鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

天下人と稲荷信仰 その2 ~最上稲荷とか

前回の投稿に続いて「天下人に影響を及ぼした(かもしれない)神仏の存在」について。

「その1」はこちら↓

aizenmaiden.hatenablog.com

今回ご紹介するのは岡山県岡山市にある最上稲荷。正式名称は最上稲荷山妙教寺。ここの稲荷も前回紹介した豊川稲荷と同じく荼枳尼天を祀っているのですが、ここでの名称は「最上位経王大菩薩」。長い!

画像
最上稲荷の本殿、霊光殿

豊川稲荷と同様、仏教寺院です。広大な境内にいろいろな建物がありまして、どこがメインなのかちょっとわかりずらいところなのですが。日蓮宗の寺院としてのメイン(根本大堂)と最上位経王大菩薩(荼枳尼天)を祀る寺院としてのメイン(霊光殿&霊応殿)が別々にあるみたいで。

画像
インド風の山門がインパクト大!

画像
山門脇にて遭遇。え?このネコちん、供物?
画像
こちらは根本大堂

もともとは天台宗として創建(龍王山神宮寺)、その後衰退したものの、江戸時代に入って日蓮宗の寺院として再興されたそうです。
境内には聞いたことのない神さまを祀った祠がずら~り!

画像
縁結び(&縁切り)の「縁の末社
画像
旧本殿の霊応殿
画像
ここから山道を登ると奥の院に行けます

そしてその衰退と再興の狭間の時期に歴史上重要な出来事の舞台になっています。豊臣秀吉による備中高松城攻略。備中高松城址がある地域の地名が「高松」、最上稲荷がある場所の地名は「高松稲荷」、昔のガイドブックなどでは最上稲荷のことを「高松稲荷」と紹介しているものもあります。

画像
はるか備中高松城址を望む
画像
秀吉本陣跡の碑が立つ地

上記の画像、境内にある日蓮の堂々たる像が立っている場所がかつて秀吉が備中高松城を攻略する際に陣を敷いた場所(この戦いでお寺が荒廃しちゃった、という説と、すでに荒廃していた地に陣を敷いたという説がある模様)とされています。

このお寺そのものが龍王山という山にあって、この陣を敷いた場所からはとても良い景色を眺めることができるとともに清水宗治が守っていた備中高松城を一望できる絶好の場所の立地。↓こんな感じで

画像
下の案内板の画像をご参照ください。大鳥居が絶好の目印
画像
画像
備中高松城の水攻めの陣図
画像

ここに陣を構えつつ「城を落とすのは難しそうだ」と秀吉が見ていたところに黒田官兵衛が水攻めを献言した…とされています。実際に景色を眺めると「ああ、なるほど」とちょっと納得。

そしてこの水攻めを実行してじわじわと攻めていたところに本能寺の変が勃発、清水宗治は歴史に残る切腹劇を演じ、秀吉はいわゆる「中国大返し」を敢行して光秀を滅ぼすことに成功、天下人への道を突き進むことになるわけですが…

徳川家康といい、豊臣秀吉といい、天下人にとっての人生の大きな転機に荼枳尼天が関わっていることになります。これは果たして偶然か?彼らは荼枳尼天の導きによって天下人へと上り詰めることに成功したのか?

しかし天下を取った後のこの二人の荼枳尼天(稲荷)への扱いはまさに好対照を見せています。前回の投稿で触れたように家康は稲荷信仰を優遇して全国に稲荷信仰が拡大するきっかけを作ります。それに対して秀吉は…

よく知られたエピソードですが、彼の養女(前田利家の娘、豪姫)が体調を崩し、原因が狐憑きによるものだと診断(?)されます。そこで秀吉は京都の伏見稲荷大社神仏習合の時代では伏見稲荷大社でも荼枳尼天が祀られていました)に以下の内容の文書をしたためて捧げます。

「娘がキツネのせいで苦しんでいる。なんとかしろ。さもなきゃ全国のキツネを皆殺しにするぞ」

神仏を恫喝! 当時の秀吉の怖いもの知らずぶり、そして晩年の秀吉の得意技「撫で斬り」思想がここでも炸裂しているわけですが(苦笑)。なお、最終的に娘からキツネを追い払って救ったと伝えられるのが日本刀の「天下五剣」のひとつに数えられる「大典太光世」です(ほかにも諸説あり)。もっとも豪姫が宇喜多秀家に嫁いだことを考えるとキツネの呪いは追い払われずに宿り続けていたのかもしれませんが…

かくして荼枳尼天(稲荷)を大事にした家康の一族はその後長く繁栄し、恫喝した秀吉の一族(ついでに宇喜多も)は…まさに結果も好対照。

荼枳尼天おそるべし!われわれの日々の営みは荼枳尼天の手のひらのうえで踊っているだけに過ぎないのでしょうか?

…とまあ、実際にそんな超自然的な力が発動したかどうかはともかく、当時の一般庶民を含めた人たちがそう信じていた可能性は十分にあると思います。今でもなお日本人の深層心理に根付いている「お稲荷さんを大事にすればご利益がある、でも粗末に扱うと恐ろしいことが起こる」というイメージ。

徳川家康豊臣秀吉という二人の天下人が稲荷信仰を「恐ろしい力を持っているからこそご利益も大きい」という日本人の伝統的な神仏への考え方に見事にマッチする方向へと導いた。

この両刃の剣のような面が稲荷信仰への(危険な)魅力を高め、身分を越えて広まっていった原動力になったのではないでしょうか?

ちょっと真面目な話になってしまいますが、こうして見ても現在の(神仏分離以降の)荼枳尼天をないがしろにした形の(おもに神道の)稲荷信仰は本来の(そして現在もなお日本人の深層心理に宿り続けている)形からかけ離れてしまっているように思います。

画像
画像

上記の画像は境内にある最上位経王大菩薩が降臨し、開山の報恩大師がそれを「感得」した場所という八畳岩。この「感得」というのもいかにも日本語らしい曖昧な表現というか…感じたの?それとも獲得したの?どっち?みたいな(笑)

備中高松城址にも訪れました。

画像
清水宗治首塚
画像
こちらは胴塚
画像
こちらは自刃の地。妙玄寺の境内にあります

上記の画像は備中高松城址で撮影したものです。清水宗治首塚、自刃跡、胴塚など、小規模ながらもありました。彼の死に様が立派だったので以降切腹が武士の儀式的な死の作法として行われるようになった…という説もあるそうで、そうなるとこの方面でもこの戦いは歴史に大きな影響を及ぼしたことになりますね。