鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

迎撃せよ! ヤマトタケルノミコトとの戦い 前編

ヤマトタケルノミコト”の”戦い」ではなく”との”戦いです。

↓の画像は房総半島の南西端の近く、千葉県館山市にある船越鉈切神社&海南刀切神社で撮影したものです。道路を隔てて近距離に位置している両神社は解説板にあるようにペアのような関係にあります。

その昔、神さまがこの地で人々を苦しめていた大蛇を退治するために鉈を研いだ石...その名も「鉈研ぎ石」!

↓はちょっと見づらいですが説明板です。

船越鉈切神社の方は本殿が海蝕洞穴の中に設置されており、この空間が「鉈切洞穴」として県指定の史跡となっています。

の説明板にあるように縄文時代から人間の居住空間として使用されてきただけでなく、古墳時代には葬送の地として使用されてきたことが発掘品から明らかにされています。

いわゆる洞穴葬と呼ばれるスタイルですが、発見された人骨の中には火葬されたものも含まれていたそうです。

日本における火葬の歴史と言えば700文武天皇4)年の道昭三蔵法師の弟子にして行基の師匠として知られる人物)が記録上最初に火葬で葬られた人物。そして天皇では703年に死去した持統天皇が最初であることが知られています。

が、実際にはそれよりも少なくとも100年以上前から日本で火葬が行われていたことがこの史跡の発掘物からうかがうことができます。しかもこの鉈切洞穴だけでなく、各地に火葬によって葬られたと見られる人骨が発見されており、しかもその多くは洞穴葬の形で葬られているとのことです。

関東地方ではこの鉈切洞穴も含めた房総半島の西側と、それと向き合う三浦半島の東側にしばしば火葬を伴う洞穴葬が行われた遺跡が発見されています。

の地図はかなり大雑把になってしまいますが、わたくしが作成した分布図。赤い◎印が洞穴遺跡です。一番下に見える青い◎が鉈切神社。

さて、古墳時代とはどんな時代であったか?一般的な理解ではこの時代にヤマトの国に強大な権力が誕生し、その権力を基盤にして支配者である大王(おおきみ)を埋葬するために巨大な古墳を次々と造営していた。そしてその権力基盤を畿内からさらに広い範囲へと拡大し、東国や九州にまでその支配権を及ぼすようになっていた...といったところでしょうか。

古墳時代の東国における支配&影響力に関してはよく知られた埼玉県行田市の埼玉古墳群で発掘された鉄剣(「金錯銘鉄剣 がしばしば根拠として挙げられます。

この鉄剣に刻まれている文字の内容について、広く受け入れられている定説では471年、当地の有力者がワカタケル大君(雄略天皇)に仕えていたことが記されているとされています。

実際に関東地方では5世紀後半くらいから古墳の造営が開始されています。

これらの内容・状況をもってして大和朝廷の支配が関東地方にまで広く及んでいたと考えられているわけですが…

しかしこの時代よりも数十年以上は経過しているであろうこれらの洞穴遺跡に大和朝廷の葬送形式とは著しく異なる形式で葬られた跡が残っている、それもその地域の首長などそれなりに有力な人物と思われる人たちの(改葬が行われた痕跡も多く見られる)墓が作られていた。しかも火葬を導入していたわけですから、考えようによっては大和朝廷よりも「進んでいた」という味方もできます。

となると古墳時代の関東における大和朝廷の支配権&勢力圏も一般的な理解よりもかなり割り引いて考える必要があるように思えます。

しかも、上記の洞穴遺跡の分布図からも三浦半島と房総半島の人々の間で交流があったのは明らかで(これらの遺跡からは丸木舟も見つかっています)、この時代にはいくつかの勢力が海をまたいだネットワークを確保しながら勢力圏を築き上げていた様子もうかがえます。

おそらく実際に大和朝廷の支配権が関東地方に広く行き渡るのは雄略天皇の時代よりもゆうに1世紀以上は後の話ではないかと思います。

雄略天皇といえば中国の「宋書」に登場する「倭の五王」のひとり「武」であろうと考えられており、そこでは倭王武は中国(の南朝)に対してしきりに自分がいかに広い範囲に支配を及ぼしているかをアピールしている様子をうかがうことができます。

しかし朝鮮半島にも支配権を及ぼしていることが主張されているようにどうも実態が伴っているとは言い難い。おそらくは実際にそれだけの勢力を持っていたわけではなく、倭王武が支配したい&支配を目論んでいる領域までも含めてアピールしていたのでしょう。

なぜそんなことをしたのか?征服活動を有利に進めるため、中国の王朝から支配を認められたという「箔」をつけるためではないか?

ではなぜそんな箔が必要だったかというと、おそらく東国をはじめとした国内での勢力の拡大がうまくいっていなかったからではないでしょうか?

稲荷山古墳の鉄剣はあくまでその地域の有力者が雄略天皇に仕えていたことを示すものです。ですからこの人物が本当に関東地方においてどの程度のレベルの有力者だったかははっきりとはわかりません。本当に大和朝廷が関東に勢力を順調に伸長させていた証拠になるレベルの有力者だったのか?

もちろん、古墳を造営できるわけですからそれなりの力は持っていたのは明らかです。しかし、むしろ関東圏内においてはそれほど強大な力を持った存在ではなく、だからこそ大和朝廷という「外部の勢力」と結ぶことでより強い勢力と対抗したり、自らの勢力の伸長を図ったのではないか?

それどころか、古墳は自らの権威を誇示するためよりも大和朝廷に服属していることを示すために作られた可能性だってありえるでしょう。

帝国主義時代のヨーロッパの植民地政策がとくにわかりやすい例ですが、ある勢力が自らの支配力を他の土地へと伸長させていく際には「少数派を優遇して多数派を圧迫する」ことによって当地の住民の間で内部分裂を促しつつ影響力を強めていくやり方が採用されます。

この稲荷山古墳の鉄剣も大和朝廷による関東支配のための計略を示すものに過ぎなかったのかもしれません。関東の中小勢力と結んでより強大な勢力の支配権を切り崩しにかかる、そのためにも中国の王朝から認められた「関東の支配者」という箔がぜひとも必要だった…

...と断言するほどの自信はありませんが、少なくとも関東南部に存在する洞穴遺跡や火葬をはじめとした葬儀の形式からは大和朝廷の影響力はそれほど早い段階では全国各地には広がっていなかったと見ることはそれほど無茶な話ではないと思います。

また、関東の古墳は近畿地方で大型古墳があまり作られなくなる頃から大型化が進む傾向が見られると言われます。これは一般的には「畿内に比べて関東が文化的に遅れていたから」と言われますが、もしかしたらそうではなくて、大和朝廷に服属する首長が関東地方において優位な立場になったのが遅れたために大型古墳が作られる時期も遅れただけなのかもしれません。

そして大和朝廷と結んで「勝者」の立場となった彼らはその基盤を盤石にするために必死になって自らの権威を誇示・確定するために大型古墳の造営に走った…

さらに、房総半島を擁する千葉県は確認されている古墳の数が関東でもっとも多い(全国でも4番目)地域です。その背景には「大和朝廷と結んだ新興勢力VS結ばなかった既存の勢力」との激しい戦いがあったのかもしれません。抵抗勢力が多く、危ういパワーバランスにある場所ほど権力者の権威を誇示するものが重要になってくる面があるはずです。

しかも、洞穴遺跡に葬られた有力者たちは海をまたいだ連絡・交渉を行い、先程も少し触れたように火葬をいち早く導入していたわけですから、「大和朝廷は先進の文化を持っており、文化・技術的に遅れた地域を支配権に組み入れつつ勢力を拡大していった」という一般的な見解にも少し疑問の余地が出てきそうです。

邪馬台国畿内説の最大の弱点として纒向遺跡など畿内の遺跡からは海外と交易した痕跡があまり見られない点がしばしば挙げられます。大和朝廷はあまり海の交通・交易には強くなかった可能性も十分に考えられます。

大和朝廷が勢力圏を拡大していったのはもっぱら武力と外交の力によるもので、必ずしも文化面で圧倒的なアドバンテージを持っていたとは限らないかもしれません。

関東と言っても稲荷山古墳がある埼玉県行田市と房総半島&三浦半島とではずいぶんと離れているのでまとめて論じるには少し無理があるのは承知の上ですが。

さて、真相はどうか?

というわけで長くなったので後半に続きます!...っていうかタイトルのヤマトタケルノミコトがまだ登場してない!🤣😂

↓が後編です!

aizenmaiden.hatenablog.com

の画像は海南刀切神社とその拝殿内に描かれていた絵。訪れたときにちょうど氏子の方々が掃除をしておりまして、ありがたいことに中に入って撮影させてもらうことができました。

僧侶にして日本画家として活躍した岩崎巴人(はじん)氏の作品です。