見て取れます。そしてこれは平安時代において当時の武士に求められる役割がそのまま反映されたと見ても考えすぎにはならないと思います。

ちなみに渡辺綱が属していた渡辺党は摂津国を本拠にしていましたが、当地の大江御厨(みくりや)の管理を担っていました。そして頼光は言えば大江匡衡と親交があったらしい。大江匡衡のひ孫にあたる大江匡房は頼光のことを武士として「これ天下の一物なり」と評価していたりもします。

日本人の言葉遊びへの傾倒ぶりから考えてこうした「大江つながり」が後世の酒呑童子伝説の形成・構築の原動力になった可能性も十分に考えられるのではないでしょうか?そもそも源頼光が後世に広く知られるようになった背景には名の「頼光(らいこう)」が「来光」「来迎」「雷公」などの響きに通じるおめでたい印象があったから、という説もありますので。

最後に、これまで挙げてきたように平安~鎌倉にかけて武士の「武力」が「破邪/辟邪の力」から「暴力的な力」へと急速に比重がシフトしていき、室町時代に前者の方がかなり失われてしまったわけですが、この「破邪/辟邪の力」はその後人からモノへ、日本刀へと担い手が変化していったようです。

「破邪の力を備えた武士が災厄をもたらすモノノケを退治する」から「破邪の力を備えた刀を振るう武士がモノノケを退治する」時代へ。化け物退治の主役が武士から日本刀に移っていく傾向が見られます。

そしてこの移り変わりとともに「妖刀伝説」というジャンルが生み出されていく。一方で戦国末期くらいからは「破邪/辟邪の力」を完全に失った、あくまで剣術の技量が評価される「剣豪伝説」も生まれるようになる。

室町時代と言えば「百鬼夜行絵巻」が描かれた時代。これは実質的にはモノに魂が宿った「付喪神」を描いた作品です。この「モノに魂や霊力が宿る」という考え方はもっと古い時代から日本人の間で共有されていたと思いますが、室町時代はそれが新たな段階に足を踏み入れていった時代だったのかも知れません。

というわけで、↓は有名な「童子切安綱」。写真撮影OKなありがた~い東京国立博物館所蔵。

この「童子切安綱」は酒呑童子を斬った伝説的な刀として、さらに「天下五剣」の一振りとしてもよく知られています。

さらに↓は頼光&渡辺綱が土蜘蛛を退治したときに使ったとされる「薄緑丸...の写真()箱根神社所蔵の刀です。源義経が兄頼朝と和解するために鎌倉を目指した際に箱根神社に立ち寄り、願をかけるとともにこの刀を奉納した...というなかなかに魅力的な由緒を持っています。

同じ伝承を持つ刀として京都の大覚寺が所蔵する「薄緑」が広く知られていますが、こちらの薄緑丸もお忘れなきよう()。数年前に國學院大學博物館でこの刀が展示された際に撮影不可だった実物の代わりに現地にあった宣伝用のタペストリーを撮影したものです。

この薄緑(どちらが"本物"かの真贋は問わない)は頼光のエピソード以来、源氏重代の名刀として受け継がれてきたことになっているのですが、いつのまにか頼光の一族(摂津源氏)から義家の一族(河内源氏)に持ち主が移行しています。このあたりにも「破邪/辟邪の力」から「暴力的な力」へと武士の役割がシフトしていった状況が反映されているように思えます。

今回の投稿はもっぱら酒呑童子伝説に登場する頼光&四天王の側からアプローチしてみたものでした。なので肝心の主人公たる酒呑童子について触れる機会がほとんどありませんでした。「伝説についてぜんぜん触れてないじゃんか」とのツッコミも受けそうですが。

しかし、まだわたくしと大江山の鬼たちとの戦いはまだ始まったばかり。

酒呑童子から見たこの伝説も非常に面白くて、よく知られた伊吹山バージョンの存在のほか、酒呑童子の生い立ち(生まれた頃から異形の乱暴者で行く先々で厄介者扱いされた)武蔵坊弁慶とよく似ているなど、興味深い点が多々あります。

こうした話はいずれ、わたくしか再び大江山に出向いて見事鬼退治(登頂)に成功したときにでも書いてみたいと思います。

いつになることやら…

大江山には酒呑童子伝説の他にもいくつか鬼にまつわる伝説が伝えられており、ゆかりのスポットなども見られます。ある伝説が生まれた場所に同種の伝説が上書きされるように作られていく...という重層構造も面白いですね。

そして今回のわたくしの大江山登山ですが、厳しい自然の洗礼の前に無念の途中下山を強いられているときにヤマトタケルノミコト伊吹山の神との戦いと挫折の物語がわたくしの脳裏をよぎりました。彼も伊吹山の神の迎撃を受けて大雨&吹雪にさらされ命からがら下山することに。

「そうか、今自分はヤマトタケルノミコトになっているのか...」と。

往路は頼光と四天王、復路はヤマトタケルノミコト、一回の登山で2通りのヒーロー気分を味わえたわけですから、「一粒で二度おいしい」と強気一辺倒の総括も可能になるわけですが...そんなわたくしの脳裏にさらにある考えがよぎりました。

「そういえば酒呑童子伝説って伊吹山バージョンもあったよな」

そう、おそらく、過去にも大江山登山においてわたくしと同じようにしんどい思いをした人たちが多数おり、その下山中にヤマトタケルノミコトになりきって自己陶酔にひたった人たちがいた。そしてそんな人たちの間で大江山伊吹山がごちゃごちゃになっていった…

これが酒呑童子伝説において大江山バージョンと伊吹山バージョンが存在する理由である!

いずれ投稿するつもりの酒呑童子伝説の投稿における早すぎる前フリとして、これを大胆不敵極まりない意見として提唱しておきたいと思います。