本年2025年は巳年、ということで蛇絡みの伝説のひとつでも取り上げておかなきゃいかんだろう、というわけで、本投稿の舞台は京都の大原地区。
タイトルからもご推測いただけると思いますが、まったく繋がりがなさそうな3つのテーマを強引に結びつけて書いたので目次は必須。興味のあるテーマだけお読みになってもOKです、という親切設計(笑)
1.大原に伝わる大蛇伝説
大原エリアと言えばおそらく三千院と寂光院が代表的なスポットのツートップだと思うのですが、そんな大原の中心エリアの中心にほど近い場所に「乙が森」と呼ばれる茂みがあります。ここには恐ろしくもちょっと悲しい大蛇伝説が伝わっております。
まずは乙が森の画像から↓
↑現地の説明板。ここにある「比叡山を望むことができる」は後でちょっと重要になってくるので覚えておいてください。
↑「龍王大明神」なる碑が建てられています。
で、伝説の内容は以下の通り↓。↑の上記の説明板もご一読ください。
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昔々、この大原の地に「おつう」という名のそれは美しい娘がおりました。そんな彼女がある日若狭の国の殿様に見初められ、彼の元に輿入れすることになりました。まさに玉の輿となったおつうでしたがその幸福は長くは続きませんでした。後に病を得て健康を害すと殿様の寵愛を失ってしまい、ついには故郷の大原の地へと戻されてしまったのです。
そして己の境遇に絶望したおつうは大原川に身を投げてしまいました。
それからしばらくして、例の若狭の殿様が上洛のためにこの大原の地を通りかかる機会が訪れました。一行がこの地を通過し、花尻橋という橋にさしかかると突如として恐ろしい大蛇が出現、彼らに襲いかかってきました。
じつはこの大蛇は川に身を投げたおつうが転じた姿だったのです。自分を捨てた殿様への恨みから恐ろしい蛇身となり、その恨みを晴らすべく姿を現したのでした。
迫りくる大蛇を前に絶体絶命のピンチに陥った殿様でしたが、そこへ松田源太夫という名の侍が大蛇の前に立ちはだかり見事討ち果たすことに成功、大蛇は首と尾を切り離された状態で絶命し、殿様は危機を脱することに成功したのでした。
しかしその後大原の地には悪天候に見舞われるようになったうえにどこからともなく悲鳴が響き渡る恐ろしい状況に陥りました。これはおそらくおつうの祟りであろうと恐れた住民たちは改めて大蛇の首と尾をそれぞれ別の場所に丁重に葬り、彼女の魂を供養するための祭儀を開催することにしたのでした。
首が埋葬された場所は現在の「乙が森」、尾を埋葬した場所は「花尻の森」だと言われています。
おしまい
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現在でも上記の「乙が森」と「花尻の森」の両方が残されています。下の画像は「花尻の森」の方。「乙が森」や三千院、寂光院がある観光の中心エリアよりもかなり南へ行ったところにあります。なお、「花尻の森」の近くには上記の伝説に登場する花尻橋というバス停もあり。
↑こちらは観光客があまり訪れないエリアだからか、ちょっと放置気味(苦笑)
↑このあたり伝説の雰囲気が漂ってきていい感じ。
この伝説そのものはそれほど古いものではないらしく、それまでにこの地に伝わっていたいろいろな伝説が融合した結果作り出されたとも考えられています。
まず殿様を守って大蛇を退治する松田源太夫には別の伝説もあり、そこでは平家滅亡後に大原に隠遁した建礼門院徳子を監視する役目を源頼朝から命じられてこの地に住んでいた、とされています。「花尻の森」はその彼の邸宅があった場所である、とも。寂光院からかなり距離があるのは露骨に監視するのをはばかる配慮からでしょうか?
で、どうしておつうを捨てる殿様が若狭出身なのかというとかつて大原は京都と若狭地方を結んでいた「鯖街道」のルート上にあったからだと考えられます。若狭の人たちが京都へ物資を運ぶためにこの地を頻繁に往来していた環境から若狭の殿様がこの地を通りかかって現地の美しい娘を見初める、という設定が生まれたのでしょう(この点は現代の我々が考えるように訪れる者も少ない幽境の地、というイメージに再検討を迫るのかも知れません)。
毎年3月に話題になる東大寺の二月堂にて開催される「修二会」、というか「お水取り」も若狭国の鯖街道沿いにある「鵜ノ瀬」から持ってきた水を使って行われるイベントです。下は鯖街道のWikiページにあった複数あった鯖街道のおもなルート図。
大原から左へ2本目のルートに「雲ヶ畑」という地名がありますが、後で出てくるのでちょっと頭に入れておいてください。
さらに男に捨てられた女が蛇と化して恨みを晴らすという設定は道成寺の安珍・清姫伝説を連想させますし、大蛇をバラバラにして殺すあたりは源頼政の鵺退治を思い起こさせます。
また、殿様から遠ざけられてしまった娘が大原の地で失意の日々を過ごす…という設定からは建礼門院徳子と、夫の高倉天皇を巡ってライバル関係にあった小督局の関係をほんのちょっぴり思い出させないでしょうか? 殿様から遠ざけられた小督局のエピソードと、大原で隠遁生活を送った建礼門院徳子のエピソードがごちゃごちゃに混ぜ合わされた、みたいな。
大原というエリアそのものが伝説が語り継がれるにふさわしい雰囲気を備えている魅力的なところなのですが、この悲恋の大蛇伝説に登場するこの2つの森も伝説のロマンにひたれるような雰囲気を持っているように思えました。花尻の森は放置気味なのがかえって雰囲気を高めているのかも。
2.ツチノコブームの震源地?
さて、そんな数々の伝説に包まれた神秘の地、大原ですがじつは1970年代前半~80年代半ばくらいにかけて大ブームを巻き起こした(そう、昔は今よりもブームのスパンが長かったのです)とある伝説、それも蛇伝説とも関わりを持っています。
そう、みんな大好きツチノコ伝説!
↓は後述する山本素石氏著「逃げろツチノコ」に所収されている懸賞金つきのツチノコ図。
ツチノコを写真撮影に成功すれば賞金10万円!…って今でも有効なのかしら? 捕獲じゃなくて写真撮影ってのがいいですね! 「幻の怪蛇ツチノコは、すべての日本人にとっていつまでもロマンとして生き続けてほしいものです」の文章も素晴らしい。
このツチノコブーム、当時リアルタイムで経験していた方は当時の狂乱ぶりをよく覚えていらっしゃるのではないでしょうか。当時子どもたちに絶大な影響力を持っていた(現在とは比較にならないくらい)ドラえもんでもよくネタにされていましたし。
かくいうわたくしも幼い頃ツチノコ求めてあちこちを探検してまわったのをよく覚えています。しかし残念ながら見つけることはできませんでした。
その後年齢を重ねて大人になっていくにつれて「みんな騒いでたけど結局ツチノコなんていないんだよ」と醒めた目で見るようになっていったのでした…
が、しかし!
大人になってから思いもかけない情報を手に入れることになる。それは山本素石氏(1919-1988)の著作「逃げろツチノコ」に記されていたツチノコの分布と各地での呼称を示した図でした。↓の画像
↓は著作のアマゾンページへのリンク図。名作です。
これを見ると分布図がかなり偏っているのがわかります。そう、関東地方には棲息していないらしい! 東京出身のわたしには見つけられないのも当然というもの。
「な~んだ、見つけられなかったのはツチノコが実在しないからじゃなくて、探した地域にいないだけだったのか」
と納得するともに俄然興味が再燃してきたのでした。
「まだツチノコとの戦いは終わっていないぞ」
と。
この分布図を見ると奈良と和歌山の県境、大峰山などがあるエリアとか、京都と兵庫の県境、酒呑童子伝説が伝わる旧丹後・丹波のエリアだとか、神秘的な信仰や伝説が伝わる地に多く見られるのが面白いですね。
名前もかなり多様で、ツチノコのほかにはゴハッスン(五・八寸。ツチノコの体の縦横のサイズを元にした名前)とか、ノヅチ(野槌)あたりが有名でしょうか。ほかにも「テンコロ」とか「コロリン」とか、目撃した外見の印象をそのまま名前にしているって感じで、いかにも民間レベルの語りの世界で伝えられてきた生き物(?)である様子がうかがえます。
この山本素石氏の「逃げろツチノコ」はツチノコ好きにとっての聖典のような書籍なのですが(笑)、著者の山本素石氏は他の著作でもちょくちょくツチノコについて記しており、そもそもかつてのツチノコブームは彼の一連の著作やメディアに掲載された記事によって煽られた面もあるようです。
ちなみに念のために言っておくと氏はオカルトや超常現象系の作家/ライターではなく、釣りをメインの話題に据えつつ日本各地の失われつつある農村の風景や人々の生活を紹介した紀行文のような著作を多く残した人です。その一環としてツチノコが取り上げられている。その内容はオカルトと民俗学両方の面白さを味わわせてくれるものばかり。
で、そんな彼によると大原の地ではツチノコの目撃談が多く、どうもこの地域の目撃談が70年代に起こったツチノコブームの震源地のひとつらしい。
しかも、著者に当地での目撃談を熱心に語った人物のひとりは地元では「ホラ吹き」として有名だったらしく、その人を取材したツチノコ関連の記事がとある新聞で特集記事として大々的に掲載されたことがあったそうで…🤪😅🤣
現在ツチノコの生息地としては岐阜県も有名ですが、氏の著作にも出てきます…というか現在知られるツチノコスポットの多くはこの方の著作に書かれた情報を元にしている可能性が極めて高い(笑)
3.伊勢物語と源氏物語
ツチノコの話はちょっと置いておいて(あとで再登場)。大原の地にあるスポットをもうひとつご紹介。上記の「乙が森」と「花尻の森」の間のちょうど中間くらいにあります、惟喬親王(844-897)のお墓とつたわる墓所。
この惟喬親王という人物もまたいろいろな伝説に取り巻かれた面白い人物ですが、文武天皇の息子(しかも長男)。父親から寵愛を受け有力な皇位継承の候補者だったものの、時の権力者、藤原良房の意向などもあって即位できなかった人物。藤原良房といえば藤原氏による摂関政治の礎を築いたとも言える剛腕の持ち主、一方惟喬親王の母方は斜陽の紀氏出身。時勢に利あらず、って感じで歴史上の敗者になってしまった人ですね。
ちなみに彼を差し置く形で皇位についたのが武家としての源氏のルーツとも言える清和天皇。惟喬親王が天皇になっていれば武士の歴史もずいぶん変わっていたかも!(武家の源氏=陽成源氏説も含めて)
惟喬親王を巡るこのあたりの事情に関してはこの人のWikiページもご参照ください↓
そんな惟喬親王、あの在原業平(825-880)と非常に親しい関係にあったらしく、この二人の交流を伝えるエピソードが数多く残されています。在原業平も父親の阿保(あぼ)親王は平城天皇の長男、さらに母親は桓武天皇の娘というサラブレッド。しかも伊勢物語でもほのめかされている藤原基経の妹、高子の愛の逃避行(とその失敗)などもあって藤原氏にいろいろと含むところがあった痕跡も見られます。
二人が親しい関係になったのもそんな両者に共通する「敗者のアイデンティティー」がもたらした仲間意識がきっかけだったのかもしれません。
在原業平の歌の中でもおそらくもっとも有名なもののひとつ、
“世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし”
も惟喬親王の別荘で花見を楽しんでいるときに詠んだものです。
で、大原にある惟喬親王ゆかりの地がじつは源氏物語とも浅からぬつながりを持っていたりします。
3-1.大原の地にある伊勢物語ゆかりのスポット
天皇になれなかった惟喬親王ですが、それなりによい生活を送ることができたらしく、最終的に出家したうえで「小野」の地に隠遁、その地で死去したと考えられています。その「小野」の地とされているのがここ大原(異説もあり)。
↓はその墓所。
↓彼を祀る「小野」の名を冠した御陵ならぬ御霊神社も。
実際中世から近世に入ってこの人が怨霊めいた扱いを受けるようになったらしく、歌舞伎には「惟喬親王魔術冠」というタイトルからして妖しい匂いがプンプンする作品があったりします。
この墓所と神社はもツチノコが出そうな…というその前に別の種類の蛇が出てきそうな緑豊かな、でもちょっとわからづらいところにあります。
で、彼が出家してこの地に隠遁したときには在原業平が↓の歌を詠んで贈っています。
“忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは”
歌意は「これが現実であることを忘れて夢ではないかと思ってしまいます。深い雪をなんとか踏み分けてあなたとお会いする環境になるとは」みたいな感じ。
この歌は在原業平を主人公にしたと言われる伊勢物語の八三段に収録されていますが、古今和歌集にも収録されているので(巻18.970)間違いなく業平が詠んだものと見てよさそうです。伊勢物語では惟喬親王のもとを訪れ主人公が辞去する際に詠んだものとされているのに対して古今和歌集では業平が惟喬親王のもとを訪れた後に都に戻ってから詠んだものとなっています。
いずれにせよ、この大原の「小野」の地を舞台にした歌&エピソード。なのでこの墓所は有名な古典文学ゆかりのスポット、ということになります。
さて、ここで話を伊勢物語にちょっと移して、同作品の中でもとくに有名な話を見てみましょう。在原業平と思われる主人公の色男が伊勢を訪れた際に斎宮と束の間の逢瀬を交わした話です。第69段。
未婚の内親王が担い男性を遠ざけることを大前提とした伊勢の斎宮が遍歴の色男と密通! となると大スキャンダルなわけですが、この逢瀬の後に二人は歌を詠み交わしています(いわゆる後朝の歌)
まず斎宮が業平に向けて贈った歌↓
“君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寝てか覚めてか”
歌意は「あなたがわたしのもとにいらしたのか、わたしがあなたのもとへ訪れたのか。よくわかりません。あれは夢だったのか現実だったのか、寝ていた間の出来事だったのか、目覚めている間のことだったのかも」。
それに対して色男の返歌が↓
“かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢現とは 今宵さだめよ”
歌意は「恋心に分別を失ってしまい心の闇に迷い込んでしまったためによくわかりません。昨夜の出来事が現実だったのか、夢の中のことだったのか、今夜決めてください」。
この2首も古今和歌集に収録されており(巻13)、前者は作者を「斎宮なりける人」としたうえでよみ人知らずとしています。そして業平のうたの方は結句が「世人さだめよ」となっています。伊勢物語の作者が物語のプロットに合わせて変更したのでしょう。
なお、このエピソードには当時の斎宮が惟喬親王の妹、というおまけつき!
伊勢物語の方は「今宵定めよ」ですから、「今晩もう1回逢って確かめ合いましょうよ」と誘っているのに対して古今和歌集の方は「あの夜の出来事が夢だったのか現実だったのかは世間の人たちに決めてもらいましょう」という意味になる。二人の関係が世間に知られても構わない、という自信があったのでしょうか。
この2首と上記の惟喬親王に贈った歌を比べてみましょう。どちらも「今置かれている状況が現実なのか、夢なのかよくわからなくなっている」というシチュエーションを土台としています。さらに古今和歌集には彼の歌として↓の歌も収録されています。
“寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな”(巻13。644)
歌意は「あなたと一緒に過ごした夜が夢のように儚いものでしたので、帰宅してうたた寝をしたらますますその儚い夢の中に入り込んでしまうようです」。
こちらも現実と夢の境界線が曖昧になっています。どうやら彼はこうした表現が好きだったようです。楽しく過ごすことができる素晴らしい時間は夢のような儚い、現実味に乏しいものである、みたいな考え方でしょうか。
そしてこの彼のスタイルが源氏物語に大きな影響を及ぼしている形跡が見られるのです。
3-2.源氏物語との関わり
源氏物語の「若紫」の巻において光源氏は彼にとって初恋の女性である藤壺(当時の天皇、というか光源氏の父帝の妃)と密通して不義の関係になります。
この逢瀬において藤壺は妊娠、生まれたのが後に天皇になる冷泉帝。
これは源氏物語の序盤に登場するエピソードで、現代人の感覚では鬼畜としか言いようのない振る舞いを繰り返す光源氏の色男伝説の開幕を告げるような立ち位置となっています(笑)
で、この禁断の密通を交わした後に光源氏は藤壺に歌を詠んで贈っています。それが↓の歌
“見ても又 あふ夜(よ)まれなる 夢のうちに やがて紛るる 我が身ともがな”
歌意は「夢のような逢瀬を交わすことができましたが、再びお逢いする機会は得られないでしょう。ですから思い切ってこの素晴らしい夢の中に入り込んで消えてしまいたい我が身です」みたいな感じ。
さて、業平の歌の世界観との共通点は明らかだと思うのですがいかがでしょうか? とくに「寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな」からの影響が色濃く見られるように思えます。
彼女が少なくとも古今和歌集には親しんでいたでしょうから、在原業平のこの世界観に魅力を感じて自らの作品に取り入れたのでしょう。
…と断言できそうな根拠が当時の朝廷の状況から見て取ることができます。
これは前に取り上げたこともあるのですが(↓URL。もしよかったらご一読ください)
伊勢物語にある在原業平(と思われる)人物と斎宮との逢瀬によって子どもが生まれ、その子は当時の伊勢権守であった高階氏によって引き取られ、家を継ぐことになった…という伝説が平安時代にまことしやかに語られるようになります。
しかも紫式部の同時代に藤原道長と権力闘争を繰り広げていた藤原伊周やその弟の隆家、妹の定子の母親(道長の兄、道隆の奥さん)がこの高階氏出身。
なので道長サイドは政敵に対するネガティブキャンペーンとしてこの伝説を利用し、「皇祖神に仕える斎宮の不義密通によって生まれた子の子孫(藤原定子と一条天皇の間の子、敦康親王のこと)は天皇にはふさわしくない」と朝廷内に触れ回っていたそうです。
となれば道長サイドによるネガティブキャンペーンの根拠となる伊勢物語は当時の宮廷社会では広く知られていたでしょうし、紫式部も当然接する機会があったはず。伊勢物語における主人公と斎宮との密通の話が周囲で噂になっており、そこになかなか粋な歌が収録されているのを見て「これは使えるぞ」とその雰囲気を源氏物語に取り入れた…
こうした当時の朝廷の状況から考えてもほぼ間違いないんじゃないか、と思いますがいかがでしょうか。
さらに在原業平の異母兄にあたる在原行平(818-893)にいたっては源氏物語と直接的な関係を持っています。彼が詠んだ歌に↓がありますが
“わくらばに とう人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたえよ”
これは彼が原因は不明ですが政治闘争か何かに巻き込まれて摂津国の須磨の地(現兵庫県神戸市須磨区)に蟄居したときに詠んだ歌とされています。「たまたまわたしの消息を訊く人がいたなら、須磨の浜辺で塩作りでもしながらさびしく過ごしていると答えてくれ」みたいな意味。
これが源氏物語の「須磨」の巻にある光源氏の都落ちと須磨での生活の元ネタになったと考えられています…というか作品中にも「光源氏が住むところは行平の中納言が「藻塩垂れつつ…」の歌の中で詫び住まいをしていたところに近いところだった」とある。
作中で紫式部自身が在原行平をモデルにしていると告白しているようなものでして、この点からも彼女が業平&行平兄弟に深い関心を持って創作の参考にしていたことは明らかでしょう。
さらに加えて伊勢物語と源氏物語、そして大原との間にはもうひとつ関連がうかがえます。源氏物語の後半部分、「宇治十帖」でのお話。
この宇治十帖のヒロイン、浮舟は恋の三角関係に悩まされた末に世をはかなんで宇治川に入水を試みます。その後消息不明になり誰もが溺死してしまったと思っていたのですが、じつは彼女は物の怪に取り憑かれた状態であてもなくさまよい歩く日々を送っていたのでした。その後深い茂みの中で意識を失っているところをたまたま通りかかった一行に保護されます。そして彼らに連れられていかれたのが「西坂本の小野」という人里離れた場所。
これは現在の京都市左京区の修学院があるエリアから比叡山へと向かう途上あたりだと考えられています。
大原の「小野」に隠遁した惟喬親王を訪れた時に在原業平が詠んだ古今和歌集の詞書には「比叡の山の麓なりければ雪いと深かりけり」とあります。で、源氏物語の「小野」も比叡山の西、登山ルートにあるエリア。
どちらも比叡山が見える場所にあり、隠遁生活に向いた人里離れた地。紫式部は惟喬親王の隠遁の地「小野」をモデルに西坂本の「小野」の地を源氏物語の最後の舞台として設定したのではないか?
なお、宇治十帖の作者は別人説はここでは置いておきます(個人的には別人説にちょっと肩入れしたいですが)。ただしもし別人であってもこれを根拠に伊勢物語と在原業平&惟喬親王のエピソードをよく知っていた人物によるもの、と見ることもできそうです。
昨年(2024年)の大河ドラマが紫式部を主人公としていた作品だったこともあって何かと源氏物語が話題になりました。なので「日本最初(場合によっては世界最初)の長編小説」や「最初の文学作品」といったこの作品についてまわる先入観(しかも正しいとは言えない)が再検討されるいい機会になるかと思ったのですが…そんな機運があまり高まらないまま年が改まってしまったような気もします。
源氏物語はもちろんのこと、世界中のあらゆる文学&芸術作品は決して「ゼロから生み出されたわけではない」点は歴史を学ぶうえでも重要だと思います。紫式部もいろいろな先行作品を参考にしたうえで源氏物語を作り上げていったのでしょう。
3-3.「小野」の地名についてまわる神秘的なイメージ
惟喬親王にはもうひとつ、神秘の世界と関わりがある要素を持っています。かつて全国をまたにかけて活動し、現在でもその末裔が活動を続けている「小椋」姓を名乗る人たちを中心とした木地師集団が自分たちの祖先&祖神として惟喬親王を祀っているのです。
中世に入って中央権力が弱体化していったことで権門から庇護を得られなくなった氏族や職能集団が自分たちの出自に箔をつけるために歴史上&神話上の有名人と自分たちを結びつける家系図を作り上げていきます。その過程で彼らは惟喬親王を自らのルーツとして定めたらしい。
天皇の子をルーツとしているのですから、彼らも当然天皇の地を引くことになります。なので彼らは立派な菊の紋章を使っていました。さらに全国各地に広がる平家の落人伝説の中でも山奥に伝わっているものは彼らがもたらした(もしくは作り出した)もの、という説もあったりします。
この木地師集団の本拠地は滋賀県の旧愛知郡(えちぐん)の小椋村(現在の東近江市)で現地には惟喬親王を祀る神社が2つあるのですが、京都市の北区雲ヶ畑(先ほど鯖街道のルートで出てきました)にも同じく惟喬親王を祀る神社があります。この地も大原の小野と同じく惟喬親王が一時期隠遁生活を送っていた地とされています。しかもこの地の近くには「小野郷」なる地名もあったらしい。
「小野」という一見ごく平凡な地名を媒介にして惟喬親王と源氏物語、さらには木地師の歴史とが結びつく!
小野篁や小野小町も含めて「小野」という名称にはなにやら神秘的な雰囲気がプンプン漂いますねぇ。
しかもそれだけではありません。じつはこの北区雲ヶ畑エリアにもツチノコの目撃情報が残されているのだ!
再び山本素石氏の著作から引用。今回は「山棲みまんだら」という著作から。
↓はこの書籍のアマゾンの商品ページ。こちらはツチノコネタを含めつつ山間部の農村に伝わる不思議な伝説・民話やその地で暮らす人たちの生活が取り上げられています。こちらも名作!
このマップは大原との位置関係も把握できる優れモノですが、著者の山本素石氏はこの地図にも書かれている「栗夜叉谷(くらしゃ)」という沢でツチノコと遭遇したらしい!
この地はツチノコ好きの間ではちょっとした聖地になっているようです(笑)
し・か・も、ツチノコの呼称の一つに「ノヅチ」があります。そして木地師は木槌・金槌を使う機会もあったはず。
かなり強引に平家の落人伝説と結びつければ平家物語ともつながる!
まさに神秘の世界と申すほかありますまい。
そう、冒頭では「まったく繋がりがなさそうな3つのテーマを強引に結びつけて書いた」と書きましたが、じつは繋がりがあったのだ!
ツチノコのところで「ツチノコの生息地は神秘の世界と重なる」と書きましたが、この京都の大原と雲ケ畑という惟喬親王伝説ゆかりの地においてもそれが証明されていることになります。この「ツチノコ=神秘の地に棲息」説はかなり真実味があるらしい。
どうやら、この神秘の生き物にはわれわれがまだまだ知らないことがたくさんあるようです。そしてツチノコを発見したければわれわれはより神秘の世界に足を踏み入れる覚悟が必要なようです。
そう、われわれとツチノコとの戦いはまだはじまったばかりなのだぁ!
…と、打ち切りマンガの最終回のような締めくくりになりました。
なお、本投稿のタイトルはもともと山本素石氏の名著にあやかって「逃すなツチノコ!」にする予定だったのですが、おそらくこのタイトルでは歴史好きの方は興味を持ってくれないだろうとの大人の判断で断念したのでした。
お読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできる範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。
このブログにおける普段の投稿と同路線、「神・仏・妖かしの世界」を舞台にした創作小説(おもに怪奇・幻想・伝奇・ファンタジー系)です。もしご購読いただければ光栄至極にて御座候。