先月末、京都府福知山市にある大江山へ鬼退治へ出かけてきました。
当日の天気予報は朝方まで曇り、午前の半ば過ぎくらいから曇りになる...だったのですが、朝から降り続けていた雨は止む気配はおろかどんどん強まり、有名な鬼嶽稲荷神社に到着するころには暴風&雪に見舞われる始末。
雲海が見られることで知られる当神社前の絶景スポットでは霧&もやで何も見えず(というか強風にあおられて立ってられなかった)、もう少し先に進めば大江山の主峰、仙丈ヶ岳まで(&酒呑童子が住んでいたと言われる「鬼の洞窟」も)行くことができたのですが、「さすがにこれ以上はちょっとマズい」と判断して志半ばでの下山となったのでした。
↓がそんな大江山の様子
このあたりを歩き回っていたときに濡れた石に滑って転倒。雨対策に装着していたシリコン製のシューズカバーが破れて雨水が靴の中に浸水開始。「おい、これが避妊具だったら訴えられてるぞ!」といささか品のない罵声を浴びせつつ進軍続行。
鬼の交流博物館とその目玉とも言える世界一の巨大鬼瓦。無情の臨時休館でしたが。なんでも館内の照明をLEDに切り替える工事をしているんだとか。鬼がエネルギー問題に配慮する時代になったか...地球規模で考えれば人間も鬼も運命共同体である...とかなんとかブツブツと自分を納得させつつさらに先へ。
どいつもこいつもうまそうに酒飲みやがって!こっちも飲まなきゃやってらんねーよ!...おっとっと、ここで飲んだら酒呑童子になっちゃうのか...などど自戒しつつメインルートからちょっと外れて「鬼のモニュメント」が建つ場所を目指す。
とまあ、要所要所で一人ボケ、一人ツッコミを駆使して自らを鼓舞しつつ鬼嶽稲荷神社まではなんとかたどり着くことができたのでした。
おそらくこれはヒーローの襲来にビビった大江山の鬼どもが天候をコントロールして迎撃に出たのでありましょう。
今回のところは仕方なく撤退、いわば緒戦は痛み分けという形になったのでした。
...「どう見てもお前の完敗だろ!」って思った人いるでしょ?
そんなわけで今回の投稿では酒呑童子伝説にちなんで「源頼光と四天王とは何者か?」をテーマに追ってみることにしました。
↓は日本の鬼の交流博物館にあった頼光&四天王御一行(藤原保昌も含む)の像。
源頼光の四天王と言えば知名度バツグンの渡辺綱、坂田公時、そしてちょっと落ちて卜部季武と碓井貞光の4人。このうち碓井貞光は平貞光とも呼ばれ、三浦氏や千葉氏、上総氏など数多くの関東の有力武士の一族の先祖である平良文の子どもとされています。
彼の姓「碓井」は生まれ故郷とされる碓氷峠を由来としています。有名な群馬と長野の間にある碓氷峠ではなくて、神奈川県にある方です。
そして坂田公時はご存知足柄山(足柄峠)の金太郎。この碓氷峠(しばしば2つの碓氷峠が混同されつつ)と足柄峠はいずれも東西の境界線となっていたらしい。二人はこれらの峠を越えた坂東の地生まれの人物という設定になります。
卜部季武についてはよくわかりませんが(卜部氏は伊豆がルーツなんて説も)、この四天王たちの出自を見ると東国との関わりが非常に深い。
東国出身の猛者どもが恐ろしい鬼退治に出向く…
この構図からはかつての京都の朝廷の視点から見た「夷を以て夷を制す」的な発想が見て取れるのですがいかがでしょうか?
もともと酒呑童子の物語が展開する平安時代においては武士そのものが「朝廷が身内に抱え込んだ夷」みたいな立ち位置だったわけですが。
この時代における「武力」には単に武器を振るって戦い力(つまり暴力)の力だけでなく、災厄や災厄をもたらす存在(鬼に代表される)を退ける「破邪/辟邪の力」も求められていた...というかおそらくこっちのほうがメイン。武士にとってのメインの武器が長い間刀...ではなく弓矢であり、この弓矢が鳴弦や鏑矢など魔除けの力を備えていたのもその証となるでしょう。
源氏と言えば頼光の弟にあたる頼信やその子・孫の頼義・義家親子の一族(河内源氏)があたかも源氏の主流のような扱いを受けている面もありますが、これはあくまで後の話、それも現代の武力のイメージが「暴力的な力」に著しく偏っている視点から見た話。少なくとも平安時代までは朝廷に降りかかる/襲いかかる「魔」や「厄」を撃退する役割を担っていた頼光とその子孫たる「摂津源氏」もまた武門ほまれ高い一族として見られていたのは間違いないでしょう。
頼光は「大内守護(おおうち/たいだい)」という内裏を守護する職に任命されています。この「内裏を守護する」役割を現在の警備員/近衛兵のようなイメージで見てしまうと頼光一族の役割や地位、当時の朝廷における「魔」や「厄」との接し方が見えなくなってしまうでしょう。
その後この大内守護の職は頼光の子孫に受け継がれており、鵺退治でおなじみの源頼政もこの役職に就いていました。彼がなかなか昇殿を許されないでいたことを朝廷に訴えるために詠んだとされる↓のような歌もあります。
「人知れぬ 大内山の山守は 木隠れて(こがくれて)のみ 月をみるかな」
この「大内山の山守」とは大内守護のこと、そのうえで「そんな地位にいるわたしだけど、宮中の月を木々の茂みに隠れて(木隠れて)見ることしかできない」みたいな意味でしょうか。
そんな役職についていた頼政が鵺退治をするのもこの役職に「破邪/辟邪の力」が大いに期待されていたことを暗示しているのでしょう。
一方、こうした朝廷に降りかかる災厄を退ける役割は同時に災厄をもたらす「ケガレ」と直接関わることを意味していました。そのため朝廷をケガレから守る重要な役割を担いつつも朝廷から遠ざけられていた面もあったようです。昇殿なんてもってのほか。
まさに「朝廷が内部に抱え込んだ夷」。
平家では平忠盛が昇殿を許されて「破格の出世」とも言われ、当時の他の殿上人たちから批判されたと言われていますが、この「破格の出世」も単に身分や家柄といった視点だけでなく、「もともとケガレを背負っていた連中がなぜ?」みたいな面もあったと思います。これは清浄な空間を保つという朝廷の最も基本的な部分(院政時代に入った段階でこの点はかなりないがしろにされていましたが)を否定しかねない面があったので貴族たちは警戒心を抱いたのかも知れません。
武門出身者では頼光も昇殿を認められており、次がおそらく平忠盛、そして先述の歌で頼政が昇殿を認められました。彼はその後別の歌を詠んでアピールすることでついに念願の従三位に昇格、「源三位」と呼ばれることになります。
話が少しそれますが、この頼政の「歌で出世した」史実も単に「彼は貴族的な教養に恵まれており、朝廷社会でうまく出世できた」と見ると摂津源氏の役割が見えづらくなってしまうと思います。もともと歌(和歌)には呪力があり(言霊信仰)、当然大内守護を担う頼政には歌による破邪/辟邪の力も期待されていたと見るべきでしょう。
そんな「破邪/辟邪の力」を発揮して活躍していたはずの頼政がその人生の最終盤になって突如として方向転換、「暴力的な武力」に訴え出て平家という「災厄(?)」を除きにかかったのはなんとも不可解に思えるのですが...彼が敗死することによって世の中は実力行使、暴力の武力がモノを時代が到来することになったのでした。
というわけで、平安時代の「武士」「武力」には現在の我々がイメージするものとは違った面もあり、それらを担った「武勇の者たち」が活躍していた。酒呑童子伝説はそんな彼らを一方の主人公として展開される物語なのでした。
長くなったので後半へ続く!