鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

迎撃せよ! ヤマトタケルノミコトとの戦い 後編

前回の続きです。↑の画像は前回も投稿した房総半島と三浦半島で発見された洞穴遺跡(赤と青の◎印)の分布図、そしてこれらの中には火葬で葬られた人骨も発見されているところもあります。

↓は前回の投稿。併せてお読みいただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

前回の投稿ではこれを根拠に古墳時代における大和朝廷の勢力の伸張に強く抵抗した勢力が関東地方には存在(それもひとつやふたつではなく)していたのではないか、という見解を提示してみました。

そして三浦半島と房総半島の洞穴遺跡の分布を見ると日本神話の有名なエピソードが想起されます。

そう、ヤマトタケルの東征神話

ヤマトタケルノミコトに伝説に関しては古事記日本書紀とでずいぶんと印象が異なることがよく知られていますが、彼は九州のクマソタケルと出雲のイズモタケルを征討した後に父親である景行天皇に東国征討を命じられます。

その場面では相模国まではルートが詳しく書かれているものの、そこから先は超大雑把な記述で簡潔にまとめられています。

そこでは相模の走水海(はしりみずのうみ)で海神の妨害によって暴風雨と遭遇し船で渡ることができなくなってしまい、妻のオトタチバナヒメが神を沈めるべく自ら海に飛び込んで犠牲になる...という有名なエピソードも出てきます。この走水海とは三浦半島と房総半島の海峡、「浦賀水道」のことです。地図で記したように三浦半島の東端には「走水神社」という神社があり、オトタチバナヒメのエピソードを現在に伝えつつ、この女神とヤマトタケルノミコトの夫婦を祀っています。

冒頭で挙げた絵画は有名な夭折の天才画家、青木繁1882-1911)の「日本武尊」。オトタチバナヒメが入水した直後のシーンでヤマトタケルノミコトが呆然とした表情を浮かべています。

が、その妻の犠牲によって海を渡ってからは以下のように至って簡潔な内容に。

「命はそこからさらに奥にお進みになってことごとく荒れ狂う蝦夷たちを平定し、山や川の荒れすさぶ神々を平定して、都に上って...」(講談社学術文庫古事記」の現代語訳より)

え、これで終わり?みたいな印象。なぜ相模国より東はこんな大雑把な記述になっているのか?

そう、制圧できなかったからではないか?

もちろん、ヤマトタケルノミコトという英雄が実在して古事記に記載されているような出来事が起こった、というわけではなく、ヤマトタケルという人物に集約されている大和朝廷による東国への勢力伸長がうまく行かなかったのではないでしょうか?

この古事記のあいまいな記述は東国へと軍を進めた朝廷方がこれ以上の進軍は無理と判断したうえで、「敵をことごとく倒すことに成功した!大勝利である!」と大本営発表のような形😅で表面を取り繕いながら実際には撤退を余儀なくされた事実を暗示しているのではないでしょうか?

地図上の分布図からも洞穴遺跡を使用していた勢力が三浦半島~房総半島間の制海権を握っていたのは明らかですから、神話でヤマトタケルノミコトの行く手を遮った暴風雨も彼らがおちおち船を出すことさえもままならなかった状況を示しているのかもしれません。

前回の投稿では埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の内容から推測される「雄略天皇の時代には大和朝廷の勢力が関東にまで広く及んでいた」との見解に対して疑問を提示してみました。

そしてこのヤマトタケルの東征神話の中途半端な内容、さらに鉄剣に刻まれているように雄略天皇は「武(タケル)」という名前であった。

そうなるとしばしば言われる雄略天皇ヤマトタケルのモデルになっている説にもある程度の妥当性があると見ることができそうですし、ヤマトタケルの東征神話の中途半端な内容は前回のわたくしの疑問を補強する面も持ち合わせているのではと思うのですがいかがでしょうか。

雄略天皇ヤマトタケルも東国支配には成功していなかった!............か?(東スポの見出し風😆)

しかし一方では、ヤマトタケルノミコトが房総半島にまで渡って征服活動を続けていたと伝える伝説もあります。走水神社から海を隔ててまっすぐに西に進んだところ、現在の千葉県君津市にある「阿久留王(あくるおう)」の墓です。上記の地図をご参照ください。

その伝説によるとなんとか房総半島に渡ることに成功したヤマトタケルノミコトは内陸へと進み、その地を支配していた「阿久留王(あくるおう)」を退治したとされています。

の画像がその墓。

この「阿久留王」は名前からして前々回の投稿で挙げた平安時代初期に坂上田村麻呂に討伐された岩手県平泉の「悪路王」を連想させます。

↓もしよかったらご一読ください

aizenmaiden.hatenablog.com

悪路王が「悪路の地=中央政権による道路交通網の整備が及んでいない辺境の地」の支配者という意味を持っていることを考えるとこの阿久留王も似たようなイメージをもたれた存在なのでしょう。

墓とされている塚のてっぺんには青々とした木がそびえ立っていました。↑の画像。彼の魂はまだ生きているのか?

そしてこの墓のほど近くにはヤマトタケルノミコトを祀った白鳥神社もあります。神話ではヤマトタケルノミコトは死んだ後に白鳥となって飛び去っていった、とありますが、当地ではその白鳥がこの地にも立ち寄ったことになっています。

↓の画像がその白鳥神社

境内にはオトタチバナヒメを祀った神社も摂社としてあります。↓

伝説では彼女が入水した7日後に櫛が海岸に流れ着いたとあります。それにちなんででしょう、社殿には大きな櫛が掲げられていました。↓

なお、この神社は周囲をゴルフ場に取り囲まれており、さらにはしばしばプレイ中のゴルフカーが境内を横断するという風情もへったくれもない環境だったのですが...(苦笑)

現地の解説板では「夷族」などと記されて暴君のような扱いを受けていますが、現地に伝わる他の伝説でも阿久留王は恐ろしい鬼であったとも言われています。

彼がヤマトタケルノミコトに屈した後に泣いて慈悲を乞うた(ちょっとかっこ悪い😅)「鬼泪山(きなだやま)」なんて山もあります。阿久留王の墓よりもちょっと西、千葉県の観光名所としてちょいと有名なマザー牧場があるところですね。

さて、ヤマトタケル(そして古墳時代大和朝廷の勢力)はどこまで関東に勢力を広げることに成功したのでしょうか?

常陸国風土記にはヤマトタケルが登場(しかも天皇として!)したりもするのでそうした点も考慮してもっといろいろと検討していくとますます面白さが増すようにも思えます。

なかなかに歴史のロマンをかきたててくれるテーマではないでしょうか。

なお、こうした中央政権に倒された地方の有力者(吉備の国の温羅など)の伝説によく見られるように、全国的には「現地の人たちを虐げていた恐ろしい鬼の類」といったネガティブなイメージが持たれているのに対して現地では正反対で「非常に優れた支配者であり、それゆえに大和朝廷に滅ぼされた」というポジティブなイメージが伝えられています。

阿久留王に関してもそうした両方のイメージが現地に伝えられているようです。

もうひとつ、現在の東海道と言えば東京~京都を結ぶ東海道新幹線のイメージが強いですが、初期律令制時代には東京(武蔵国)は東海道に含まれておらず、相模から海を渡って房総半島を北上するルートをとっていました。なので上総国下総国は南北ひっくり返っているような位置関係にあるわけですが、このルートはまさにヤマトタケルノミコトの東征ルートを想起させます。

なぜ大和朝廷はこのルートを設定したのか?それは最後まで畿内勢力に対して頑強に抵抗した勢力が残っていた三浦半島東部~房総半島西部の支配権をできるだけ早く確立するために交通網を整備する必要があったからではないか?つまり、これらの地を「悪路」ではなくすことに朝廷が心を砕いていたのではないか?

う~む...自分にとって都合のいい話だけ拾って紹介しているのは百も承知ですが(笑)、こうして挙げていくと自分の考えが正しいのではないかとの思いがどんどん高まってきちゃったりして。

最後に、日本の国土は山林が多く平野部が少ない、そして河川が多く海に囲まれた島国です。ですからメインの移動手段は有史以前から江戸時代くらいまでは陸路ではなく水路でした。

ですから道路網が整備されていない「悪路の地」は文化の後進地域であった...とは一概には言えないはず。

例えば江戸時代には日本海側で北前船の貿易でボロ儲けした豪商がいたことが知られています。もし彼らを陸路の視点だけで見てしまえば「地元でブイブイいわせていた辺境の豪農」のような理解になってしまいかねません。

おそらく古代の日本には大和朝廷とはまったく異なる文化、経済網を持っていた「悪路王」たちが各地に存在して活躍していたのでしょう。そして大和朝廷は彼らのほとんどを直接の支配下に置くことができていなかった。

平安後期の東北の安倍氏藤原氏などもそうした「悪路王」たちの延長線上に現れた存在だったのかもしれません。