前回の投稿と連携した投稿です。この投稿だけでも内容を楽しんでいただけるよう努力しましたが、両方読んでいただければ超うれしいです(笑)↓
今回の記事の舞台となるのは滋賀県大津市にある石山寺。今年(2024年)の大河ドラマの影響もあって「紫式部がこの寺で源氏物語の着想を得た!」「源氏物語を執筆した!」などと大売り出し中!…なわけですが、この石山寺と紫式部ならびに源氏物語との結びつきはおもにお寺が所蔵する「石山寺縁起絵巻」(もっとも古い巻は鎌倉時代)によるもので、その内容は史実に基づいているのか?となると「???」な感じ。
この石山寺縁起では紫式部は石山寺で琵琶湖を眺めつつ源氏物語を執筆した、とあるそうですが…残念ながら境内からは琵琶湖は見えません😅(境内から見えるのは琵琶湖から流れる瀬田川です)
大津エリアのあちこちで見かけたポスター。史実はどうあれ、かなりお気に入り。
↓以下の画像は石山寺境内のあちこちで撮影したものです。
↑寺名の由来にもなっている石山寺硅灰石。
↓最寄り駅の石山寺駅からの道中も紫一色って感じ
前回の投稿で、藤原道長の子孫である御堂流の人たちは自分たちの権威を確認、誇示するために「宇治入り」という儀式を行っていたことを紹介しました。改めましてこの儀式のWikiページを↓
御堂流の長者が変更(代替わり)した際に新たに就任した長者が宇治の平等院にあったとされる「宇治の宝蔵」の中に入って所蔵されている宝物を確認する、という儀式です。どうやらこの儀式を通して「自分たちの一族(御堂流)はこんな素晴らしい宝物を持ち、所蔵する権利を持っているのだ!」とアピールしていたらしい。
この「宇治の宝蔵」はかつて実際に存在していたと考えられている一方、その所蔵物に関しては酒呑童子の首や玉藻の前の遺骸といった錚々たる妖怪グッズ(?)をはじめ怪し~いブツがラインナップされており、現実と虚構がごちゃごちゃになった空間と見られていたようです。そんな素敵な宝蔵に所蔵された宝物の中には源氏物語の欠巻とされる「雲隠六帖(くもがくれろくじょう)」も含まれていたと伝えられています。
前回の投稿の繰り返しになりますが、源氏物語の本文では光源氏の死のシーンが描かれておらず、唐突な感じで光源氏の死後のことが語られ、源氏の息子世代の間で展開される「宇治十帖」へと移行していきます。そしてこの宇治十帖の物語に移る前には「雲隠」と名付けられた本文が残されていない、名前だけの巻があります。そして後世の人達は光源氏の死のシーンはこの失われた「雲隠」の巻に書かれていたのだろう、と推測しました。
この「雲隠」は実際に紫式部が書いたけど散逸してしまったのか、タイトルだけつけて結局書かなかったのか、それとも最初から存在していなくて後世に他の人が勝手につけたのか、どうもよくわからず、現在でも諸説入り乱れている状況のようです。
そんな幻の「雲隠」の巻が宇治の宝蔵に所蔵されている! そしてその「伝説」が御堂流の権力誇示に役立っていた。「こんなすごいの持ってるんだぜ!とばかりに…というのが前回の投稿の論旨のひとつでした。
ではどうして酒呑童子の首やら九尾の狐の遺骸やら、源氏物語の欠巻やら、存在しないものを所持していることを誇示していたのか? そこには平安末期から鎌倉時代にかけて御堂流が置かれていた立場が深く関係しているようです。
つまり、藤原氏内における強力なライバル、閑院流との権力争い。
閑院流、藤原北家の中でも西園寺家、徳大寺家、三条家などが含まれる血筋です。明治以降になると三条家と徳大寺家がよく知られますが、平安末期から鎌倉時代にかけてとくに西園寺家が台頭して御堂流の強力なライバルとなっていました。
とくに有名なのが鎌倉初期の西園寺公経(1171-1244)。鎌倉幕府と結びついて全国各地(とくにビジネス上の要衝)に荘園を獲得しつつビジネスに積極的に関与、莫大な財を獲得して当時青色吐息の状況だった藤原氏全体の財政を支えていたと言われています。ちなみに彼の妻の一人はあの藤原定家の姉妹。というわけで藤原定家の晩年は公経のおかげで(前半生と比較すると)かなり恵まれたものになりました。
そして石山寺はそんな西園寺家に贔屓にされていました。そもそも先述した石山寺縁起絵巻(のもっとも古い部分)が作られたとされるのは藤原氏にとっての氏神である春日大社の「春日権現験記」の作成時期とほぼ同時期(鎌倉時代)とされています。
それどころか、「石山寺縁起絵巻」の絵を描いたのは「春日権現験記」を描いたのと同じ高階隆兼ではないか?との説さえあります。
↓はそんな高階隆兼のWikiページ
藤原氏の氏の長者たる御堂流の連中が春日権現との結びつきをアピールするならこっちは石山寺ダァ~!という状況だったのでしょう。
そしてその過程で「御堂流の連中が紫式部&源氏物語との結びつきをアピールするならこっちも!」と対抗心を燃やしたのか、現在猛アピールされている「紫式部は当寺で源氏物語を~」という内容が「石山寺縁起絵巻」に書かれる/描かれることになった…と推測してもそれほど的外れではないと思うのですがいかがでしょうか?
↓は今や石山寺の「顔」になりつつある「源氏の間」。
↓は境内にある紫式部の供養塔。
↑これも「いかにも!」って感じですね。
これらを見てもこの寺が紫式部&源氏物語との関係を作り上げていくうえでいかに周到な舞台設定を行ったかがうかがえますね。
そもそも、紫式部が石山寺を訪れたかどうかさえも確証がない、というのが実際のところのようです😅。
で、前回の投稿でも紹介しました。「幻の欠巻」、雲隠六帖↓
「源氏物語補作 山路の露・雲隠六帖 他二篇」
なんと、中世には幻の書であった「雲隠」が現代では誰でも手軽に読めちゃう!…って同じことを前回の投稿で書きましたが、これは室町時代に書かれたと考えられている二次創作、同人誌の類です。これはまず「雲隠六帖」なるものが存在する、という「伝説」があって、それに基づいて誰かが書いた、という構図なのでしょう。
H.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話のファンが自分で「ネクロノミコン」を書いちゃった!みたいな感じでしょうか。(この点に関して後述)
また、源氏物語をお読みになった方なら同意してくださると思いますが、この作品はどうも尻切れトンボ感がついてまわりまして、「え、これで終わり?」みたいな印象を持ちます。もしこれが現代の作品なら「未完の作品」と扱われるでしょう。そのため「じゃあオレ/わたしが続きを書いちゃおうか」という誘惑に駆られる人が続出したのかもしれません。
で、そんな現存する同人誌版(笑)「雲隠六帖」の末尾には面白いことが書かれています。この本を所蔵していたと称する人がその来歴を説明する内容なのですが、そこでは「この六帖を含めたのが源氏物語の全体である、わたしはこれを石山寺におさめる」とあります。つまりこの雲隠六帖を含めたバージョンこそが「真の源氏物語」であり、それを読むことができるのは石山寺であるとアピールしているわけですね。
しかもその石山寺に奉納したと主張する年代が1058年(康平元)!
先述したようにこの「雲隠六帖」は室町時代の作と考えられています。本文で使用されている言葉などから鎌倉時代以前にさかのぼることはないというのがその理由。なお上記の説明文に続いてさらに別人が「石山寺にあったこの書を手に入れたのをわたしが1319年(元応元)に清水寺に奉納した」と書き加えられている…という設定になっています。
そして平等院にあったとされる例の「雲隠六帖」が所蔵されていた宝蔵は南北朝時代ころに焼失したと考えられています。雲隠六帖はこのような状況下で書かれたということになります。
なぜこのような状況で書かれたのか?
石山寺(西園寺家)側が「宇治に雲隠六帖がある」という「伝説」とそれがもたらす御堂流の権威を完全否定しようと目論んだのではないでしょうか?
「摂関家の連中がイロイロ言ってるけどさ、「雲隠六帖」はそもそも宇治の平等院にはなかったんだよ。最初から石山寺にあったのさ」
という意思表示。1058年に奉納した、という設定はまさにそんな彼らの目論見を示しているのではないか?
これは宝蔵を失い、自らの権威付けができなくなった御堂流(摂関家)の危機に乗じて西園寺家が攻勢に出た!という面もあるかもしれませんが、そもそも西園寺家そのものが鎌倉幕府と近い関係にあったせいで室町時代に冷や飯を食わされている面もあったので、挽回の意図もあったのかもしれません。
となると、この同人誌版「雲隠六帖」は西園寺家の息がかかった人間の手によって、西園寺家の意に沿う形で書かれたのではないか?と見ることもできるのではないでしょうか?
そうなるとこれはもはや二次創作、同人誌の枠を超えて「偽書」の面をも持ち合わせていると言えるのかも知れません。
源氏物語そのものの内容とはまったく別のところでこの作品を巡ってドロドロとした世界が展開していた…というのもいかにも藤原氏らしい?(偏見か😆)
今回紹介した上記の書籍には「雲隠六帖」のほか、宇治十帖の続編(後日談)とも言える「山路の露」のほか、かの本居宣長が書いた光源氏と六条御息所のなれそめを描いた「手枕」、さらには上記の3篇と打って変わってあっと驚く怪奇譚が展開する「別本 八重葎(やえむぐら)」が収録。
「雲隠六帖」では光源氏の死が描かれるほか、宇治十帖の主人公、薫とヒロイン浮舟のその後の展開なども書かれています。
源氏物語は「読まれない(のに語られる)名作」みたいな面がかなり濃厚ですので😅、この本はあくまで原作にひと通り目を通していることが大前提となりますが(つまり同人誌と同じ)、源氏物語が好きな人なら読んでみて損はない…
というか読んでみたくなったでしょ?(笑)
なお、石山寺の本尊は33年に一度公開される如意輪観音。一方で当寺には中世に庶民から奉納された「弥勒」の私年号が記された納札が現存しているそうです。さらに古代末期から中世にかけて如意輪観音と弥勒菩薩は「同体」の仏と見なされていたと考えられています。日本人が得意の「異なる神仏を同じとみなす」がここでも登場しているわけです。
先日、比叡山の弥勒石仏を紹介する記事を書いたときに弥勒年号について少し触れました。ご一読いただければ幸いです↓
どうも現在の大津エリアの広い範囲で弥勒信仰が浸透していたようです(如意輪観音信仰と習合しつつ)。この事実は上記の投稿の「中世に仏像の尊名が変わった可能性がある」というわたくしの説も多少なりとも補強してくれるのではないか、という気もしますがいかがでしょうか?
奈良の斑鳩にある有名な中宮寺(法隆寺のすぐお隣)の本尊を思い浮かべてみてください。あの仏像は現代人のわれわれが見ればどう見ても弥勒菩薩ですが、実際には如意輪観音です。あの像もその歴史の過程で「弥勒菩薩・如意輪観音同体説」の影響を受けながら尊名が変更されたのでしょう。
そしてもうひとつ、石山寺の参拝者用の入口のすぐ近くにある「比良明神影向石」↓
わたしが訪れたときにはほとんどすべての人が素通りしてすぐそばにある「大河ドラマ館」へと向かっていましたが(笑)、比良明神とはかつて大津エリアで大きな勢力を持っていたと言われる比良修験と関係がある神さま。琵琶湖の西側にある比良山地を本拠としている修験の一派。
近年海上鳥居でちょっと知られる滋賀県高島市にある白髭神社もかつては(というか今でも使われているかもしれません)比良明神と呼ばれていました。そしてこの白髭神社も紫式部との関わりをアピールしています。
となると琵琶湖西岸における紫式部関連の「伝説」と、弥勒菩薩の信仰の両方がこの比良修験の担い手によって広められた、と考えることもできそうです(東北地方における小野小町の伝承が羽黒修験者たちによって広められたと考えられるように)。
ですからこの比良明神の影向石はもうちょっと注目されてもいいかな、って気もするんですけど。ほんっとに、誰も目もくれてなかったんですよ(笑)
↓は境内にある「天狗杉」。このあたりに修験道の要素が垣間見られます。
長くなりましたが正真正銘、最後の最後。源氏物語は海外でも多少知られているようです。
そして紫式部本人は(おそらく)描かなかった光源氏の死の場面を描いた海外作家による意欲的な作品などもあります。↓はその日本語版。
「東方綺譚」 マルグリット・ユルスナール・著 白水社
この短編集に収録されている「源氏の君の最後の恋」。
花散里をヒロインとする内容。なかなかおもしろいのでこちらも源氏物語のファンに紹介しておきます。