鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

房総半島の西端へ!~南総里見八犬伝と海の修験道の世界

曲亭馬琴(滝沢馬琴:滝沢は本名、馬琴はペンネーム。なので正確な筆名は曲亭馬琴。でも本投稿ではよく知られた滝沢馬琴で押し通します/)の代表作「南総里見八犬伝」はその名前の通り南房総をメインの舞台にした大長編作品ですが、その冒頭に登場するのが房総半島の西端にある洲崎神社です(当時は神仏習合で「洲崎明神」でしたが)

振り返るとすぐに浜辺。南国テイストたっぷりな入口。

洲崎神社&養老寺のマップ

後述する役小角を祀った岩屋の説明

この神門をくぐると拝殿へと続く長~い階段が待ち受けております。

でも振り返るとなかなかにいい景色

↑が拝殿。↓がその裏にある拝殿。色彩のコントラストがなかなかに印象的

「◯◯の一宮」と名乗る神社が複数ある、という問題はいろいろなところで見られますが、この安房国でも安房神社とこの洲崎神社の両方が「一宮」を名乗っています。

世間の認知度的には前者のほうが優勢ですが、洲崎神社の方はなんと松平定信のお墨付き!...というわけで↓はその定信の書だという扁額。

石橋山の合戦でボロ負けを喫した頼朝が安房国に逃れた後にこの神社を参拝、源氏再興を誓った...とも言われています。頼朝が笠を掛けたと言われる「頼朝笠掛けの松」...がかつてあったことを示す説明板もありました(近代まで残っていたらしい)

↑は2代目ってことなのか?

境内からはなかなかの絶景も拝めます

さらに海辺には空を飛んでこの地を訪れた役行者海上安全のために残していったというありがた~い御神石なんかもあります。

↑はちょっと見づらいですが御神石の由緒書。

正確には「南総里見八犬伝」はまず結城合戦(144041)の説明からはじまり、里見氏が南房総に拠点を構えるに至った経緯を語って作品の基本設定を用意したうえで、物語の発端がはじまる形になっています。この作品はファンタジー作品といってもよい内容ですが、冒頭で史実を語りつつ(&その後の物語の伏線もちりばめつつ)、そのままスムーズにフィクションの世界へと移行していくなかなか心憎い演出と言えるかも知れません。

で、導入部に続いて物語の発端となるのがこの作品の悲劇の主人公とも言える伏姫3(数え年)になったときのエピソード。この歳になってもいまだ言葉を発することもなかった娘を心配した伏姫の母が霊験著しいと評判だった洲崎明神にある役行者を像を祀った窟に娘を参拝に行かせることにしました。

洲崎明神にて無事参拝を済ませたものの、その帰り道で伏姫が急にむずがり出して手に負えなくなってしまいます。同行していた乳母や従者たちが困っているところにひとりの翁が現れ、伏姫の素性を一目で看破したうえで「この子は呪われている」と告げます。そして「これを護符に」と8つの珠が連なった数珠を手渡すなりその場を立ち去り、あっという間に跡形もなく消え去ったのでした。乳母や従者たちは不思議に思いつつ、伏姫のむずがりがすっかり収まっていることに驚いたのでした。

この8つの珠がその後物語が展開していくうえでの重要な道具立てになるわけですね。

つまり、この謎めいた翁はこの世に降臨した役小角であり、彼が伏姫に加護を与えたことが示唆されていることになります。

そんな洲崎明神の役小角の像を祀った窟が現在でも残っています。この洲崎明神は明治の廃仏毀釈によって洲崎神社と養老寺に分裂するような形となりましたが、現在でも上記の案内板のマップにあったように事実上一体の施設となっており、当の窟は養老寺の境内にあります。

ちゃんと八犬伝絡みの説明も

もちろん南総里見八犬伝はフィクション作品なわけですが、もう200年近く前に書かれた作品の舞台となった場所をこうして現在でも見ることができるのはなかなかに嬉しいものです。いわゆる聖地巡礼ってやつ? 例えば同じ八犬伝の有名なシーンの舞台となった「芳流閣」は古河御所をモデルにしていると言われていますが、もはやロマンに浸る余地などまるでない、ほんのちょっぴり痕跡が見られるのみです。

戸が閉め切られていたので像はかなり見づらい

さて、基本的なところで役小角とは何者か?

修験道における伝説上の創始者として知られているわけですが、では修験道とは何か?

窟の説明にあるようによく「山の宗教」と評されます。それで間違いないわけですが、しかし千葉県と言えば県内最高峰の標高が国内でもっとも低い(愛宕山408メートル)の通称「山無し県」()。ちなみに東京都の最高峰は雲取山、標高は驚くなかれの2017メートル。西日本最高峰と言われる石槌山の標高が1982メートル。

東京は23区だけじゃないぜって感じ?😁

どうして山無し県の千葉に役小角が登場するのか?それは修験道とは必ずしも「山の宗教」だけでなく「海の宗教」の面も持ち合わせているから。

この「海の修験」でもっともよく知られているのは神奈川県の江の島でしょうか。現在では弁財()天への信仰や龍神伝説に埋もれてしまっている印象もありますが、もともとは役小角修験道場として開いたのが霊場としてのはじまり、とされています。平安末期に怪僧として名高い文覚が源頼朝の依頼で江の島の岩窟にこもって怨敵調伏の祈祷を行ったのもこの地が古くから修験の霊場であったからこそ、だったのでしょう。(皮肉にもこのとき文覚が弁才天を勧請したせいで以後すっかり「弁才天の島」になりました)

そもそも修験道とは擬似的な死と再生のコンセプトを土台とした宗教だと思います。人里離れた地(山中や洞窟の中)にこもることで擬似的な死の世界に足を踏み入れ、その世界において修行・苦行をすることで神秘的な験力を手に入れ、修行を終えてその世界から帰還を果たすことで復活する。

なので山でも海でも修行に適した擬似的な死の世界があるなら修験道は実践できることになります。そして修験道における洞窟とはあの世とこの世とを行き来することができる通路でもある。修験の聖地や霊山によく見られる「胎内くぐり」はそんな修験の「死と再生」をコンパクトに表現したものでしょう。「胎内」、つまり生まれたところを通って死の世界に「戻り」、再び生まれたところを通って復活する、という形。

江の島の岩屋のような海蝕洞窟の場合、浸蝕によって生じた内部のヒダ状の岩肌が女性の性器を連想させるので「死と再生の場」としてピッタリだったらしい(禁欲して修行中の修験僧たちはそんな洞窟内で何を妄想していたのか?とツッコミを入れたくなりますが/)

以前、南房総には海蝕洞窟がいくつかあり、その中には火葬によって埋葬したと考えられる首長の墓として使われていたところもある、と紹介した記事を書いたことがあります。

これ↓。ご一読いただければ幸いです。「前に読んだよ」という方、ありがとうございます。

aizenmaiden.hatenablog.com

この墓所として使用された海蝕洞窟の存在は修験道が誕生する前から「洞窟の向こうに死後の世界が存在している」というコンセプトが存在していたことを示唆しています。

もともと日本人の死生観(他界観)はごちゃごちゃに入り乱れており、日本神話でも「根の国」は地下世界としてのイメージと海の向こうある世界としてのイメージが混在している様子がうかがえます。加えて日本人にとってもっとも馴染み深い「異界」はやはり山。

ですから日本人の「あの世」とか「異世界」は「上()」と「下(地下)」、「あっち(海の向こう)」の3つが存在している。そしてこの3つを違和感なく結びつけるのが洞窟なのでしょう。

この里見八犬伝に登場する洲崎明神(現養老寺)の窟もそんな異世界との通路のひとつだったのでしょう。また南房総には鎌倉と同じ「やぐら」があちこちに見られます。鎌倉のやぐらもかつては墓所だったことを考えても、「洞窟の先に死の世界がある」というコンセプト、さらに海辺の地における「海の修験」の存在と「海と死後の世界とのつながり」は日本の歴史において無視できないものなんじゃないかと思います。

里見八犬伝と言えば、伏姫が犬の八房と「結婚」する形で山(千葉県南房総市にある富山(とみさん))の洞窟にこもるエピソードがとりわけよく知られています。つまり海辺の岩屋から現れた役小角からの加護を受けた伏姫が山の洞窟(岩屋)にこもり、最終的にその地で命を落とす...という構図になっています。さらにその死の際に8つの珠が持ち主の元へと飛び去っていく。

ですから伏姫を中心に発展するこの物語の導入部は海の修験からはじまって山の修験で締めくくられる、という形になっていると思います。

この富山の洞窟は実際にあって「伏姫籠穴」と名付けられて観光スポットにもなっているのですが...2019年の台風被害でハイキングルートが通行止め状態になっていたのですが、ようやく解除されたそうで。わたくしまだ行ったことがないのでそのうち行こうかな、と思っております。

この富山の東に「房総のマッターホルン」の異名をとる(ちょっと強気に出過ぎな気も/失礼😆)伊予ヶ岳(336メートル)があり、この地には天狗伝説も伝えられています(ちゃんと山の修験もあるのだ!)。そしてさらに東には先述した県内最高峰、名前からして天狗伝説と直結する愛宕山(408メートル)があります(現在天狗ならぬ自衛隊が駐屯)

つまり、富山ならびに伏姫籠穴は「山の修験」「山の異世界」の入口のような立地にある...と見ることもできます。おそらく滝沢馬琴はこうした立地条件を意識してこの地を大事な場面の舞台としたのではないでしょうか。

里見八犬伝ですが、なにしろ30年近くにわたって書き続けられた大長編、しかも現代訳の全訳がいまだ存在しない...という源氏物語以上にハードルが高い作品。その代わり、抄訳や抜粋した作品が多数出ています(わたくしもこの形でしか読んだことありません)

どれでもよいと思うのですが、個人的には↓の本をおすすめしたいです。

南総里見八犬伝 全4巻 浜たかや・著 偕成社

そう、八百比丘尼も悪役として登場するのです!

大長編を12冊くらいにまとめるのはさすがにちょっとカットしすぎ、4冊のこのシリーズは分量的にもほどよく、内容も面白いですし、たくさん登場する人物やその相関関係も把握しやすく、表紙&挿絵もクール。子供向けですが、「八犬伝ってどんな話だったっけ?」という方におすすめです

この南総里見八犬伝15世紀なかばの関東地方を舞台にしています。この時代は「享徳の乱」と呼ばれる大混乱の時代で、この物語でもそんな戦乱の状況が描かれています。

享徳の乱と言えば近年になってこれが戦国時代の発端になった、という説が有力視されるようになってもいます。歴史研究において奈良・京都中心史観の見直しが進んでいる影響でしょうか。

ただこの「享徳の乱=戦国時代のきっかけ」という説はじつは新説でもなんでもなくて、江戸時代には通説だった可能性もあります。

現代の戦国時代のイメージは信長登場(桶狭間の戦い)以降の後期にちょっと偏りすぎていますよね? また明治以降の皇国史観による影響が現在でも根強く残っていると思います(先述した奈良・京都中心史観とか、楠木正成のかっこよすぎるイメージとか)

おそらく江戸時代はおそらく状況はかなり違っていた。当時の状況から考えて徳川や豊臣が出てこない戦国前期のほうが話題にしやすかったというのもあるでしょうし、関東の場合、戦国末期は小田原北条氏が優秀だったこともあって他の地域に比べて安定していたのでネタが少ない面があったかもしれません。

いずれにせよ、当時の少なくとも江戸の人たちの間では戦国時代と言えば享徳の乱長享の乱の時代、という認識が多少はあって、だからこそ馬琴もこの時代を舞台に八犬伝を書いたと考えてもそれほど妄想じみてはいないと思います。またこの八犬伝がヒットして広く読まれたことでこの認識がさらに強められた面もあったのではないか?

そしてそんな時代を舞台にした里見八犬伝には鎌倉時代に活躍した一族(の末裔)も登場します。関東屈指の名門、千葉氏の千葉自胤(よりたね)が悪役として登場、読んでいると「ああ、あの関東の名族がここまで没落しちゃったのか」などと切ない気分にさらされます。

さらに戦国後期には歴史から姿を消している関東の名族、豊島氏もちょこっと登場しますし、里見氏と浅からぬ因縁がある「房総の武田氏」こと真里谷武田氏なんかも出てきます(伏姫の母親がこの一族出身という設定になってる)

彼らの名前を見ると「ああ、この頃彼らはまだ現役だったのか」などとまるで引退したスポーツ選手の現役時代の懐かしい映像を見たような気分に陥ります(戦国時代への視点が後期に偏っているのがバレバレ🤣)

あとこの南総里見八犬伝についてはよく「水滸伝」を土台にしていると言われていますが、中国の古典文学や現代の武侠小説などに見られる(良くも悪くも)荒唐無稽&破天荒な面やあまり見られず、(良くも悪くも)リアリズム重視の日本的なスタイルな印象。またヤマトタケルノミコトの神話まで遡る「秀でた力を持つ者は女装も似合う美青年」という原則も導入されている(中国文学では反対に男装の美女が多い気がします)。そして先述した修験道の存在。こうして見てもちゃんと「日本化」した内容だと思います。

なお、伏姫と八房が結婚する異類婚のテーマについては「捜神記」(干宝作:4世紀)にそっくりの話が出てきます。

ある評論家による「たしかに馬琴は中国の古典文学からアイデアを拝借しているが、それらのどれよりも馬琴の作品のほうが面白い」という意見を読んだことがあります。この意見にもかなり説得力があるように思えます。

話がちょっと離れますが、↓は観光名所として知られる千葉県館山市の館山城のほど近くにある巨樹、「沼のびゃくしん」。推定樹齢800年。

いい感じでねじくれていて威圧感と風格を兼ね備えた素晴らしい巨樹です。

史跡&観光スポットとなっている館山城は事実上の里見八犬伝博物館となっており、城好きよりも古典文学好き向けの施設だったりします。当地を訪れた際には享徳の乱の時代の関東の混乱も見届けていたであろうこの巨樹もぜひ。

「そうか、この巨樹は里見方として戦った八犬士と足利成氏との戦いも見ていたのかも知れないな」

などとフィクションと史実がごちゃごちゃになったロマンを味わえると思います。