鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

天下人と稲荷信仰 その1 ~豊川稲荷

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豊川稲荷妙厳寺の大本殿

前回に引き続き武田信玄の西上を阻んだ(かもしれない)神仏のネタです。

日本でもっとも数が多い神社は八幡神社、ついで稲荷神社と言われています(稲荷を祀った小さな祠を含めればおそらくこちらが1位でしょう)。東京などは江戸時代に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われたほど稲荷神社がたくさんあり、現在でもあちこちに見かけることができます。

八幡神は軍神としての面を持ち合わせていたわけですが、稲荷神社も怨敵調伏の力を持つと言われる荼枳尼天を多くの戦国武将が信仰していた(神仏習合の時代)と言われているので日本の神社のトップ1&2がいずれも「戦いに勝つ、敵を退ける」ご利益を持っている神さま、ということになりまして。現在の神道についてまわる「共存と平和を重視する」イメージとはちょっと違う実情も見えてくるような気がします。

この荼枳尼天がかかわる稲荷信仰は天狗信仰と同様に明治の廃仏毀釈によって大きなダメージを受けてしまったわけですが…

そもそもどうして全国にこんなに稲荷神社があるか?よく理由として徳川家康荼枳尼天を信仰していた、さらに秘法「荼枳尼天保元の乱の当事者のひとり、藤原忠実も用いたとされる秘法!保元の乱では負けちゃったけど)」を用いて天下統一に成功した、なんて話もあって、実際に天下統一に成功した際に感謝の意を込めて荼枳尼天の社を各地に建てて大いに優遇した…という話が挙げられます。天下泰平の世に荼枳尼天はあまりふさわしくないかも、と考えた家康が荼枳尼天ではなく従来の稲荷の神様である宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を全面に出すことにした、とか。

そんな影響でもともと江戸の武家屋敷で各藩が家康に倣って敷地内に稲荷の社を建てるようになり、それが江戸の町人たちにも広がると同時に参勤交代の影響で全国各地にも稲荷信仰が広がっていったのだろう…という説を読んだことがあります。

ではどうして家康はここまで荼枳尼天(稲荷)に肩入れしたのか?ちょっと考えてみました。

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JTBの新版鉄道旅地図帳」より

↑の画像は東海地方の路線図、ちょうど武田信玄の西上作戦の舞台となったエリアです。赤い丸で囲んだのが武田信玄の本拠地である甲府、青い丸で囲んだのが武田信玄最後の戦いとなった野田城、そして白い丸で囲んだのが今回紹介する豊川稲荷(見づらくてすみません)。稲荷は稲荷でも妙厳寺という荼枳尼天を祀っている曹洞宗のお寺です。家康から厚い信仰を受けていたと言われており、東京の赤坂にある東京別院もけっこう有名です(むしろこっちのほうが有名?!)。

こうして見ると改めて「武田信玄にとって天下(京)は遠かったなぁ」としみじみ思うとともに東海道新幹線というドル箱を擁するJR東海ブイブイ言わせている状況を見ると「東海道を制するもの、天下を制する」と言いたくもなります。

武田信玄の西上作戦の進軍ルートに関しては最近になって新説が出てきまして、かつての甲府からまず信濃へ北上してから一気に南進した説(現在のJR飯田線に近いルート?)に対して現在のJR身延線に近いルートを辿ったのではないか、そして従来の説のルートは別働隊のものではなかったか?ということだそうで。

現在でも静岡から長野に行きたかったらまず東海道新幹線で東京に行ってから北陸新幹線に乗換えたほうが早い、なんて言われるくらい(笑)静岡県内の南北の移動がちょっと面倒な面があるのでわたしは新説に肩入れしたいのですが…どうでしょうか?

この新説だと信玄は甲府からまず南下して現在の掛川市にあった高天神城を通過、さらに西へ向かって二俣城、三方ヶ原、そして野田城へ。というのが大雑把なルートだと思うのですが、気になるのが野田城豊川稲荷、そして岡崎の立ち位置。

もし信玄が進軍を止めずに西上を続けていれば豊川稲荷の地域も飲み込んでいた、さらに岡崎まで達していたのではないか?

一方で言い方を変えれば豊川稲荷の直前で信玄は撤退した見ることもできそうです。

さらにこれを見方を変えて徳川家康の立場から見ると「豊川稲荷荼枳尼天の神通力が信玄を追い払ってくれた!」とならないでしょうか?そして人生最大のピンチのひとつを救ってくれた荼枳尼天に感謝を抱きつつ厚い信仰を寄せるようになった。

荼枳尼天を信仰して怨敵調伏を行っていたのではなく、荼枳尼天が怨敵を調伏してくれたから荼枳尼天を信仰するようになったのではないか?それ以前に荼枳尼天を信仰していたのかもしれませんが、これをきっかけにますます厚く信仰を寄せるようになったのかもしれません。

もし信玄がもう数ヶ月も進軍を続けていたら豊川稲荷の地域も武田軍に飲み込まれていたかもしれない、さらに徳川家康が滅亡していたら?そこまで破滅的な結末には至らずにピンチを脱することができたとしても、家康の豊川稲荷、ひいては荼枳尼天(稲荷)への信仰心(評価)もずいぶんと違っていたでしょう。

「なんだよ、あっさり敵に征服されやがって、ぜんぜんダメじゃん」とばかりに。

信玄の西上作戦がさらに続いていれば徳川家康が天下を統一できたかどうかわからないだけでなく、天下を統一できたとしても稲荷信仰に肩入れすることはなかったかもしれませんし、そうなると現在のような全国至るところに稲荷神社があるような状況も作られなかった、つまり「稲荷は天下を統一することはなかった」のかもしれません。

そう考えると武田信玄の西上作戦とその頓挫(放棄?)は日本の軍事史、政治史のみならず日本の信仰史にも大きな影響を及ぼしたのではないでしょうか?

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荼枳尼天真言も堂々たる様子で左側は「オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ

この豊川稲荷、仏教寺院ということもあって一般的な稲荷神社とはまた一味違う、呪術的な雰囲気が漂う空間でした。こっくりさんに代表されるように日本人の深層心理には現在でも「お稲荷さんはちょっと怖い」イメージが宿っていると思うのですが、それはおそらく荼枳尼天がもたらしたものではないか?境内を回っているとそんな思いを抱くとともに「キツネとお経の組み合わせって合うな」と感じたりもしたのでした。

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霊狐塚へと続く参道。こちら目当ての人も多いようです。
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霊狐がびっしり!
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こうして見ると迫力を感じますが、ひとつひとつの像を見ると…
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怖い子もいれば愛嬌のある子、イケメンなど色とりどり。
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豊川駅ではちょいとゆるいキツネ像がお出迎え!
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駅前広場にもキツネ像が!

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マスコットキャラクターの「狐娘(ここ)ちゃん」

ところで日本人は「三大◯◯」が好きとよく言われますが、「三大稲荷」といえばみなさんどこを思い浮かべますか?

伏見稲荷大社とこの豊川稲荷は不動、あとひとつはどこか?になると思うのですが…

おそらく一般的な意見として西日本の人は岡山の最上稲荷妙教寺)、東日本の人は茨城の笠間稲荷を挙げることが多いと思うのですが…ほかにも各地に「三大稲荷の一角」を自称する寺社仏閣が多数(笑)、とくに佐賀県の祐徳稲荷などはかなり有力な候補になると思いますが…ちなみにわたしは東京者なので王子稲荷に一票を投じます。

あともうひとつ、現在中央新幹線の開通工事が進められて(いろいろとゴタゴタもありますが)います。もしこれが開通すれば東京から山梨、長野、岐阜を通って名古屋、さらに大阪まで達する新たな交通ルート(京都をスルー!)が誕生することになります。↓の画像

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浜松駅にて撮影

これまで日本の鉄道網は基本的には古くから人間が移動ルートとして使っていた場所(海をまたぐところでも)に線路を敷いて(あるいはトンネルを通して)築き上げられたものだと思います。武田信玄の西上作戦のルートに関しては先述したように諸説ありますが、新説によると往路はJR身延線東海道線天竜浜名湖鉄道、そして帰路はJR飯田線中央本線のルートを辿って移動したようです(こう書くと「ローカル鉄道ぶらり旅」みたいな感じですね)

それに対してこの中央新幹線のルートは日本の歴史上おそらくこれまで存在していなかった移動ルートを新たに作ることになりそうです。

開通すれば日本の交通網の一大革命になる可能性を秘めているのですが、一方でこの移動ルートが16世紀に存在していれば信玄の上洛が圧倒的に楽になっていたことになります。

「このルートがあれば信玄が信長のようなこわっぱ(失礼。あくまで話のネタです)の後塵を拝したりせんかったわい!」

という山梨県民の雄叫びが聞こえてきそうです(笑)。それどころか、甲斐と美濃の交通が簡単にできていたなら武田家と斎藤家の対立が激しくなり、武田家と織田家が同盟関係を築いていたかもしれません。信長が信玄の甥っ子だった、とか。

気候や地形のように人間ではコントロールできない要素が人間の歴史をコントロールしている面もあったりして、人の営みとは面白いものですね。