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妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

Unmasked ~化粧の正体 若狭・丹後の化粧地蔵を追ってみた!

神さま/仏さまの像に色を塗りたくる(化粧をする)習慣が各地に見られます。有名なのでは青森・津軽地方の化粧地蔵と九州南部の田の神さぁ(田の神さま)がまず挙げられると思いますが、前者のルーツは京都の化粧地蔵だと言われており、現在でも京都の中心部においても路傍に白く化粧を施したお地蔵さまを祀った祠を見ることができます。

この京都の北部、旧丹後国やお隣福井の若狭国では京都中心部よりもさらにこの習慣が根強く残っているようで、先日わたくしが訪れた時にはあちこちで印象深いステキな像と出会うことができました。そこでこの化粧が施された仏像(以後化粧地蔵で統一)について書いてみることにしました。

の画像は八百比丘尼伝説でよく知られた福井県小浜市で見かけて撮影したものです。小浜市ではとくに化粧地蔵にまつわる行事・習慣(地蔵盆)がよく残されているようです。

とくにインパクトがあったのが↓の化粧地蔵群。八百比丘尼の住んでいた地と伝われる八百姫神社のほど近く。

カルフルなだけでなくハッピーな雰囲気を備えているのがこの地域の化粧地蔵の魅力だと思います。(それに比べて青森の化粧地蔵は少し深刻な印象)

一見して「?」な祠。近寄ってみると…

首だけ!

首だけのお地蔵さまの祠は向かって左側にあるものです。

↑こちらは八百比丘尼終焉の地として名高い入定洞がある空印寺の入口すぐ脇にあった小祠。

はこの地域の路傍で見つけたステキな化粧地蔵群。「ちょっと失礼します」と挨拶したうえで格子越しに祠の内部を撮影。

東大寺二月堂の「お水取り」の儀式とも浅からぬ縁がある若狭姫神社の向かい側にあったもの。ちょっと控えめ?

当地のお盆シーズンには地蔵盆という風習が行われており、毎年この時期になると子どもたちが化粧が施された仏像を持ち出して海水で洗ってその化粧を落としたうえであらたに彩色を施すのだそうです。

興味のある方は小浜市のホームページをご参照ください 

 www1.city.obama.fukui.jp

今回投稿した化粧地蔵もみな褪色や色が剥がれ落ちた様子もなくきれいな色をしているので、おそらく毎年塗り直されているのでしょう。

さらにかつては子どもたちが地蔵像を持って念仏を唱えながらあちこちの家を回ってお小遣いをもらって歩く...なんて習慣もあったとのことです。

この子どもたちが家々を回ってお小遣いをもらうスタイルは折口信夫が「さへの神勧進」と読んだ風習、さらに↓のような現在では民俗文化財にも指定されている「塞の神まつり」と共通したコンセプトをうかがわせます。

ja.wikipedia.org

まさに「日本版ハロウィン」とも言うべき面白い風習ですが、とくに↑の塞の神まつりでは祝儀が少ない家に対して災難を持ち込むとされる木偶人形が投げ込まれるというのですから、まさに「Trick or Treat」の世界。もっと過激で「Threat or Treat」か?🤣

もともと道祖神と地蔵は同じ役割を担うことが多く、しばしば習合していることからも小浜の地蔵盆とこれらの塞の神まつりが根っこの部分では同じコンセプトを持っていると見て問題ないのでしょう。

折口信夫の「さへの神勧進」という名称はまさにこの伝統が勧進行為を兼ねていたことを示しています。つまり子どもたちがその土地の信仰を維持するために必要な資金(祠や仏像の維持・修復など)を確保するために家々を回ってお金などを集めてまわる、そしてそのお駄賃としてお菓子なりお小遣いをもらう、というのがもともとの形なのでしょう。

折口信夫は随筆「石の信仰とさえの神と」において(青空文庫で読めます)この手の勧進行為をなぜ子どもが担当するのかについて生殖器信仰を挙げつつずいぶんと難しい意見を並べています。

しかしそんなに難しく考えなくてもしばしば道祖神と習合するお地蔵さまが子どもの守護神としての面を持っているとか、子どもはまだ半分神さま・仏さまの世界に属している(つまり道祖神のように2つの世界の境界線上にいる)といった基本的な概念でも十分説明できるように思えます。

いずれにせよ、この地蔵盆/さへの神勧進のシステムは現在のハロウィンよりもずっと合理的ですよね?子どもにとって楽しいイベントであるだけでなく共同体を維持するための取り組みにもなっている。

そして先述した「塞の神まつり」の「用意した祝儀が少なくて木偶人形を投げ込まれた家では災難が起こる」というコンセプトには塞の神のもともとの役割がよく現れているように思えます。

もともと塞の神(道祖神)とはある地域の境界に置かれたうえで外の世界からやってくる災いやケガレといったものが内部の世界に入りこむのを防ぐ役割を担っている神さま。それゆえにケガレや災いと接することになるため、道祖神そのものがケガレを負ってしまう面もある。

道祖神八百万の神さまの中ではあまり地位が高くないとされているのもおそらくそれが理由です。

この「ケガレを追い払う者は自身がケガレを負うことになる」という構図については、先日平安時代におけるケガレの概念をめぐる朝廷と武士の関係をメインに大江山酒呑童子伝説と絡めつつ書いてみたことがありました。

の投稿。ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

この「武士が朝廷に災いやケガレが舞い込んでくるのをその破邪/辟邪の武力でもって防ぐ。でもそのために武士はケガレを負うことになる」という図式と、

道祖神の「地域に災いやケガレが入り込んでくるのを防ぐ役割を担っているために身分の低い神とみなされる」という図式との間には共通点が見られます。

つまり、もともと武士には道祖神のような役割が求められていたのか?

そうなると、化粧地蔵の「毎年海水で化粧を落として彩色しなおす」という構図は「像/お地蔵さまに付着したケガレを洗い流して浄化したうえでその本来の霊力が十分に発揮されるに相応しいフレッシュな状態に戻す」という考えがおそらく含まれている。さらに洗い落としたケガレを海の向こうへと押し流すというコンセプトも垣間見ることができるでしょう。

そのため、「塞の神まつり」においてまだケガレを払っていない木偶人形は災いをもたらす危険な面を持ち合わせている状態にある、ということなのでしょう。

日本神話ではイザナキが死んだ妻イザナミを連れ戻すために黄泉の国へと出向いたものの、失敗して逃れた後に「ケガレた国へ行ったので禊(みそぎ)をしよう」と水の中で体を洗う(すすぐ)、というとても有名なシーンがあります。このみそぎのときにアマテラスオオミカミスサノオノミコト(ツクヨミノミコト)が生まれることになる。

化粧地蔵の化粧を海水で洗い流すという行為からはこの日本神話のシーン/コンセプトの残響が聞こえてくるようです。

また日本では長い間「島流し」の刑罰が実施されていましたが、これも罪を犯した者(つまりケガレを背負った者)を海の向こうに流すことで正常な状態を回復する、という面も持ち合わせていたと思われます。罪人を流すだけでなく、罪そのものも流す、という構図。

かくして、かつての過剰なくらいケガレを忌避し、清浄な状態を保とうと腐心した京都の朝廷と、現在まで(かろうじて?)受け継がれている一般の人々による伝統・風習とが見事に結びつく。

じつに奥が深い、と感嘆せざるを得ません。そしてこの化粧地蔵はまさしく京都発祥とされるに相応しい、「いかにも京都らしい」内容を備えていると痛感させられます。

この小浜の化粧地蔵にはそんな歴史の醍醐味が宿っているように思えます。

そして、こうした点を踏まえながら化粧地蔵/地蔵盆/塞の神まつりのコンセプトを見ていくと昔の人たちの信仰/風習には非常に優れた合理性が宿っているのがうかがえます。子どもを媒介に共同体を維持するための行事を実施し、災いの種を取り除いて地域全体の無事息災を祈り、さらに子どもたちに楽しい機会を提供する。

舶来モノのハロウィンで大騒ぎをしている場合じゃないぞ!みたいな。

「タイパ」や「コスパ」など合理性を重視する概念が猛威を振るっている一方で本来なら必要なもの、大事なものまで削ぎ落とそうとしている現代人が、昔の人たちよりも合理的などと言えるのでしょうか?

とまあ、疑念もよぎります。(念のために言っておくとわたくしは「昔の日本はよかった」「昭和の頃はよかった」などというタイプの人間では断じてありません。)

以下の画像は若狭国の西隣、丹後の国で撮影したものです。

は景勝の地でおなじみ天橋立の入口に位置する「日本三大文殊」のひとつ、智恩寺にあったものです。

は同じく智恩寺に境内にあった六地蔵のメイクアップバージョン...というか女性バージョン。これはかなりレアではないでしょうか。

舞鶴市細川幽斎の築城でも知られる田辺城址のすぐ近くにあったものです。

どれもこれも味があっていいですねぇ。

そうそう、東京にはお地蔵さまの顔におしろいを塗りたくる「おしろい地蔵」なるものがあります。こちらは化粧地蔵のように「洗い流す/落とす」ためのものではなく、美白や美顔のために「塗りたくる」のをメインのコンセプトとしているようです。

最後に、この記事のタイトルですが、これはアメリカのロックバンド、KISS(派手なメイクをしてプレイすることで有名)のアルバム「Unmasked ~仮面の正体」のパロディ(パクリ?😆)です。

「Unmasked」で「暴露する」「正体をあばく」みたいな意味だそう

すぐに気づいてくださった方、いますか?

もしいらっしゃったらお友達になってください😘。

 

 

里見vs北条の激戦の地にて異形の怪樹と遭遇す

は「賀恵渕のシイ(スダジイ)」。千葉県君津市

関東屈指の秘境線にして全国屈指の不採算路線として知られるJR久留里線のエリアにある巨木です。最寄り駅はそのJR久留里線小櫃駅(おびつ)。

一応八坂神社の境内にあります。「一応」というのは神社そのものがもともとこの樹を祀ることを前提に創建されたと考えられるから。説明板には「樹冠は境内の大半を覆っている」と書かれていますが、この樹木に合わせて境内が確保されている、といった方が適切に思えます。

現地の説明板

なんと言ってもその異形な姿に圧倒されます。写真でも十分にその異形さが伝わるのではないでしょうか?成長をはじめたかなり早い段階で斜め...というか横に傾いてしまい、しかもその姿勢を押し通して成長を続けてきた、みたいな。

パッと見は樹木ではなく動物系、それも化け物/怪物のように見えます。いまにも動き出しそう😲

あちこちに見られるこぶが目のように見えますし、横倒しに傾いて伸びている幹を支えている根が地表に露出しているような部分は手足が体を支えているようにしか見えません。四つん這いの怪物が今にも獲物に飛びかかろうとするように身構えているような。

しかも見る位置によって印象がかなり変わってくるうえに、どの位置から見てもやっぱり異形の姿をしています。

などは中央やや下に見える枝が切られてできた空洞が口に見えてなにやら雄叫びを上げているようにも見えるのですがいかがでしょうか?

はくぼみに入れられていたもの。これは...ぱっと見たところ金精さま(男根の姿で表される)に見えました。この樹の旺盛な生命力にあやかって、かな?

境内の隅っこにある社殿。これからして主役が巨樹なのが一目瞭然って感じ。

↑元禄期の庚申塔

は腕が生えて立ち入りを制限している柵の外に手を伸ばしているようにも見えます。そのすぐ左には切られた枝の切り株が見えますが、10年くらい前まではこれも腕のように伸びていたかなりインパクトがあったようです。

しかも樹勢もまだまだ旺盛、放っておけばさらに枝(手足?)をあちこちに伸ばしそうな印象。じつに頼もしい。

この巨樹のすぐ近くを駅名の由来になっている小櫃川(おびつがわ)が流れています。↓

こちらは上流側を見たもの

こちらは下流

この小櫃川は房総半島の南東部を水源として半島を北西に向かって斜めに横切る形で流れて最終的に東京湾に流れ込んでいます。長さ約88km、千葉県内では利根川についで長い川となっております。

この賀恵渕のシイの木が生えているエリアは戦国時代に里見氏と北条氏との間に激しい争奪戦が繰り広げられており、この川を小櫃を背負った兵士たちが船で頻繁に行き来していたことから「小櫃川」と呼ばれるようになった...との由来が伝わっています。

この巨樹から数キロほど小櫃川を遡ると里見氏と北条氏、さらに真里谷武田氏も絡んだ争奪戦が繰り広げられた久留里城(JRの路線名の由来でもある)がありますから、この地名由来もあながち伝説では片付けられない真実性を備えているように思えます。

のマップもご参照ください

久留里城からさらに上流へとさかのぼると現在では紅葉の名所としても知られる小櫃川を堰き止めて作られたダム湖亀山湖もあります。

JR久留里線そのものが小櫃川に寄り添うように走っている面もあるので「小櫃線」の方がふさわしい気もしますが。インパクトが弱すぎるかな?

里見氏は現代人の視点から見ると圧倒的有利に見える北条氏の攻勢に対してしぶとく抵抗を続けた大名、とのイメージが強いですが、それが可能だったのも東京湾制海権をかなり把握していた「海の大名」の面を持ち合わせていたからと言われています。

過去に何度かネタにしているので「しつこいよ!」とお叱りを受けそうですが、東京湾を挟んだ房総半島西部と三浦半島東部との間には古墳時代から交流・交易が活発に行われていた痕跡が見られます。

その点について少し触れた投稿を書いたことがあります↓ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

なお、小櫃川の由来に関してはヤマトタケルノミコト(ここでも登場!)がらみの伝説によるもの、という説もあります。↓は小櫃川Wikiページ。日本住血吸虫症についての歴史もあったりしてなかなかおもしろいです。

ja.wikipedia.org

そう考えると房総半島を斜めに横切る形で、それも久留里城をはじめとした要衝の近くを経由して東京湾へと流れ込むこの小櫃川は人の交通・物流両面において非常に重要な役割を担っていたことが予想されます。(ヤマトタケル、里見vs北条いずれの地名伝説においても海上交通との関わりがうかがえますし)

この川の河口には弥生時代にはすでに人が生活していた痕跡が見られ(菅生遺跡)、現在の状況を見ても河口のすぐ北側に房総と東京・神奈川を結ぶ「東京湾アクアライン(アクアブリッジ)」が架けられ(通され)、すぐ南には自衛隊の駐屯地がある。さらに対岸には羽田空港も!

↓こんな感じで。

こうした現在の地図からもこの川の重要性がうかがうことができそうです。

となると房総半島の覇権をめぐる里見vs北条の戦いにおいてもこの川(の交通権?)をどちらが制するかが大きな意味を持っていたはず。

...そんなことを考えつつ川辺にたたずんでいると今にも視界の向こうから小櫃を背負った兵たちを乗せた船が姿を現すのではないか(またはそのへんの茂みに伏兵や忍者が潜んでいるんじゃないか/)...なんて妄想も脳裏をよぎるのでありました。

ちなみに説明板では樹齢は不明とありますが、500600年くらいという資料も見られます。となると里見vs北条氏の激しい争奪戦が展開していた頃にはこの巨樹はすでにその体を大きく横に傾けつつ争奪戦の様子を見守りながら異形の姿へと成長を続けていたのでしょう。

なお、この小櫃川、かなりクネクネと蛇行しながら房総半島を横切っています。なので多くの「淵」がある。そしてそれほど川幅があるわけでもない。なのでこの河川名はもともと「小渕川(おぶちがわ)」であって、後になってヤマトタケルノミコトの伝説、あるいは里見vs北条の歴史と結びついて「小櫃川(おびつがわ)」に変わったのかもしれない...という説もちょっと考えてみたい。(「小櫃」の字を見たときに「おびつ」と「こびつ」のどちらをまず思い浮かべますか?)

そしてこの賀恵渕のシイよりもさらに南、上記にリンクを貼った投稿で触れた海蝕洞窟~古墳時代に首長の墓所として使用された痕跡がある~が見られるエリアよりもやや北には三浦半島と房総半島を結ぶ東京湾フェリーも運行されています。

この地域の交通の要衝は少なくとも1700年くらいの間あまり変わっていないのかもしれません。

...と言いたいところなんですが、では交通・物流の動脈として重要な役割を担っていたと見られる小櫃川に沿って運行されている久留里線が全国屈指の不採算路線になってしまっているのか?

自動車社会はこうした形においてもわれわれ現代人と歴史との関係を分断しようとしているのでしょうか。

あと南関東在住の方ならご存知かもしれませんが、このJR久留里線の始点/終点となる駅は「日本三大タヌキ伝説」で名高い證誠寺の狸囃子の舞台でもある木更津駅(木更津は港町でもある)。駅のホームで流れる発車メロディの曲も證誠寺の狸囃子、という筋金入りの「たぬきタウン」となっております。

 

 

房総半島の西端へ!~南総里見八犬伝と海の修験道の世界

曲亭馬琴(滝沢馬琴:滝沢は本名、馬琴はペンネーム。なので正確な筆名は曲亭馬琴。でも本投稿ではよく知られた滝沢馬琴で押し通します/)の代表作「南総里見八犬伝」はその名前の通り南房総をメインの舞台にした大長編作品ですが、その冒頭に登場するのが房総半島の西端にある洲崎神社です(当時は神仏習合で「洲崎明神」でしたが)

振り返るとすぐに浜辺。南国テイストたっぷりな入口。

洲崎神社&養老寺のマップ

後述する役小角を祀った岩屋の説明

この神門をくぐると拝殿へと続く長~い階段が待ち受けております。

でも振り返るとなかなかにいい景色

↑が拝殿。↓がその裏にある拝殿。色彩のコントラストがなかなかに印象的

「◯◯の一宮」と名乗る神社が複数ある、という問題はいろいろなところで見られますが、この安房国でも安房神社とこの洲崎神社の両方が「一宮」を名乗っています。

世間の認知度的には前者のほうが優勢ですが、洲崎神社の方はなんと松平定信のお墨付き!...というわけで↓はその定信の書だという扁額。

石橋山の合戦でボロ負けを喫した頼朝が安房国に逃れた後にこの神社を参拝、源氏再興を誓った...とも言われています。頼朝が笠を掛けたと言われる「頼朝笠掛けの松」...がかつてあったことを示す説明板もありました(近代まで残っていたらしい)

↑は2代目ってことなのか?

境内からはなかなかの絶景も拝めます

さらに海辺には空を飛んでこの地を訪れた役行者海上安全のために残していったというありがた~い御神石なんかもあります。

↑はちょっと見づらいですが御神石の由緒書。

正確には「南総里見八犬伝」はまず結城合戦(144041)の説明からはじまり、里見氏が南房総に拠点を構えるに至った経緯を語って作品の基本設定を用意したうえで、物語の発端がはじまる形になっています。この作品はファンタジー作品といってもよい内容ですが、冒頭で史実を語りつつ(&その後の物語の伏線もちりばめつつ)、そのままスムーズにフィクションの世界へと移行していくなかなか心憎い演出と言えるかも知れません。

で、導入部に続いて物語の発端となるのがこの作品の悲劇の主人公とも言える伏姫3(数え年)になったときのエピソード。この歳になってもいまだ言葉を発することもなかった娘を心配した伏姫の母が霊験著しいと評判だった洲崎明神にある役行者を像を祀った窟に娘を参拝に行かせることにしました。

洲崎明神にて無事参拝を済ませたものの、その帰り道で伏姫が急にむずがり出して手に負えなくなってしまいます。同行していた乳母や従者たちが困っているところにひとりの翁が現れ、伏姫の素性を一目で看破したうえで「この子は呪われている」と告げます。そして「これを護符に」と8つの珠が連なった数珠を手渡すなりその場を立ち去り、あっという間に跡形もなく消え去ったのでした。乳母や従者たちは不思議に思いつつ、伏姫のむずがりがすっかり収まっていることに驚いたのでした。

この8つの珠がその後物語が展開していくうえでの重要な道具立てになるわけですね。

つまり、この謎めいた翁はこの世に降臨した役小角であり、彼が伏姫に加護を与えたことが示唆されていることになります。

そんな洲崎明神の役小角の像を祀った窟が現在でも残っています。この洲崎明神は明治の廃仏毀釈によって洲崎神社と養老寺に分裂するような形となりましたが、現在でも上記の案内板のマップにあったように事実上一体の施設となっており、当の窟は養老寺の境内にあります。

ちゃんと八犬伝絡みの説明も

もちろん南総里見八犬伝はフィクション作品なわけですが、もう200年近く前に書かれた作品の舞台となった場所をこうして現在でも見ることができるのはなかなかに嬉しいものです。いわゆる聖地巡礼ってやつ? 例えば同じ八犬伝の有名なシーンの舞台となった「芳流閣」は古河御所をモデルにしていると言われていますが、もはやロマンに浸る余地などまるでない、ほんのちょっぴり痕跡が見られるのみです。

戸が閉め切られていたので像はかなり見づらい

さて、基本的なところで役小角とは何者か?

修験道における伝説上の創始者として知られているわけですが、では修験道とは何か?

窟の説明にあるようによく「山の宗教」と評されます。それで間違いないわけですが、しかし千葉県と言えば県内最高峰の標高が国内でもっとも低い(愛宕山408メートル)の通称「山無し県」()。ちなみに東京都の最高峰は雲取山、標高は驚くなかれの2017メートル。西日本最高峰と言われる石槌山の標高が1982メートル。

東京は23区だけじゃないぜって感じ?😁

どうして山無し県の千葉に役小角が登場するのか?それは修験道とは必ずしも「山の宗教」だけでなく「海の宗教」の面も持ち合わせているから。

この「海の修験」でもっともよく知られているのは神奈川県の江の島でしょうか。現在では弁財()天への信仰や龍神伝説に埋もれてしまっている印象もありますが、もともとは役小角修験道場として開いたのが霊場としてのはじまり、とされています。平安末期に怪僧として名高い文覚が源頼朝の依頼で江の島の岩窟にこもって怨敵調伏の祈祷を行ったのもこの地が古くから修験の霊場であったからこそ、だったのでしょう。(皮肉にもこのとき文覚が弁才天を勧請したせいで以後すっかり「弁才天の島」になりました)

そもそも修験道とは擬似的な死と再生のコンセプトを土台とした宗教だと思います。人里離れた地(山中や洞窟の中)にこもることで擬似的な死の世界に足を踏み入れ、その世界において修行・苦行をすることで神秘的な験力を手に入れ、修行を終えてその世界から帰還を果たすことで復活する。

なので山でも海でも修行に適した擬似的な死の世界があるなら修験道は実践できることになります。そして修験道における洞窟とはあの世とこの世とを行き来することができる通路でもある。修験の聖地や霊山によく見られる「胎内くぐり」はそんな修験の「死と再生」をコンパクトに表現したものでしょう。「胎内」、つまり生まれたところを通って死の世界に「戻り」、再び生まれたところを通って復活する、という形。

江の島の岩屋のような海蝕洞窟の場合、浸蝕によって生じた内部のヒダ状の岩肌が女性の性器を連想させるので「死と再生の場」としてピッタリだったらしい(禁欲して修行中の修験僧たちはそんな洞窟内で何を妄想していたのか?とツッコミを入れたくなりますが/)

以前、南房総には海蝕洞窟がいくつかあり、その中には火葬によって埋葬したと考えられる首長の墓として使われていたところもある、と紹介した記事を書いたことがあります。

これ↓。ご一読いただければ幸いです。「前に読んだよ」という方、ありがとうございます。

aizenmaiden.hatenablog.com

この墓所として使用された海蝕洞窟の存在は修験道が誕生する前から「洞窟の向こうに死後の世界が存在している」というコンセプトが存在していたことを示唆しています。

もともと日本人の死生観(他界観)はごちゃごちゃに入り乱れており、日本神話でも「根の国」は地下世界としてのイメージと海の向こうある世界としてのイメージが混在している様子がうかがえます。加えて日本人にとってもっとも馴染み深い「異界」はやはり山。

ですから日本人の「あの世」とか「異世界」は「上()」と「下(地下)」、「あっち(海の向こう)」の3つが存在している。そしてこの3つを違和感なく結びつけるのが洞窟なのでしょう。

この里見八犬伝に登場する洲崎明神(現養老寺)の窟もそんな異世界との通路のひとつだったのでしょう。また南房総には鎌倉と同じ「やぐら」があちこちに見られます。鎌倉のやぐらもかつては墓所だったことを考えても、「洞窟の先に死の世界がある」というコンセプト、さらに海辺の地における「海の修験」の存在と「海と死後の世界とのつながり」は日本の歴史において無視できないものなんじゃないかと思います。

里見八犬伝と言えば、伏姫が犬の八房と「結婚」する形で山(千葉県南房総市にある富山(とみさん))の洞窟にこもるエピソードがとりわけよく知られています。つまり海辺の岩屋から現れた役小角からの加護を受けた伏姫が山の洞窟(岩屋)にこもり、最終的にその地で命を落とす...という構図になっています。さらにその死の際に8つの珠が持ち主の元へと飛び去っていく。

ですから伏姫を中心に発展するこの物語の導入部は海の修験からはじまって山の修験で締めくくられる、という形になっていると思います。

この富山の洞窟は実際にあって「伏姫籠穴」と名付けられて観光スポットにもなっているのですが...2019年の台風被害でハイキングルートが通行止め状態になっていたのですが、ようやく解除されたそうで。わたくしまだ行ったことがないのでそのうち行こうかな、と思っております。

この富山の東に「房総のマッターホルン」の異名をとる(ちょっと強気に出過ぎな気も/失礼😆)伊予ヶ岳(336メートル)があり、この地には天狗伝説も伝えられています(ちゃんと山の修験もあるのだ!)。そしてさらに東には先述した県内最高峰、名前からして天狗伝説と直結する愛宕山(408メートル)があります(現在天狗ならぬ自衛隊が駐屯)

つまり、富山ならびに伏姫籠穴は「山の修験」「山の異世界」の入口のような立地にある...と見ることもできます。おそらく滝沢馬琴はこうした立地条件を意識してこの地を大事な場面の舞台としたのではないでしょうか。

里見八犬伝ですが、なにしろ30年近くにわたって書き続けられた大長編、しかも現代訳の全訳がいまだ存在しない...という源氏物語以上にハードルが高い作品。その代わり、抄訳や抜粋した作品が多数出ています(わたくしもこの形でしか読んだことありません)

どれでもよいと思うのですが、個人的には↓の本をおすすめしたいです。

南総里見八犬伝 全4巻 浜たかや・著 偕成社

そう、八百比丘尼も悪役として登場するのです!

大長編を12冊くらいにまとめるのはさすがにちょっとカットしすぎ、4冊のこのシリーズは分量的にもほどよく、内容も面白いですし、たくさん登場する人物やその相関関係も把握しやすく、表紙&挿絵もクール。子供向けですが、「八犬伝ってどんな話だったっけ?」という方におすすめです

この南総里見八犬伝15世紀なかばの関東地方を舞台にしています。この時代は「享徳の乱」と呼ばれる大混乱の時代で、この物語でもそんな戦乱の状況が描かれています。

享徳の乱と言えば近年になってこれが戦国時代の発端になった、という説が有力視されるようになってもいます。歴史研究において奈良・京都中心史観の見直しが進んでいる影響でしょうか。

ただこの「享徳の乱=戦国時代のきっかけ」という説はじつは新説でもなんでもなくて、江戸時代には通説だった可能性もあります。

現代の戦国時代のイメージは信長登場(桶狭間の戦い)以降の後期にちょっと偏りすぎていますよね? また明治以降の皇国史観による影響が現在でも根強く残っていると思います(先述した奈良・京都中心史観とか、楠木正成のかっこよすぎるイメージとか)

おそらく江戸時代はおそらく状況はかなり違っていた。当時の状況から考えて徳川や豊臣が出てこない戦国前期のほうが話題にしやすかったというのもあるでしょうし、関東の場合、戦国末期は小田原北条氏が優秀だったこともあって他の地域に比べて安定していたのでネタが少ない面があったかもしれません。

いずれにせよ、当時の少なくとも江戸の人たちの間では戦国時代と言えば享徳の乱長享の乱の時代、という認識が多少はあって、だからこそ馬琴もこの時代を舞台に八犬伝を書いたと考えてもそれほど妄想じみてはいないと思います。またこの八犬伝がヒットして広く読まれたことでこの認識がさらに強められた面もあったのではないか?

そしてそんな時代を舞台にした里見八犬伝には鎌倉時代に活躍した一族(の末裔)も登場します。関東屈指の名門、千葉氏の千葉自胤(よりたね)が悪役として登場、読んでいると「ああ、あの関東の名族がここまで没落しちゃったのか」などと切ない気分にさらされます。

さらに戦国後期には歴史から姿を消している関東の名族、豊島氏もちょこっと登場しますし、里見氏と浅からぬ因縁がある「房総の武田氏」こと真里谷武田氏なんかも出てきます(伏姫の母親がこの一族出身という設定になってる)

彼らの名前を見ると「ああ、この頃彼らはまだ現役だったのか」などとまるで引退したスポーツ選手の現役時代の懐かしい映像を見たような気分に陥ります(戦国時代への視点が後期に偏っているのがバレバレ🤣)

あとこの南総里見八犬伝についてはよく「水滸伝」を土台にしていると言われていますが、中国の古典文学や現代の武侠小説などに見られる(良くも悪くも)荒唐無稽&破天荒な面やあまり見られず、(良くも悪くも)リアリズム重視の日本的なスタイルな印象。またヤマトタケルノミコトの神話まで遡る「秀でた力を持つ者は女装も似合う美青年」という原則も導入されている(中国文学では反対に男装の美女が多い気がします)。そして先述した修験道の存在。こうして見てもちゃんと「日本化」した内容だと思います。

なお、伏姫と八房が結婚する異類婚のテーマについては「捜神記」(干宝作:4世紀)にそっくりの話が出てきます。

ある評論家による「たしかに馬琴は中国の古典文学からアイデアを拝借しているが、それらのどれよりも馬琴の作品のほうが面白い」という意見を読んだことがあります。この意見にもかなり説得力があるように思えます。

話がちょっと離れますが、↓は観光名所として知られる千葉県館山市の館山城のほど近くにある巨樹、「沼のびゃくしん」。推定樹齢800年。

いい感じでねじくれていて威圧感と風格を兼ね備えた素晴らしい巨樹です。

史跡&観光スポットとなっている館山城は事実上の里見八犬伝博物館となっており、城好きよりも古典文学好き向けの施設だったりします。当地を訪れた際には享徳の乱の時代の関東の混乱も見届けていたであろうこの巨樹もぜひ。

「そうか、この巨樹は里見方として戦った八犬士と足利成氏との戦いも見ていたのかも知れないな」

などとフィクションと史実がごちゃごちゃになったロマンを味わえると思います。

 

 

 

大江山へ!源頼光&四天王の素性に迫る!~後編

酒呑童子絵巻」 根津美術館所蔵

というわけで後半です。前編を読んでくださった方、ありがとうございます。

前編ではもともと武士とは「破邪/辟邪の力」を朝廷から期待されており、その力でもって災厄やケガレが朝廷に降りかかるのを防ぐ役割を担っていた。酒呑童子伝説で有名な源頼光とその子孫が代々任じられていた「大内守護」という役割においても現代的な警備員や近衛兵とは違い呪術的な力も求められており、それこそ本来の意味での「武力」であった...しかしそれも鵺退治でおなじみの源頼政が打倒平家に挙兵して敗死したのを機に「武力」といえば「破邪/辟邪」ではなく現在の我々が思い浮かべる暴力的な力が主流になっていく...みたいなことを書きました。

しかしそうした朝廷と武士との関係は完全に消えてしまったわけではなく、その後も細々とながら受け継がれていったようです。例えば、源平合戦のすえに成立した鎌倉幕府は武士政権である幕府が朝廷を守る、みたいな立ち位置を持っていました。というかどうやら朝廷周辺の貴族たちはそうみなそうとしていたらしい。「愚管抄」の著者にして天台座主、そして九条兼家の弟でもあった慈円なども朝廷と幕府との関係を「武士が朝廷を災いから守る」図式に当てはめようとしていた様子がうかがえます。そうすることで権門の貴族たちはどうにも避けられない時代の変化の衝撃を自分たちにとって都合の良い形で解釈して受け入れようとしていたのでしょう。

つまり、かつての「大内守護(この役職は頼政の死後も彼の子どもに受け継がれますが)が朝廷を破邪/辟邪の力でもって災いから守護する」という構図が「将軍(その名も征夷大将軍)がその暴力的な力でもって朝廷を災いから守護する」構図に変化しただけ(少なくとも貴族たちの脳内では)。「なんだ、大して変わってないじゃんか」と無理に自分を納得させようとしていたのかもしれません。

いわゆる「脳内補整」ってやつでしょうか。

平安時代における征夷大将軍の代表格である坂上田村麻呂からして鬼退治の伝説がいくつも伝わっているのも大内守護と征夷大将軍との間にそれほど大きな違いはなかった(少なくとも朝廷の人たちはそう見ていた)ことがうかがえるように思えます。

そんな彼らの幻想は鎌倉時代まではなんとか維持できていたと思うのですが(モンゴル襲来という究極の「災厄」も坂東の武士(と神風?)が防いだわけだし)、それも後醍醐天皇の登場によって激変。

楠木正成名和長年といった当時の社会にうごめいていた素性のよくわからない「夷」に属する人々を直接取り込んだ後醍醐天皇が鎌倉政権という朝廷が「内部に抱え込んだ夷」を滅ぼすことによってこの幻想は完全に崩壊することに。(持明院統大覚寺統による皇統分裂に際して鎌倉幕府ができるだけ穏当に対処しようとしていたことを思い出されたし)

自らの手による天皇親政を目指すために長い間続いた朝廷の秩序そのものを破壊しようとした後醍醐天皇の大胆さには改めて驚かされるわけですが、そんな彼の目論見もあたかも幻想に過ぎなかったようにほどなく崩壊。その後南北朝の騒乱を経て最終的には足利義満によってこれまでとは大きく異なる形で朝廷と幕府の関係が築き上げられることになります(それが義満が本当に望んだ形だったのかどうかは別として)

歴史上初の武家政権となった鎌倉時代を軽視するつもりはありませんが(とくに承久の乱)、よく言われるように建武政権南北朝にかけての時期は日本の歴史上において非常に大きな変化の時期、地殻変動のようなものが起こっていた重要な時代だったように思えます。

酒呑童子伝説&頼光四天王から話がかなりずれてしまいましたので軌道修正。

頼光&渡辺綱のコンビに関しては酒呑童子伝説とともに土蜘蛛退治の伝説がよく知られています。この伝説にはいくつかのVerがありますが、今回は「土蜘蛛草紙」バージョンを。東京の国立博物館には14世紀に作られたこの絵巻が所蔵されており、しかも撮影可能なのでこれをベースにします。

京都の蓮台野において頼光&渡辺綱の主従は空を飛ぶ不気味なドクロと遭遇、それを追っていくと強大な顔を持つ尼、奇妙な鞠のような白雲を投げつけて襲いかかってくる美女、体長60メートル()の鬼などの異形のモノ達と次々と遭遇、最後は土蜘蛛と対決し見事に首を切り落として退治することに成功する。

...これが基本的な筋書きですが(平家物語では発端が頼光が病気になったところに化け物が襲いかかってくる形になっています)、絵が非常におもしろい。わたくしの撮影の不手際でちょっと見にくいですが、ぜひ楽しんでいただきたく候↓

モノノケを描いた中世の絵巻物のほとんどに共通した特徴である「人間よりモノノケの方が明らかに気合い入れて描かれている」原則にも忠実、身長1メートル、うち顔の長さが66センチ()の尼さんのインパクト!「たとえようもない美女」と書かれた白雲を操る女性の目がイッちゃっているような表情、落ち武者と河童の出来損ないみたいな異形の鬼たち。

じつに素晴らしい。ラスボスの土蜘蛛が地味に思えてくるくらい。

この土蜘蛛退治の功績によって頼光は摂津守に、渡辺綱丹波守に任じられたのでした。

めでたしめでたし。

京都にはこの土蜘蛛を葬ったとされる遺物が東向観音寺(北野天満宮のすぐ近く)と上品蓮台寺2か所にありますが、どちらも近代に入ってから元の場所から移動されたものです。上品蓮台寺にある蜘蛛塚(かつてはもう少し南にあったらしい)は上記の土蜘蛛草紙の舞台にもなった蓮台野にあるうえに船岡山の近くでもある。

↑は東向観音寺の土蜘蛛灯籠。現在当お寺は写真撮影の制限がとても厳しいようなので訪れる際にはご注意ください。

↑は上品蓮台寺の「頼光朝臣塚」。この説明板にある土蜘蛛に斬りつけたという「膝丸」が後述する「薄緑」です。源義経によって現在の名称に変更されたと言われています。

船岡山と言えば保元の乱後の処理で平城太上天皇の変(薬子の変)以来じつに約350年ぶりの死刑が行われたとされる場所(それも後述する頼光が土蜘蛛を斬る際に使ったとされる刀を受け継いでいた源為義が斬首される)、というのも何やら因縁じみておりますね。

土蜘蛛退治の功績によって頼光が摂津守に任じられた点については実際には頼光の父満仲の時代にはすでに摂津守に任じられており、多田の地を本拠としていました。しかし恐ろしい化け物を退治したこの二人が京都の西側の地の国司となったというこの伝説の内容には「破邪/辟邪の力」を期待されていた当時の武士の役割がよく現れていると思います。

京都の4つの境(四堺)のうち2つ、大枝(おおえ)と山崎がこの摂津・丹波国にあります。しかも大枝(現在の亀岡市老ノ坂峠)には酒呑童子首塚を祀っているとされる首塚大明神なる神社があります(よく知られている酒呑童子伝説のVerでは童子の首は宇治の平等院に収められている)

そして京都から見て丹波を越えた先の丹波丹後国の境に大江山がある。

ついでに京都から摂津、丹波を超えてはるか北西の先に後鳥羽上皇(この人は源実朝を過剰に「朝廷に抱え込んだ夷」として手懐けようとした形跡もある。おそらくそれが実朝暗殺と承久の乱双方の遠因になっていると思います)後醍醐天皇が配流された隠岐国があります。

地図で隠岐と京都の位置関係を見るといかにも「もう二度と京に戻ってこないでね」という朝廷(と幕府)の偽らざる心境が見てとれるような気がします。(四堺の残り2つ、逢坂と和邇を越えてはるか北東(鬼門)にあるのが佐渡ですね。ちなみに酒呑童子の出身地に関しては新潟説もけっこう知られています)

つまり、この伝説における頼光の摂津守と渡辺綱丹波守就任からは西&北西方向から京都に向かって迫ってくる災厄やケガレを彼ら(つまり武士が)ブロックする役割が期待されていた事情が見て取れます。そしてこれは平安時代において当時の武士に求められる役割がそのまま反映されたと見ても考えすぎにはならないと思います。

ちなみに渡辺綱が属していた渡辺党は摂津国を本拠にしていましたが、当地の大江御厨(みくりや)の管理を担っていました。そして頼光は言えば大江匡衡と親交があったらしい。大江匡衡のひ孫にあたる大江匡房は頼光のことを武士として「これ天下の一物なり」と評価していたりもします。

日本人の言葉遊びへの傾倒ぶりから考えてこうした「大江つながり」が後世の酒呑童子伝説の形成・構築の原動力になった可能性も十分に考えられるのではないでしょうか?そもそも源頼光が後世に広く知られるようになった背景には名の「頼光(らいこう)」が「来光」「来迎」「雷公」などの響きに通じるおめでたい印象があったから、という説もありますので。

最後に、これまで挙げてきたように平安~鎌倉にかけて武士の「武力」が「破邪/辟邪の力」から「暴力的な力」へと急速に比重がシフトしていき、室町時代に前者の方がかなり失われてしまったわけですが、この「破邪/辟邪の力」はその後人からモノへ、日本刀へと担い手が変化していったようです。

「破邪の力を備えた武士が災厄をもたらすモノノケを退治する」から「破邪の力を備えた刀を振るう武士がモノノケを退治する」時代へ。化け物退治の主役が武士から日本刀に移っていく傾向が見られます。

そしてこの移り変わりとともに「妖刀伝説」というジャンルが生み出されていく。一方で戦国末期くらいからは「破邪/辟邪の力」を完全に失った、あくまで剣術の技量が評価される「剣豪伝説」も生まれるようになる。

室町時代と言えば「百鬼夜行絵巻」が描かれた時代。これは実質的にはモノに魂が宿った「付喪神」を描いた作品です。この「モノに魂や霊力が宿る」という考え方はもっと古い時代から日本人の間で共有されていたと思いますが、室町時代はそれが新たな段階に足を踏み入れていった時代だったのかも知れません。

というわけで、↓は有名な「童子切安綱」。写真撮影OKなありがた~い東京国立博物館所蔵。

この「童子切安綱」は酒呑童子を斬った伝説的な刀として、さらに「天下五剣」の一振りとしてもよく知られています。

さらに↓は頼光&渡辺綱が土蜘蛛を退治したときに使ったとされる「薄緑丸...の写真()箱根神社所蔵の刀です。源義経が兄頼朝と和解するために鎌倉を目指した際に箱根神社に立ち寄り、願をかけるとともにこの刀を奉納した...というなかなかに魅力的な由緒を持っています。

同じ伝承を持つ刀として京都の大覚寺が所蔵する「薄緑」が広く知られていますが、こちらの薄緑丸もお忘れなきよう()。数年前に國學院大學博物館でこの刀が展示された際に撮影不可だった実物の代わりに現地にあった宣伝用のタペストリーを撮影したものです。

この薄緑(どちらが"本物"かの真贋は問わない)は頼光のエピソード以来、源氏重代の名刀として受け継がれてきたことになっているのですが、いつのまにか頼光の一族(摂津源氏)から義家の一族(河内源氏)に持ち主が移行しています。このあたりにも「破邪/辟邪の力」から「暴力的な力」へと武士の役割がシフトしていった状況が反映されているように思えます。

今回の投稿はもっぱら酒呑童子伝説に登場する頼光&四天王の側からアプローチしてみたものでした。なので肝心の主人公たる酒呑童子について触れる機会がほとんどありませんでした。「伝説についてぜんぜん触れてないじゃんか」とのツッコミも受けそうですが。

しかし、まだわたくしと大江山の鬼たちとの戦いはまだ始まったばかり。

酒呑童子から見たこの伝説も非常に面白くて、よく知られた伊吹山バージョンの存在のほか、酒呑童子の生い立ち(生まれた頃から異形の乱暴者で行く先々で厄介者扱いされた)武蔵坊弁慶とよく似ているなど、興味深い点が多々あります。

こうした話はいずれ、わたくしか再び大江山に出向いて見事鬼退治(登頂)に成功したときにでも書いてみたいと思います。

いつになることやら…

大江山には酒呑童子伝説の他にもいくつか鬼にまつわる伝説が伝えられており、ゆかりのスポットなども見られます。ある伝説が生まれた場所に同種の伝説が上書きされるように作られていく...という重層構造も面白いですね。

そして今回のわたくしの大江山登山ですが、厳しい自然の洗礼の前に無念の途中下山を強いられているときにヤマトタケルノミコト伊吹山の神との戦いと挫折の物語がわたくしの脳裏をよぎりました。彼も伊吹山の神の迎撃を受けて大雨&吹雪にさらされ命からがら下山することに。

「そうか、今自分はヤマトタケルノミコトになっているのか...」と。

往路は頼光と四天王、復路はヤマトタケルノミコト、一回の登山で2通りのヒーロー気分を味わえたわけですから、「一粒で二度おいしい」と強気一辺倒の総括も可能になるわけですが...そんなわたくしの脳裏にさらにある考えがよぎりました。

「そういえば酒呑童子伝説って伊吹山バージョンもあったよな」

そう、おそらく、過去にも大江山登山においてわたくしと同じようにしんどい思いをした人たちが多数おり、その下山中にヤマトタケルノミコトになりきって自己陶酔にひたった人たちがいた。そしてそんな人たちの間で大江山伊吹山がごちゃごちゃになっていった…

これが酒呑童子伝説において大江山バージョンと伊吹山バージョンが存在する理由である!

いずれ投稿するつもりの酒呑童子伝説の投稿における早すぎる前フリとして、これを大胆不敵極まりない意見として提唱しておきたいと思います。

 

大江山へ!源頼光&四天王の素性に迫る!~前編

勝川春亭「頼光朝臣酒呑童子オ退治之図」

先月末、京都府福知山市にある大江山へ鬼退治へ出かけてきました。

当日の天気予報は朝方まで曇り、午前の半ば過ぎくらいから曇りになる...だったのですが、朝から降り続けていた雨は止む気配はおろかどんどん強まり、有名な鬼嶽稲荷神社に到着するころには暴風&雪に見舞われる始末。

雲海が見られることで知られる当神社前の絶景スポットでは霧&もやで何も見えず(というか強風にあおられて立ってられなかった)、もう少し先に進めば大江山の主峰、仙丈ヶ岳まで(酒呑童子が住んでいたと言われる「鬼の洞窟」も)行くことができたのですが、「さすがにこれ以上はちょっとマズい」と判断して志半ばでの下山となったのでした。

↓がそんな大江山の様子

大江山の麓にある元伊勢内宮皇大神社の入り口付近で撮影。この段階では「これは下手に晴れているより風情があっていいんじゃないの?」などとまだ余裕をこいていたのですが...

 

道中では楽しそうな鬼がお出迎え

観光スポットにもなっている新童子橋が増水のために通行止めに。このあたりから「ちょっとヤバいんじゃないの?」との考えがよぎるも気づかなかったことにして先へと進む。

鬼退治に出向いた源頼光が腰掛けたと伝わる「頼光の腰掛岩」

鬼の足跡。意外に(?)小さい?

このあたりを歩き回っていたときに濡れた石に滑って転倒。雨対策に装着していたシリコン製のシューズカバーが破れて雨水が靴の中に浸水開始。「おい、これが避妊具だったら訴えられてるぞ!」といささか品のない罵声を浴びせつつ進軍続行。

そんなこんなでようやくスタート地点の登山口に。この段階でわたくしのやる気はすでに
ストップ安状態に近づいていましたが、それでも先へ。

鬼の交流博物館とその目玉とも言える世界一の巨大鬼瓦。無情の臨時休館でしたが。なんでも館内の照明をLEDに切り替える工事をしているんだとか。鬼がエネルギー問題に配慮する時代になったか...地球規模で考えれば人間も鬼も運命共同体である...とかなんとかブツブツと自分を納得させつつさらに先へ。

どいつもこいつもうまそうに酒飲みやがって!こっちも飲まなきゃやってらんねーよ!...おっとっと、ここで飲んだら酒呑童子になっちゃうのか...などど自戒しつつメインルートからちょっと外れて「鬼のモニュメント」が建つ場所を目指す。

巨大鬼瓦と並ぶ大江山の「顔」、鬼のモニュメント。というかこの段階で風雨がすごくて見上げるのがしんどい状況に。写真もたくさん撮りまくってうまく撮れたものを選びました。下手な鉄砲も数撃ちゃあたる。英語で「撮影する」は「Shoot("撃つ"という意味も)」ですが、ああなるほど、と妙に納得。

相変わらず楽しそうな鬼たち

ようやく鬼獄稲荷神社に到着。なんとかたどり着くなり眼前に音を立てて吹きすさぶ殺伐とした吹雪の光景を目の当たりにすることになったわたくしの心境を察していただきたい。

初秋の早朝に雲海を見ることができるという絶景スポット...って「何も見えねぇ!長谷川等伯かよ!」と見るなりツッコミを入れてしまいました。というか強風にあおられて立っていられず。

とまあ、要所要所で一人ボケ、一人ツッコミを駆使して自らを鼓舞しつつ鬼嶽稲荷神社まではなんとかたどり着くことができたのでした。

おそらくこれはヒーローの襲来にビビった大江山の鬼どもが天候をコントロールして迎撃に出たのでありましょう。

今回のところは仕方なく撤退、いわば緒戦は痛み分けという形になったのでした。

...どう見てもお前の完敗だろ!」って思った人いるでしょ?

そんなわけで今回の投稿では酒呑童子伝説にちなんで「源頼光と四天王とは何者か?」をテーマに追ってみることにしました。

は日本の鬼の交流博物館にあった頼光&四天王御一行(藤原保昌も含む)の像。

源頼光の四天王と言えば知名度バツグンの渡辺綱坂田公時、そしてちょっと落ちて卜部季武碓井貞光4人。このうち碓井貞光は平貞光とも呼ばれ、三浦氏や千葉氏、上総氏など数多くの関東の有力武士の一族の先祖である平良文の子どもとされています。

彼の姓「碓井」は生まれ故郷とされる碓氷峠を由来としています。有名な群馬と長野の間にある碓氷峠ではなくて、神奈川県にある方です。

そして坂田公時はご存知足柄山(足柄峠)の金太郎。この碓氷峠(しばしば2つの碓氷峠が混同されつつ)足柄峠はいずれも東西の境界線となっていたらしい。二人はこれらの峠を越えた坂東の地生まれの人物という設定になります。

さらに渡辺綱武蔵国足立郡出身。

卜部季武についてはよくわかりませんが(卜部氏は伊豆がルーツなんて説も)、この四天王たちの出自を見ると東国との関わりが非常に深い。

東国出身の猛者どもが恐ろしい鬼退治に出向く…

この構図からはかつての京都の朝廷の視点から見た「夷を以て夷を制す」的な発想が見て取れるのですがいかがでしょうか?

もともと酒呑童子の物語が展開する平安時代においては武士そのものが「朝廷が身内に抱え込んだ夷」みたいな立ち位置だったわけですが。

この時代における「武力」には単に武器を振るって戦い力(つまり暴力)の力だけでなく、災厄や災厄をもたらす存在(鬼に代表される)を退ける「破邪/辟邪の力」も求められていた...というかおそらくこっちのほうがメイン。武士にとってのメインの武器が長い間刀...ではなく弓矢であり、この弓矢が鳴弦や鏑矢など魔除けの力を備えていたのもその証となるでしょう。

源氏と言えば頼光の弟にあたる頼信やその子・孫の頼義・義家親子の一族(河内源氏)があたかも源氏の主流のような扱いを受けている面もありますが、これはあくまで後の話、それも現代の武力のイメージが「暴力的な力」に著しく偏っている視点から見た話。少なくとも平安時代までは朝廷に降りかかる/襲いかかる「魔」や「厄」を撃退する役割を担っていた頼光とその子孫たる「摂津源氏」もまた武門ほまれ高い一族として見られていたのは間違いないでしょう。

頼光は「大内守護(おおうち/たいだい)」という内裏を守護する職に任命されています。この「内裏を守護する」役割を現在の警備員/近衛兵のようなイメージで見てしまうと頼光一族の役割や地位、当時の朝廷における「魔」や「厄」との接し方が見えなくなってしまうでしょう。

その後この大内守護の職は頼光の子孫に受け継がれており、鵺退治でおなじみの源頼政もこの役職に就いていました。彼がなかなか昇殿を許されないでいたことを朝廷に訴えるために詠んだとされる↓のような歌もあります。

「人知れぬ 大内山の山守は 木隠れて(こがくれて)のみ 月をみるかな」

この「大内山の山守」とは大内守護のこと、そのうえで「そんな地位にいるわたしだけど、宮中の月を木々の茂みに隠れて(木隠れて)見ることしかできない」みたいな意味でしょうか。

そんな役職についていた頼政が鵺退治をするのもこの役職に「破邪/辟邪の力」が大いに期待されていたことを暗示しているのでしょう。

一方、こうした朝廷に降りかかる災厄を退ける役割は同時に災厄をもたらす「ケガレ」と直接関わることを意味していました。そのため朝廷をケガレから守る重要な役割を担いつつも朝廷から遠ざけられていた面もあったようです。昇殿なんてもってのほか。

まさに「朝廷が内部に抱え込んだ夷」。

平家では平忠盛が昇殿を許されて「破格の出世」とも言われ、当時の他の殿上人たちから批判されたと言われていますが、この「破格の出世」も単に身分や家柄といった視点だけでなく、「もともとケガレを背負っていた連中がなぜ?」みたいな面もあったと思います。これは清浄な空間を保つという朝廷の最も基本的な部分(院政時代に入った段階でこの点はかなりないがしろにされていましたが)を否定しかねない面があったので貴族たちは警戒心を抱いたのかも知れません。

武門出身者では頼光も昇殿を認められており、次がおそらく平忠盛、そして先述の歌で頼政が昇殿を認められました。彼はその後別の歌を詠んでアピールすることでついに念願の従三位に昇格、「源三位」と呼ばれることになります。

話が少しそれますが、この頼政の「歌で出世した」史実も単に「彼は貴族的な教養に恵まれており、朝廷社会でうまく出世できた」と見ると摂津源氏の役割が見えづらくなってしまうと思います。もともと歌(和歌)には呪力があり(言霊信仰)、当然大内守護を担う頼政には歌による破邪/辟邪の力も期待されていたと見るべきでしょう。

そんな「破邪/辟邪の力」を発揮して活躍していたはずの頼政がその人生の最終盤になって突如として方向転換、「暴力的な武力」に訴え出て平家という「災厄()」を除きにかかったのはなんとも不可解に思えるのですが...彼が敗死することによって世の中は実力行使、暴力の武力がモノを時代が到来することになったのでした。

というわけで、平安時代の「武士」「武力」には現在の我々がイメージするものとは違った面もあり、それらを担った「武勇の者たち」が活躍していた。酒呑童子伝説はそんな彼らを一方の主人公として展開される物語なのでした。

長くなったので後半へ続く!

 

 

伊福部昭「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏狂詩曲」でゴジラと遭遇す

ゴジラアカデミー賞をとっちゃった()ために便乗ネタになりそうですが…伊福部昭先生の作品についての投稿でも(これでも投稿する時期をちょっとズラしたんですよ😄)

伊福部昭「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏狂詩曲」

井上喜惟(指揮)・久保田巧(ヴァイオリン)・アルメニアフィル

収録作...って見づらいですね(苦笑)

伊福部昭の作品には日本的な面とより広い意味でのアジア的な面、さらにスラブ的な面をも持ち合わせているとよく言われ、いかにも日本的な作品と思わせる一方で普遍的なクラシック作品としての魅力も備えていると思います。

彼の作品に関して評論家の片山杜秀氏が以下のようなことを書いていたのが印象に残っています。(わたしの記憶を元にしたものなので表現の細かい部分には違いがあり)

伊福部昭は幸福な作曲家である。映画音楽で成功したクラシック作曲家はしばしばその映画作品によって広まった世間一般のイメージと、本人が本当に追求したいクラシック音楽家としてのスタイル/作風とのギャップに悩まされる。しかし伊福部昭にはそのような葛藤はなかった。怪獣映画をきっかけに彼の音楽に興味を持った人が彼のクラシック音楽を聴けば彼のことがもっと好きになるだろう」

そもそも彼の代表作となった「ゴジラのテーマ」からして彼のクラシック音楽からの転用...というわけでようやく本題、今回挙げたCDにはその原曲「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏狂詩曲(71年改訂版)」が収録されています。

これは非常に面白い曲でして、第1楽章でゴジラのテーマとまったく同じフレーズが登場します(もちろん話は逆ですが)。先述のように伊福部昭の作品は多分に大陸的な豪快さとスケールの大きさを持っている一方、「いかにも日本!」的なメロディやリズムはあまり使っていないと思うのですが、この作品ではかなり露骨に日本情緒あふれるメロディが使用されています。第1楽章のヴァイオリンなどはちょっとだけ「ねんねん、ころりよ~」の江戸子守唄を連想させるほど。

古き良き日本の田園風景を想起させる情緒あふれるノスタルジックな雰囲気。そこへゴジラがやってくる()。しかも突然ゴジラのテーマが挿入されるわけではなくて、曲調が少しずつゴジラのテーマに近づいていくような感じ。聴いていると逆にゴジラの方がそれまで脳裏に浮かんでいた田園風景に少しずつ接近していくような印象を受けます。

ゴジラが来るぞー!逃げろ!」みたいな

2楽章はそんなノスタルジックな日本情緒とエキサイティングな怪獣映画が混在したような状況を作り出しつつこの人お得意の力任せな展開で突進しつつ最後は豪快にフィニッシュ。

作曲は1948年、その後何度か改訂が行われてこの録音は最終稿となる1971Ver

ゴジラのテーマをすでに知っている現代のわれわれが聴くともう完全に「ゴジラの元ネタ」な作品となってしまうわけですが、ゴジラが世の出る前はそんな先入観なしでこの作品が聴かれていたことになります。

当時の聴いていた人たちはどんな印象を持ったのでしょうか?

いずれにせよ、2024年の現在においてもまごうことなき異形の作品。

ぜひご一聴あれ↓この動画は井上道義(指揮)小林武史(ヴァイオリン)・東京交響楽団

 youtu.be

取り上げたCDの方は井上喜惟がアルメニアフィルを振った録音。ってそもそもアルメニアとはどんな国?

世界で最初にキリスト教を公認した国、中世から近代初期くらいにかけてユダヤ人と並んで商業で大活躍していた人たち、そしてアラム・ハチャトリアンのルーツとなる国。

カラヤンアルメニア系という説もあって、彼が商売上手だった根拠にもなっているみたいなんですが()。個人的にははじめてこの国のことを知ったのが90年代はじめに話題になった「アゼルバイジャン-アルメニア国境紛争」でした。なのでいい出会いではなかったのですが…

このアルメニアのオケで伊福部昭の作品を聴くと彼の作品に宿るハチャトリアンの要素がよく聴き取れるような気がします。とくにこの曲の第2楽章などにそれが見られるようです。

となるとゴジラの音楽にも大陸的・異国的な要素がたっぷりと入っていると言ってもよいのではないか?

その意味でもじつに伊福部昭らしい作品。

そしてゴジラが完全に国際的な評価を定着させている今、ようやく時代が伊福部昭に追いつこうとしているのかもしれません。

伊福部昭の作品は演奏がけっこう難しいようで、西ヨーロッパのオケが演奏すると滑らか(レガート?)になりすぎちゃって彼の作品(とくにゴジラに代表される)の特徴であるグルーブ感が失われがち。

一方日本のオケが演奏するとそのグルーブ感(ゴジラがのっしのっし歩くような感じ?)を意識しすぎて鈍重な感じになってしまいがち。「もうちょっとシャープに行こうよ!」と言いたくなるような。

そんなさじ加減が難しい伊福部作品はアルメニアやロシアを含めた東欧系のオケが向いているんじゃないか?なんて気もします。

ちなみに上記の2枚目の画像の端っこに入り込んでいる本はゴジラの原作者、香山滋(1904-1975)の著作(絶版本なのでパラフィンのカバーつき/苦笑)。この人もかなり異国情緒あふれる作品をたくさん残しております。

ゴジラ、そして今や国際用語となった「Kaiju」のイメージは異国の文化をたっぷりと吸い込んだこの2人によって生み出されたのだ!と結論づけたい。

 

浜名湖の水産物は龍神飛翔の夢を見たか? それと貝を神格化した女神さまについて

過去2回の投稿で夭折の日本画家、青木繁1882-1911の作品を取り上げました。せっかくなのでもう1回取り上げて「青木繁3部作」にしようかと目論んでみた次第にて候。

冒頭の画像は彼の代表作の一つ、「大穴牟知命(オオアナムチノミコト)」。これは日本神話の有名な1シーンを描いたもので、美しい八上比売(ヤカミヒメ)の心を射止めたオオアナムチ(オオナムチ、オオクニヌシ)が彼の兄弟である八十神(たくさんいる兄弟の総称。なので複数)の怒りを買って殺害されてしまったときの様子。

八十神が熱した大きな石をオオアナムチのもとへと転がし、その石を全身に受けた彼は焼け死んでしまいました。

その後、彼の母親の嘆願に応える形で神産巣日(カミムスビ)神に派遣された2人(柱)の女神、キサガイヒメ&ウムガイヒメが死んだオオアナムチのもとへに赴き、彼女たちの力によってオオアナムチは蘇生することになります。

日本神話のなかでは非常に珍しい、というかおそらく唯一()の「死からの復活」を描いたシーンとして価値が高いエピソードです。イザナミすら実現できなかったことを成し遂げているわけですから、すごいですね。

このキサガイヒメ&ウムガイヒメは貝を神格化した神と考えられており、前者が赤貝、後者が蛤とされています。ウムガイヒメの漢字表記はそのまま「蛤貝比売」、キサガイヒメ...「「刮」の字の下に「虫」がついた文字+貝比売」というちょっとむずかしい表記になっております。あるいは「討」の字の下に「虫」がついた文字が使われていることも。

オオアナムチ/オオナムチは「大名持」と評価されることもあり、もともと別々であった複数の神格が統合される形で生まれた神ではないか、との意見もあります。現代人のわたしたちの視点からするとオオナムチとオオクニヌシが同じ神格というのはとくに違和感なく受け入れることができますが、奈良の大神神社でおなじみのオオモノヌシと同じ神、というのはちょっと違和感があるように思えます。

このエピソードではじつはこの2人の女神によって蘇ったオオアナムチはその後再び八十神によって殺害され、再度復活します。

この2度に渡る死ももともとは別の神格だった神々をまとめた時に残ったつなぎ目だったのかもしれません。

しかも、2度目に復活した後に彼はさらなる八十神の迫害から彼を保護した神のアドバイスに従ってスサノオが支配する「根の堅洲国」へと赴くことになります。この「根の堅洲国」を死者の国とみなせばこれを3度目の死、そしてスサノオが課した試練を乗り越えて根の堅洲国から脱出した状況を3度目の復活として見ることもできそうです。そしてこの3度目の復活から彼は「オオクニヌシ」と名乗ることになり、地上世界である「葦原中国」の国造りと当地を行うことになります。

死と復活を繰り返しつつパワーアップして最終的に「完全体」にたどり着く。日本神話の他の神には見られないこの独特の展開こそ、この神がいかに重要な位置にあるのかを示しているように思えます。

で、1回目の死ではキサガイヒメが貝殻を削って粉を作り、ウムガイヒメが蛤の汁で溶いた母乳を用意し、それらをオオアナムチの死因となった火傷痕に塗ったところ蘇生させることに成功します。

なので青木繁の絵は向かって右側の乳房を露にしているのがウムガイヒメ、左側がキサガイヒメということになるのでしょう。

なぜこのような方法で大火傷を負って死んだオオアナムチを復活させることができたのか?というより蘇らせるシーンにおいてこのような貝を神格化した女神を登場させたのか?この点に関してはいくつかの説があります。

まず民間療法を反映させたものだ、という説。火傷には蛤の身の汁を塗る、あるいは乳房の痛みには貝殻の粉をベニバナ製の紅に混ぜて乳房に塗るといった方法が知られていたそうです。(ただしこの方法がどの時代まで遡れるかは不明。それどころかそんな民間療法は実際には確認されていない、なんて説もあり)

一方で母乳に命を授け、生命力を高める力がある、との概念からこのエピソードが生まれたとの説もあります。先程キサガイヒメが「貝殻を削って粉にした」と書きましたが、原文では「キサガイヒメ、きさげ集めて」となっており、「オオアナムチの遺体を石からこそぎ落として集めた」との意味にとる意見もあり。

熱した石によって焼け死んでしまったわけですから、皮膚が石にこびりついてしまった状況をなんとかする必要があった、というシチュエーションでしょうか(あんまり想像したくない😅)。そうなるとキサガイヒメはボロボロになってしまったオオアナムチの遺体を整え、ウムガイヒメが母乳の力で蘇生させた、という形になります。

昔の人たちはどちらのイメージでオオアナムチの蘇生のシーンを思い描いていたのでしょうか?

静岡県浜松市浜名湖の沿岸近くにはこの2人の女神を祀った「岐佐(きさ)神社」があります。神話上有名な存在で末社や摂社に祀られることはありますが、主祭神として祀った神社は非常に珍しいらしくこの神社のほかには出雲地方にあるくらいのようです。

がその岐佐神社

この神社では日本神話のエピソードにちなんで「蘇りの神」として健康・長寿のご利益があるとアピールしています。

は神社の説明板

もともと日本の信仰においては「再生」や「蘇り」「復活」といった概念はもっぱら修験道が担っていたので(次回の投稿の伏線😆)、日本の神さま(と神道)ではあまり馴染みがないように思えます。ですからこの点からも珍しい神社なのかもしれません。

そして貝殻を神格化した神さまということで漁業・水産の守り神でもある。

境内にはオオアナムチ(オオクニヌシ)のエピソードにちなんだ「赤猪石(あかいし)」なる石もあります。この石は何を象徴しているのでしょうか?オオクニヌシを殺害した真っ赤に焼いた石、ということなのでしょうか。説明板からはよくわからないのですが。

ともかく、なかなかいい雰囲気を持った神社です。人生をやり直したいと思っている方は自分をいったん「死んだことにした」うえでこの神社で蘇りを図ってみてはいかがでしょうか?オオクニヌシのようにパワーアップして蘇ることができるかもしれません。

かくゆうワタクシもそんな目的で参拝してきたのですが...オオクニヌシのように2回も3回も死にたくないかなって気も😫

縁結びの木などもあり。ちょっとブレちゃってますが。

先述したようにこの神社は浜名湖の沿岸近くにあるのですが、この浜名湖にも貝殻と関連した伝説があります。

上記の神社の説明板にもありましたが、浜名湖はもともと淡水湖だったものが湖口が開いてことで淡水と海水の両方を備えた(塩分の濃度が淡水と海水の中間レベル)「汽水湖」になりました。

なぜ汽水湖になったのか?説明板には「地震津波」と書かれていますが、ではどうして地震津波が起こったのか?そこには驚くべき真実が隠されていたのだ!

伝説によると、浜名湖近くの海に生息していた法螺貝が龍と化し、一気に空へと舞い上がった衝撃で地震が起こり、津波を起こすとともに湖口を広げたらしい。

このような長く生きた法螺貝が龍と化す展開は「出世螺」と呼ばれて由緒正しい(?)歴史を持っており、Wikiページもあったりします。

ja.wikipedia.org

山に3000年、里に3000年、海に3000年住んだ法螺貝は龍とを化す!つまり、室町時代浜名湖汽水湖化は9000年に一度のビッグイベントだったのだ!(これが当記事のタイトルの由来です)

いや~あることないことデッチ上げる人のことを「ホラ吹き」と呼ぶ理由が窺えるような壮大な話ですねぇ...なんて野暮なこと言っちゃいけませんか🙄

しかし赤貝と蛤は女神となり、法螺貝は龍と化す。浜名湖水産物はじつに変幻自在にして融通無碍、神秘的なものであると言わざるを得ません。

前にも投稿しましたが、ちょうど海とつながっている部分の近くに建つ鳥居の夕暮れの光景もじつにグレイトです。