鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

大和朝廷における「武」の時代の終焉と悪路王の戦い

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Ho!Ho!Ho!

むかし達谷の悪路王

まっくらくらの二里の洞

わたるは夢と黒夜神

首は刻まれ漬けられ

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上記の詩は宮沢賢治作「原体剣舞」の一部です。今回ご紹介する岩手県平泉にある達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)とこの地に伝わる伝説上の人物「悪路王」が登場しています。当時でも岩手県では有名だったのでしょうか。

↓がその達谷窟毘沙門堂の入り口。

桓武天皇の時代、京都の朝廷では「軍事と造作」の両方を展開、平安京の造作で臣民に負担をかけ、軍事によって征服・征討対象となった蝦夷の地の人々に多大な犠牲をもたらしていました。

それが「徳政論争」を経て最終的に途中で放棄される形となって平安朝の環境と領域(朝廷の人々にとっての世界観)が確定することになり、それ以後「」の漢字を冠した天皇が現れなくなる。

ワカタケル(倭王”武”)こと雄略天皇の時代から350年くらいでしょうか(神武東征は伝説として扱いカウントしないとして)、とりあえず富と労働力の収奪による度重なる都(あるいは巨大古墳に代表される権力を誇示するための装置)の移転・造営と強引な征服活動が中断した形となりました。(近代になって朝廷が武力制圧を再開する形になるわけですが、明治天皇は当初「後神武」も諡の候補として上がっていたそうです)

都の境界も、国の支配領域の境界もあいまいなまま「なんとなくこんな感じな」国が成立、以後朝廷はその成立した国の維持を図りつつ内部での権力闘争に明け暮れることになる...

坂上田村麻呂にとって軍事司令官としての最後の活躍の舞台とも言えるのが内乱(未遂)であった薬子の変平城太上天皇の変)だったことはその象徴と言えるのでしょう。

そしてこのあいまいな境界がその後魑魅魍魎が跋扈する伝説の舞台となっていく。

しかし中途半端に征服活動を停止したためでしょうか、以後朝廷の人たちは潜在意識のなかで蝦夷たちが住む東北の方向に警戒心と恐怖心を抱き続けたらしく、それが「鬼門」の概念の肥大化をもたらした...面もあったようです。

もともと中国の「鬼門」とはあの世とこの世とを結ぶ門であって、そこを通って死霊がこの世に現れる、そしてその死霊たちがしばしば災いをもたらすと考えられていたようです。

しかし日本ではそれが拡大解釈&肥大化されて死霊、神、妖怪など災いをもたらすさまざまな存在がこの世にやってくる方角、さらには疫病などの災害・災難がもたらされる方角とされるようになりました。

このように平安朝の領域・境界設定の中途半端さが妖怪・怨霊国家日本を作り上げたのかもしれませんねぇ。

そこで鬼門の方角から災いがもたらされるのを避けるために朝廷から見て東北の方向にお寺を配置してその災いやら悪神、妖怪の類をブロックすることにした...そんな目的で配置されたお寺が現在でも比叡山延暦寺を筆頭にたくさんあるわけですが、この達谷窟毘沙門堂は「蝦夷の地」東北のなかでもとくによく知られている場所だと思います。

お寺の縁起によると延暦20年(801)、この地の蝦夷を征討した坂上田村麻呂によって創建されたとされています。彼はこの地を支配していた「悪路王」を征討し、軍神として加護を与えてくれた毘沙門天に感謝するとともに蝦夷を抑える拠点として毘沙門堂を建立、さらに翌延暦21年には同地に達谷西光寺が造立された、とあります。

同じく坂上田村麻呂創建とされる京都の清水寺を模して建てられたというお堂。

詳しい縁起については↓の画像をご参照ください。堂々たる経歴(?)です。

 

この達谷窟毘沙門堂からさらに北東(鬼門)の方向、宮沢賢治の故郷、そして大谷翔平の出身高校がある花巻市には同じく坂上田村麻呂創建とされる毘沙門天(兜跋毘沙門天)を祀った成島毘沙門堂もあります。

毘沙門天が本尊のお寺と言えば奈良と大阪の境にある朝護孫子寺もよく知られており、ここには物部守屋を征討した聖徳太子が建立したとの話が伝わっています。どうも強力な敵を倒したときには毘沙門天を祀ってその地にこの神の神秘的な力でにらみをきかせる伝統があったようですね。

そして清水寺の北東方向に坂上田村麻呂が立ったまま葬られたと伝わる「将軍塚」があります。死して彼自らが毘沙門天と化したのでしょうか?

で、この達谷窟毘沙門堂が建つ地域で坂上田村麻呂と対峙して敗れ去った「悪路王」とは何者なのか?

実際にこの名前が登場するのは鎌倉時代くらいからのようですが、「悪路」とは文字通り「状態の悪い道」という意味なのでしょう。

古代ローマ帝国がとてもよい例となっていますが、世界各地の歴史を見るとある地域に強力な統一政権が誕生した場合、その支配力の強化・拡大のために道路網が構築され、支配圏内に交通網が張り巡らされていきます。つまり「悪路王」とはそんな中央政権の支配権から外れた地域を支配している王(首長)みたいな意味なのでしょう。

なので固有名詞ではなく、一般名詞、ほかにもこのような名前がつけられた支配者がいたようです(次回の投稿の伏線😆)。

達谷窟毘沙門堂へは平泉駅から自転車で30分くらい。その道中に悪路王ゆかりの伝説を伝えるスポットもあります。

まず「髢石(かつらいし)」。詳細については↓の平泉の観光案内のサイトで(手抜き😂)

www.hiraizumi-yukari.com

そしてもうひとつが「姫待ちの滝」。これも観光案内のサイトをご参照ください↓

www.hiraizumi-yukari.com

境内にはこの伝説とかかわる「姫待ち不動堂」なる施設も。↓の画像。

いずれも悪路王の残酷さ、悪辣さを伝えるスポットですが、これは明らかに支配者の視点から見たもの、これらかなり極端な話の内容からは征服された者たちを貶めることによって自らの征服活動を正当化する意図が見て取れることができるでしょう。

そして悪路王と言えば、東北の地の族長として坂上田村麻呂と激戦を繰り広げたことで知られる歴史上の人物、「アテルイ」としばしば同一視されます。↓はアテルイWikiページ

ja.wikipedia.org

実際に同一人物だったかどうかはともかく、いずれも都の征服・征討活動に抵抗した現地勢力の有力者たちの一人であったのは確かであり、「悪路王」とはそうした有力者の象徴として、または総称として名付けられたものなのでしょう。

史実においてこのアテルイは激戦を繰り広げた後に彼は坂上田村麻呂に降伏、捕虜として護送されたうえで河内国の椙山(すぎやま。現在の大阪府枚方市に比定)にて処刑されます。

一説によれば坂上田村麻呂は彼の助命を前提に降伏を呼びかけ、アテルイもそれに応じたものの、朝廷の公卿たちが処刑を主張、最終的には坂上田村麻呂の助命の要望を退ける形で桓武天皇が処刑を決断したらしい。結果的に朝廷側が騙し討ちをくらわした形に。

京都の清水寺にはその出来事を伝える碑も建てられています。

残酷で悪辣だったのはどっち?となるわけですが、これらの話を読むとフリードリッヒ・ニーチェの「善悪の彼岸」に出てくる以下の言葉が脳裏をよぎります。

「怪物と戦う者は誰であろうとその過程において自らが怪物にならぬよう用心せねばならない。そなたが深淵を覗き込むとき、深淵もまたそなたを覗き込む」

人はだれでも恐ろしい怪物になる素質を秘めている...ってところでしょうか。

それからこの達谷窟毘沙門堂は岩壁に彫られた石仏でもよく知られています。その名も岩面大佛。「岩面に顔面だけ残ってます」っていうダブルミーニングでしょうか。

縁起によると源義家が前九年・後三年の役の犠牲者の冥福を祈るために彫らせたとなっており、ここにも征服戦争の名残をうかがうことができるのですが、残念ながら明治の時代に起こった地震で像の大半の部分が崩壊、現在ではかろうじて顔の部分だけが残っている状況になっています。

お寺では阿弥陀如来としている一方、大日如来ではないか?との説もあるそうです。

同寺には坂上田村麻呂信仰についての説明もありました。↓

東北地方には田村麻呂に征伐された鬼に対する愛着心がしばしば見られる(ここ数年知名度が上昇している岩手県の旧鬼死骸村とか)一方で征伐した側の田村麻呂への信仰も根強くある。

このあたりは中央権力に征服・支配された歴史を持つ東北地方の複雑な環境や人々の心情が垣間見られるような気がしますね。

↓はそのほかの境内のスポット

というわけで、次回の投稿にちょっとだけ関連する形で続きます!