↑の画像は奈良県葛城市にある「傘堂(または唐傘堂)」。二上山から當麻寺、石光寺などの当地を代表する観光スポットを巡るルート上にあります。
名前は見た目が傘(唐傘)のような形状をしているため。現在は補強材が追加されていますが、もともとは中央の一本の柱だけで支えられていた面白い建築物です。
↓はその柱のアップ。一辺約40センチほどとのこと。
↑屋根から突き出している部分の瓦(隅巴瓦?)の瓦に本多の「本」の文字が見えますでしょうか?
一見すると休憩用の東屋のようにも見えますが、れっきとした「お堂」。大和郡山藩の初代藩主だった本多政勝(1616-1671)の菩提を弔うために当時の郡奉行であった吉弘統家(よしひろのりいえ)が中心になって建てられたもの、だそうです。
お堂ですから、もともとはここに梵鐘も据え付けられており、さらには阿弥陀如来の仏像も安置されていたそうです。前者は現在妙円寺、後者は中将姫伝説ゆかりの地として名高い石光寺(しゃっこうじ)にあります。しかもこの建築物はかの名匠左甚五郎作とされています。
どうしてこんなユニークな形状をしているのか? というのが今回のテーマ。え?タイトルの妖かしはどうなってるんだって? しぱしお待ちを。
前々回の藤原定子(977-1000。新暦では1001)をテーマにした投稿の最後に彼女の葬儀の際に遺体が安置された「霊屋(たまどの)」について触れてみたい、と書きました。まずこの霊屋について。
この定子の「霊屋」は「築土」と呼ばれる泥土を塗り込めて作った壁で周囲を取り囲んだ建物だったとされています。築地塀みたいな感じでしょうか。
「霊屋(たまや)」についてコトバンクでは以下の3通りの意味が記されていました。
1.死者の霊魂を祀ってある堂
2.葬送の前に一時遺骸を安置する所
3.墓の上に乗せる小さい屋形。上屋(うわや)。雨覆い。野屋
藤原定子が埋葬された鳥戸陵には当時すでに醍醐天皇の皇后だった藤原穏子(885-954)の火葬塚があったようですし、築地塀を伴った霊屋もおそらく短期間で作られたものであった(後述するように遺体が埋葬されたのは死の11日後)ことを考えても1のような死者の魂を祀るために恒常的に設置されることを前提したお堂とは考えづらいでしょう。そして周囲を塀で囲っている以上、3でもない。となると2の可能性がもっとも高い。一時的に遺体を安置し、役割を終えたら取り壊すような。
ではなぜ一時的に遺骸を安置するためにこんな建物をわざわざ作ったのか? その理由はおそらく彼女が土葬の形で葬られることになったからでしょう。
かつて日本には「殯(もがり)」の概念があり、死んだ人はすぐに埋葬せずにそのまましばらく放置する習慣が行われていました。とくに有名なのは天武天皇(686年死去)、彼が死んでからじつに約2年2ヶ月の間にわたって殯が行われています。本来なら彼の後継者であった草壁皇子が後を継いで即位するはずだったのですが、殯が長期間に及んだ上に彼の異母弟であった大津皇子の事件が起こるなど延び延びになっている間に彼自身が若くして死去してしまいます。
もがりの習慣がなければ歴代天皇がもうひとり増えていた!ということになるでしょうか。
昔は身分が高い人ほどこの殯を長期間行っていたのですが、負担が大きいなどいろいろと問題があったらしく、天武天皇の皇后で結果的に後を継いで即位することになった持統天皇の死去の際にはじめて天皇の火葬が行われ、その後殯がよりシンプルになっていきます。(すでに孝徳天皇の時代に薄葬令も出されていますし)
この殯は遺体をそのまま野外に放置したわけではなく、遺体の上を覆う、あるいは周囲を塀や垣根で取り囲むような施設を用意したうえで行われていました。その屋根の下や囲いの内部の空間が「遺体のための霊的な空間」みたいな形になる。
どうしてこんなことをしたのかというと、亡くなった直後の魂は非常に不安定な状態にあるから。体から魂が離れさまよい歩いて現世にとどまり続けてしまったり(現在で言う憑依霊?)、あるいは人に害をなす恐ろし~い悪霊になってしまうかもしれない。なので死者の魂がさまよい出ないよう特定の空間に閉じ込めつつ、不安定な状態が安定するまで安置する(必要に応じて鎮める儀式も執り行う)。そのコンセプトを形にしたのが殯。
日本の民俗学に大きな足跡を記した五来重氏(1908-1993)によれば神道における神の荒ぶる魂「荒御魂(アラミタマ)」とは「新御魂(アラミタマ)」でもある、なので不安定な状態にある死んだばかりの「新しい」魂は非常に危険な荒ぶる状態にあると見なされていた、とあります。そしてその不安定な状態を落ち着かせ、鎮めた結果として穏やかな「和御魂(ニギミタマ)」となっていく。
現在の神道の概念、そして日本人の感覚ではアラミタマとニギミタマは共存しているイメージが強いのではないでしょうか。ある神さまのアラミタマが表に出ると荒々しい危険な状態になり、ニギミタマが全面に出ると穏やかに信者にご利益をもたらしてくれる状態になる、といった感じで。
しかしこの二つの「ミタマ」は魂の質が変化していく過程・結果を示すものでもあったようです。不安定な状態を示すアラミタマは過程、最終的に安定した状態を示すニギミタマは結果、と。
そして祖霊信仰に代表されるように日本では死者の魂は最終的に神(あるいは仏)になる。となれば神さまだけでなく死者の魂もアラミタマからニギミタマへと移行させていく必要が出てくる。そのための作業が殯(もがり)である…
こうしてみると土葬された藤原定子の葬儀の際に設けられた「霊屋」もまた殯のための施設であったと見てよいと思います。少なくとも単に丁寧に葬るために築かれたものではないでしょう。まして当時の藤原道長の時代の宮廷社会は権謀術策が渦巻きつつ怨霊や呪術、魑魅魍魎への恐怖心が高まっていたはず。
彼女の葬儀を手配したらしい兄の藤原伊周の立場からすれば「不遇の生涯を送ることになってしまった妹にはせめて死んだ後は穏やかに過ごしてほしい」との願いもあったでしょうし、彼女を不遇の生涯へと追い込んだ人たち(つまり藤原道長陣営)からすれば「頼むから怨霊ならないで」との思いもあったはず。それが築地を巡らせた「霊屋」での葬送となったのではないでしょうか。
なお、藤原定子が亡くなったのが旧暦の12月16日、その後遺体は23日に平清盛との関係でも有名な六波羅蜜寺に安置され、27日に埋葬されています。なので六波羅蜜寺から霊屋に運ばれたのがいつなのか詳しいことがよくわかりませんが、ただ伝統的な殯の概念を考えると当日の27日に運ばれてすぐに埋葬されたのではなく、霊屋に運んでから数日経過したのちに埋葬したのでは? という推測をしたくなります。
というわけで、ここまでくれるともともとのテーマである「傘堂とは何か? 何のために建てられたのか」についても少し見えてきます。
もともと民間で行われている殯の概念を伴う葬送儀礼では周囲を垣根(土の壁ではなく木の枝・棒を地面に突き立てる形の)で囲んだうえで唐傘を立てて上の部分を覆う、という形も行われていました。おそらく現在でも各地でその名残が見られると思います。もう唐傘は入手できないので洋傘をお墓に立てる、あるいは広げない状態で地面に立てかける、刺して立てるといったやり方をしているところもあるらしい。先述した五来重氏はこのタイプを「忌垣(いがき)型もがり」と命名しています。
この傘堂は藩主の菩提を弔うために建てられたものですから、江戸初期の時点における殯のスタイルを反映させたものではないか? と考えることも十分に可能なはずです。周囲を塀や垣根で取り囲む形ではありませんが、大きな傘を思わせる屋根をつけることでその下を「死者の魂のための霊域」に見立てたものである、と。
先述したコトバンクにおける「霊屋」の「3」の意味を見直してみてください。「墓の上に乗せる小さい屋形。上屋(うわや)。雨覆い。野屋」とある。この傘堂はまさに江戸時代における「霊屋」の一種ではなかったか?
ただこの傘堂が珍しい建築物であることは間違いないですから、どうしてこんなものが本多政勝という人物の菩提を弔うために建てられたのか? という疑問も出てきます。
↓は現地にある傘堂の説明板。のちにお堂の周りを巡って安楽往生を願う民間信仰が生まれる。こうした信仰・風習の変化を知ることができるのも信仰関連の史跡の面白さですね。さらに苦しまずに死ねる「ぽっくり信仰」の地でもあったとか。こちらは超高齢化社会となった現代で大ブレイクしそうな予感も(笑)
この説明板やネット上での傘堂についての説明では当時大和郡山藩で水の不足で飢饉に苦しんでいた領民を救うために灌漑池が作られることになり、本多政勝が願主、傘堂を建てた吉弘統家が指揮を取る形でこの事業が進められたとあります。そのためその後本多政勝、吉弘統家だけでなく灌漑池の工事に尽力した人たちの菩提を弔うことも目的としている…とのことです。この事業の恩恵を受けた人たちにとって本多政勝は英君だった、ので感謝の意を込めて守り続けてきました、ということなのでしょう。
そんな領民に慕われた藩主の菩提を弔うために殯の風習を連想させるちょっと変わった形のお堂を建てた理由としては以下の2つが考えられないでしょうか。
1.藩主の魂が体から抜け出して現世をさまよい歩くようなことがなくスムーズに浄土へと行けるよう聖域を作った。
2.自分たちを救ってくれた藩主の魂が死後にも自分たちを見守ってくれる神さまになってほしい、との願いから「アラミタマ→ニギミタマ」への変換装置ともなりうる空間を作った。
阿弥陀如来像を安置していたことから1の可能性が高いと思います。魂が迷うことなく、阿弥陀如来の導きにしたがって浄土にたどり着くことができるように、と。
ただし、2の考えも捨てがたい。現在でも日本人は死んだ人の魂は暫くの間仏教において法事を執り行った後、弔い上げ(通常33回忌)をもってして仏さまになる、と同時に子孫を見守る祖霊になる、という両方の考え方が共存しています。
おそらく多くの方が納得していただけると思うのですが、現代でも多くの日本人はこの「死者の魂が仏にも神にもなる」という考えに対してとくに矛盾を覚えることなく受け入れているはずです。死んだ人には無事に浄土に行ってほしいと思いつつも、自分たちを見守り続けて欲しいという願いも持っている、ちょっと欲張りな考えがごく自然なものとして身についている。
となるとこの本多政勝の死後の魂の扱いに関しても1と2の両方が共存していてもおかしくないはず。それこそ飢饉の苦境から領民を救った藩主として感謝されていたわけですから、「死んだ後も我々を見守り続けてほしい」と願ってもおかしくないでしょう。
なお、現在でも毎年9月に「傘堂のセガキ」と呼ばれる法要がこの地で行われています。
その際には↓の二基の墓碑の前に本多政勝の位牌を据えて執り行われるそうです(この墓碑はは吉弘統家と工事で活躍した藤懸玄達という人物のものらしい)
つまり、領民から慕われた本多政勝という人物は死後にも愛され続けた。その証が傘堂である。
めでたしめでたし
…と言いたいところなのですが、じつはまだこの話には続きがあります。↓は本多政勝のWikiページ。
もともと本多忠勝の孫にして現千葉県の大多喜藩の後継者であるはずの彼がどうして大和郡山藩の藩主となったのか? かなり複雑な事情なのでここでは触れませんが(わたくしもよくわからん/笑)、簡単に言えばもともと彼の死後は従兄弟の政長に家督を譲ることになっていたのが晩年になって実の息子の政利に譲りたくなったため、いろいろと裏工作を働いた。それが彼の死後に起こったお家騒動の原因となり、あれこれあった挙げ句最終的に実子の政利は改易の憂き目に遭うことに。
そんな藩内の不穏な情勢下にこの傘堂は建てられたことになります。
となると…
彼の死から3年後に建てられたというこの傘堂は「本多政勝が怨霊と化してしまうのを恐れた人たちによって建てられたのではないか?」という疑問も出てきます。彼の魂を霊域に封じ込めて、怨霊になりかねないアラミタマをなんとかしてニギミタマへと鎮めよう、そのために殯の概念を踏襲したこの珍しい形のお堂を建てた…
阿弥陀如来を安置したのも「この世にとどまって怨霊になったりしないで素直に浄土へ行ってください!」的な意図があったのかも。
さて、真相やいかに!
ちなみに本多政勝の父親は本多忠勝の息子にして酒で身を滅ぼした(?)本多忠朝。大阪の四天王寺の近くにある一心寺(骨仏で知られるところでもあり)に墓地があるんですが、その墓所が「酒封じの神様」として酔いどれの人たちから崇拝の対象になっているなかなかに面白い人物です。こちらは正真正銘神さまになった人?
そしてようやくタイトルに関連した話まで来ました。この傘堂は左甚五郎作とされています。本当かどうかはここでは大きな問題ではありません。以前左甚五郎作と伝える龍の彫刻について取り上げた投稿をしたことがあります。もし興味があればご一読いただければ幸いです↓
この投稿で取り上げたように左甚五郎が作った龍の彫刻が本当の龍になって動き回る、という伝説が各地で伝えられています。名匠が作ったものには魂が宿る、というコンセプトがそこにはあるのでしょう。となるとこの傘堂にもそんなコンセプトが含まれている可能性もあります。
死者の魂を浄土に送るにせよ、神さまになってもらうにせよ、はたまた怨霊化するのを避けるにせよ、魂が体から離れてさまよい出ないために閉じ込める霊域を作り上げるには名匠の手による神秘的な力が宿った建物こそふさわしい…という考えが左甚五郎作という話を生み出したのではないか?
そして日本の信仰の大きな特徴としてしばしば「付喪神(つくもがみ)」が挙げられます。時を経たモノには霊が宿り、しばしば妖怪と化すというコンセプト。これと「名匠が作った「モノ」には魂や神秘的な力が宿る」というコンセプト、さらに傘は日常空間から隔絶した空間を作り出すための道具とみなされていた面。
この3つが組み合わさるとおなじみの妖怪にならないか?
そう、唐傘おばけ(からかさ小僧)!
↓はこの妖怪のWikiページ
このページに書かれているように非常に有名な妖怪なわりには民話・伝説の類にはほとんど出てこない。なぜか? 付喪神のコンセプトと殯の概念をともなう葬送儀礼における傘のイメージから生まれた妖怪だからではないか?
民話・伝承がほとんど残されていないにもかかわらずビジュアルではよく描かれて広く知られていたのは墓地をはじめとしたいかにも妖かしが出そうな空間で人々が傘を見かける機会が多かったから、そして傘が霊的な「モノ」として見なされていたから。そのため物語ではなくビジュアルの形でこの妖怪が生まれたのではないか?
せっかくですので我らが偉大なるマエストロ、水木しげる先生による「傘化け」も↓
ここの説明で水木先生は東北地方の「雨の降る日に幽霊が夫に会いに来て、傘を忘れて帰った。その傘が大正年代までお寺においてあった」話について触れています。マエストロは「これなぞは幽霊傘」というのだろうか」と記しています。これはまさに唐傘を使用した殯を伴う葬送儀礼と結びつく話と言えそうです。
なぜなら、こうした儀礼では弔問者なり遺族なりが唐傘を用意してお寺に持っていき、お寺ではその遺族/弔問者が置いていった唐傘を檀徒のための貸し傘として使うという習慣もあったからです。(これも五来重氏の著作より)
こうしてみてもこの有名な妖怪には現在のわれわれは失ってしまった「傘の神秘性」が深く関わっている可能性がかなり高いのではないでしょうか?少なくとも、付喪神の基本コンセプト「物を大事にしないと化けて出くるぞ!」だけではない別の意味が込められていると見ることができるのではないでしょうか?
果たして真相やいかに!
殯に関連しそうな話をもうひとつ、↓は鎌倉にある鎌倉宮の境内にある土牢。
鎌倉幕府打倒の立役者にして悲劇のヒーローの一人、護良親王(1308-1335)が幽閉されていたと伝えられる史跡です。鎌倉幕府打倒後に彼の父である後醍醐天皇と足利尊氏が対立して(さらに後醍醐天皇と護良親王の間にもいざこざがあって)足利方に捕らえられてこの地に幽閉されたと言われます。そして最近アニメで話題になっている北条時行による中先代の乱の際に足利直義によって殺害されてしまいます。
ただ、この土牢とは本来は「土籠(つちろう)」であり、現在史跡となっているこの狭い洞窟はこれを「土牢」と読み誤ったうえで後世に作られた史跡であろう、という説が有力です。
「土籠」、土を塗り籠めて作られた建物…さて、藤原定子の築地塀で囲んで作られた「霊屋」を連想しないでしょうか?
この牢屋として建てられた建物は単に身柄を拘束するための牢屋であるだけでなく、危険人物の荒ぶる魂を鎮めるための空間としての意味合いもあったのではないか? 殯と「アラミタマ→ニギミタマ」のコンセプトが生きている人間にも適用される、といった考えがかつてあったのではないか?
そんな推測もしたくなるのですがいかがでしょうか?
もしこの考えが的を射ているのなら、護良親王が殺害された後はしばらくその遺体は土籠の中に放置された可能性が出てきます。彼の魂が正真正銘の「荒ぶる怨霊」と化さないために。その後に首を斬ることで最終的に怨霊と化す可能性を完全に抹消した。魂はもはや荒ぶる状態ではなく、首を斬ることで魂が戻る体もなくなることによって。
はてさて、真相やいかに?
唐傘お化けに戻りますが、この妖怪は「一つ目&一本足」の姿をしています。かつて柳田國男氏が「一つ目小僧」の論考において「神仏の世界ではしばしば一つ目あるいは一本足の姿をした存在が見られる。それには何か理由があるはず」といった主張をしていました。
なお、唐傘お化けや一つ目小僧、一本だたらなどの妖怪はその代表格として挙げられますが、この点についてもいずれとりあげることができたらと思っています。
今回も長文になりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。最後の最後、わたくしの電子書籍の宣伝をさせてください。
やっぱりできるかぎりアピールする機会をもたないと誰の目にもとまらずに埋もれてしまいますので😅何卒ご容赦を。
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