鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

君はカノープスを見たか?南天の星を巡る伝説と夭折の日本画家

前回の投稿では夭折の日本画家、青木繁1882-1911)作「日本武尊」と南房総の史跡を取り上げました。

そして青木繁南房総と言えばやはりこの作品を挙げなければ片手落ちになってしまうでしょう...というわけで↓は彼の代表作にして未完の作品「海の幸」。

この作品は彼が20代前半の頃に千葉県館山市布良(めら)に滞在していたときに描かれました。現在でもこの地に滞在した家が記念館として残されています。↓は現地にあった説明板。土日のみ開館、平日に訪れたので見ることはできませんでした。

そして青木繁が滞在した地のすぐに近くには「布良崎神社」という神社があります。↓の画像です。

なかなかに味のある目つきをしている狛犬くん

そしてこの布良崎神社青木繁が滞在した地域には「布良星」と呼ばれる星に関する伝説が残されています。さらにこの星に関しては広く南房総、さらには茨城県にも伝説が伝えられています。

この「海の幸」にも題材になっている通り(そして記念館の説明板にもあるように)この地域は漁業が盛んで、かつては引き網や延縄(はえなわ)による漁がよく行われていたそうですが、しばしば海が荒れて海難事故がよく起こっていたそうです。そして現地の人たちは事故で不慮の死を遂げた漁師たちの魂は天へと昇って星になると見なしていました。そして死んで星となった漁師たちの魂の象徴として扱われたのが南の空に見える「布良星」でした。

この地域の漁師たちはこの布良星を見ると必ず暴風雨になると信じていたそうです。

さらに、南房総の別の地域では同じ星を巡る「西春星」の伝説も伝えられています。

こちらは西春坊というお坊さんが主人公、彼の故郷である房総半島の南端、白浜の地でも漁師たちの海難事故が相次いでおり、そのことに心を痛めた彼は自分が身代わりになって入定することを決意しました。入定とは即身仏(ミイラの仏さま)でよく知られる人々の救済のために地中に入って瞑想に入る(つまり死ぬ)行為のことです。

そして彼は入定する際に周囲の人たちにこう言い残しました。

わたしが死んだら星になって夜空に現れるだろう。南の地平線近くに星が見えたらそれは海が荒れる前触れだから決して船をだすな

果たして、入定した後に彼の言った通り南の空に明るい星が現れました。人々はそれを「西春星」または「入定星」と呼んで漁に出る際の目安にすることにしたのでした。

もうひとつ、茨城県の南部には「上総の和尚星」という同じ星を巡る伝説もあります。

むかしむかし、茨城県南部に上総の国にあるお寺の住職が訪れていました。しかしこの僧は現地の人たちとトラブルを起こして殺されてしまいました。

この住職は殺される前にこう言い放ちました。

わしが死んだら、雨が降る前の晩に南の空に姿を現すぞ

そして実際に雨が降る前の晩には南の空に星がいかにもうらめしそうな様子でぼんやりと現れるようになったのです。そこで人々はこの星を「上総の和尚星」と呼ぶことにしたのでした。

これら3つの伝説・言い伝えには2つの共通点が見られます。

1つ目は星と死者とが結びつけられていること。

2つ目は星と天候(&海の状態)の変化とが結びつけられていること。

となると「この布良星・入定星・和尚星とは何か?」と興味が湧いてくるというものですが、昔からこの星に興味を持った人も多かったらしく、研究によってりゅうこつ座カノープスであることが明らかになっています。

カノープスとはどんな星か?↓はWikiのページ。

ja.wikipedia.org

有名な星なので星座や天文学が好きな方ならご存知かもしれませんが、夜空に見える恒星の中でもシリウスに次いで明るい星(マイナス0.74等星)、しかし日本からは見づらくて地平線のギリギリくらいのところでしか見えない星...というちょっと微妙な立ち位置にある星です。

高層建築が立ち並ぶ現代社会ではかなり難易度が高いと言わざるを得ないでしょうねぇ。

面白いのはカノープスが位置するりゅうこつ座はもともとはギリシア神話に登場する巨大な船「アルゴ号」を形どった「アルゴ座」だったことです(あまりの巨大なので4つの船のパーツに分割されちゃった)。しかもカノープスの名前はそんなアルゴ号に乗っていた案内人からつけられたというのですから、日本と同じく航海と深く結びついていることになります。

また、Wikiにはこんな面白いページもありまして、ほかにもこのカノープスの日本名が挙げられています。

ja.wikipedia.org

「六部の星(ロクブノホシ)」なんかは六部殺しと関係があるのでしょうか?だとすると同じく僧侶を殺害した「和尚星」の伝説とちょっと関わりがあるのかもしれません。

ちなみに中国では「老人星」と呼ばれており、日本では七福神に数えられる寿老人の化身と見なされています。

は神社の境内から撮影したものです。富士山が見えるなかなかにナイスなアングルですが、残念ながらこれは西向きなので南の空に昇るカノープスが見える方向ではありません。

一方、↓の画像は「西春星/入定星」の舞台となった安房白浜エリア、房総半島の最南端からの眺め。昔の人たちはこうしたロケーションからカノープスを観察し、翌日の天気や漁の判断をしていたのでしょう。

ちなみに青木繁はこの布良に滞在中にもうひとつ、有名な作品のアイデアを得たと言われています。その作品が↓の「わだつみのいろこの宮

個人的にはこれが彼の最高傑作ではないかと思います。

日本神話のよく知られたエピソード、山幸彦が海の底にある宮殿(綿津見の神の宮殿)に赴いて後に妻となる豊玉姫と会うシーンを描いたものです(この二人の孫が初代天皇神武天皇、ということになる)。

どうも彼が布良で海水浴をしていたときに見た海中の光景から着想を得て日本神話と結びつけた絵を描いてみようということになったそうで。

布良での滞在はほんの数ヶ月だったそうですが、彼の短い人生において非常に実り多き期間だったのでしょう。

わたくしもしばらく滞在したい衝動に駆られました。今の時期ならカノープスも見られそうだし。実際にカノープスが見られるかどうか確認したかったのですが、なにぶんバスの本数が少なすぎて...おうちに帰れなくなるので断念となりました。

日本神話では星にまつわるエピソードが少なく(月読命も存在感ほとんどなし)、日本の信仰では星への意識が希薄...なんて言われ方もしますが、実際には昔の人たちはじつによく夜空を観察してさまざまな信仰や伝説を生み出していた様子がこのカノープスを巡る伝説からもうかがうことができそうですね。

最後に、↓は布良崎神社の説明板。

由緒には「四国の忌部氏を率いて~」と書かれていますが、四国とその周辺には安房とよく似た名前の国「阿波」と「淡路」があります。この由緒はこれらの地域の繋がりや古代における太平洋岸の海運ルートの存在を示しているのでしょうか? 「古語拾遺」には実際に阿波から移住した人たちによって開拓されたために安房と名付けられた、とされているのですが。

実際のところはどうだったのでしょうか?前回&前々回の投稿(

迎撃せよ! ヤマトタケルノミコトとの戦い 前編 - 鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

)で触れたように房総半島の南部には大和朝廷の支配が及ぶ前からかなり進んだ技術を持った人々が支配権と交易権を確保していたことがうかがえるのですが。

ちなみにワタクシ、以前からこの布良の地を訪れたいと思っており、過去に訪れようとしたこともありました。しかし...この南房総には「安房◯◯」という名前のバス停がいくつもありとても紛らわしい。前回訪れた時にはバスに乗る時に「安房違い」でぜんぜん違う路線に乗ってしまい、「あれ、今どこ向かってるの?」となってたどり着けませんでした。

今回ようやく訪問が実現したわけですが、もしこれから訪れようと考えている方がいらっしゃいましたら、声を大にしていいたい。

安房違いにご用心!

 

 

 

 

 

迎撃せよ! ヤマトタケルノミコトとの戦い 後編

前回の続きです。↑の画像は前回も投稿した房総半島と三浦半島で発見された洞穴遺跡(赤と青の◎印)の分布図、そしてこれらの中には火葬で葬られた人骨も発見されているところもあります。

↓は前回の投稿。併せてお読みいただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

前回の投稿ではこれを根拠に古墳時代における大和朝廷の勢力の伸張に強く抵抗した勢力が関東地方には存在(それもひとつやふたつではなく)していたのではないか、という見解を提示してみました。

そして三浦半島と房総半島の洞穴遺跡の分布を見ると日本神話の有名なエピソードが想起されます。

そう、ヤマトタケルの東征神話

ヤマトタケルノミコトに伝説に関しては古事記日本書紀とでずいぶんと印象が異なることがよく知られていますが、彼は九州のクマソタケルと出雲のイズモタケルを征討した後に父親である景行天皇に東国征討を命じられます。

その場面では相模国まではルートが詳しく書かれているものの、そこから先は超大雑把な記述で簡潔にまとめられています。

そこでは相模の走水海(はしりみずのうみ)で海神の妨害によって暴風雨と遭遇し船で渡ることができなくなってしまい、妻のオトタチバナヒメが神を沈めるべく自ら海に飛び込んで犠牲になる...という有名なエピソードも出てきます。この走水海とは三浦半島と房総半島の海峡、「浦賀水道」のことです。地図で記したように三浦半島の東端には「走水神社」という神社があり、オトタチバナヒメのエピソードを現在に伝えつつ、この女神とヤマトタケルノミコトの夫婦を祀っています。

冒頭で挙げた絵画は有名な夭折の天才画家、青木繁1882-1911)の「日本武尊」。オトタチバナヒメが入水した直後のシーンでヤマトタケルノミコトが呆然とした表情を浮かべています。

が、その妻の犠牲によって海を渡ってからは以下のように至って簡潔な内容に。

「命はそこからさらに奥にお進みになってことごとく荒れ狂う蝦夷たちを平定し、山や川の荒れすさぶ神々を平定して、都に上って...」(講談社学術文庫古事記」の現代語訳より)

え、これで終わり?みたいな印象。なぜ相模国より東はこんな大雑把な記述になっているのか?

そう、制圧できなかったからではないか?

もちろん、ヤマトタケルノミコトという英雄が実在して古事記に記載されているような出来事が起こった、というわけではなく、ヤマトタケルという人物に集約されている大和朝廷による東国への勢力伸長がうまく行かなかったのではないでしょうか?

この古事記のあいまいな記述は東国へと軍を進めた朝廷方がこれ以上の進軍は無理と判断したうえで、「敵をことごとく倒すことに成功した!大勝利である!」と大本営発表のような形😅で表面を取り繕いながら実際には撤退を余儀なくされた事実を暗示しているのではないでしょうか?

地図上の分布図からも洞穴遺跡を使用していた勢力が三浦半島~房総半島間の制海権を握っていたのは明らかですから、神話でヤマトタケルノミコトの行く手を遮った暴風雨も彼らがおちおち船を出すことさえもままならなかった状況を示しているのかもしれません。

前回の投稿では埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の内容から推測される「雄略天皇の時代には大和朝廷の勢力が関東にまで広く及んでいた」との見解に対して疑問を提示してみました。

そしてこのヤマトタケルの東征神話の中途半端な内容、さらに鉄剣に刻まれているように雄略天皇は「武(タケル)」という名前であった。

そうなるとしばしば言われる雄略天皇ヤマトタケルのモデルになっている説にもある程度の妥当性があると見ることができそうですし、ヤマトタケルの東征神話の中途半端な内容は前回のわたくしの疑問を補強する面も持ち合わせているのではと思うのですがいかがでしょうか。

雄略天皇ヤマトタケルも東国支配には成功していなかった!............か?(東スポの見出し風😆)

しかし一方では、ヤマトタケルノミコトが房総半島にまで渡って征服活動を続けていたと伝える伝説もあります。走水神社から海を隔ててまっすぐに西に進んだところ、現在の千葉県君津市にある「阿久留王(あくるおう)」の墓です。上記の地図をご参照ください。

その伝説によるとなんとか房総半島に渡ることに成功したヤマトタケルノミコトは内陸へと進み、その地を支配していた「阿久留王(あくるおう)」を退治したとされています。

の画像がその墓。

この「阿久留王」は名前からして前々回の投稿で挙げた平安時代初期に坂上田村麻呂に討伐された岩手県平泉の「悪路王」を連想させます。

↓もしよかったらご一読ください

aizenmaiden.hatenablog.com

悪路王が「悪路の地=中央政権による道路交通網の整備が及んでいない辺境の地」の支配者という意味を持っていることを考えるとこの阿久留王も似たようなイメージをもたれた存在なのでしょう。

墓とされている塚のてっぺんには青々とした木がそびえ立っていました。↑の画像。彼の魂はまだ生きているのか?

そしてこの墓のほど近くにはヤマトタケルノミコトを祀った白鳥神社もあります。神話ではヤマトタケルノミコトは死んだ後に白鳥となって飛び去っていった、とありますが、当地ではその白鳥がこの地にも立ち寄ったことになっています。

↓の画像がその白鳥神社

境内にはオトタチバナヒメを祀った神社も摂社としてあります。↓

伝説では彼女が入水した7日後に櫛が海岸に流れ着いたとあります。それにちなんででしょう、社殿には大きな櫛が掲げられていました。↓

なお、この神社は周囲をゴルフ場に取り囲まれており、さらにはしばしばプレイ中のゴルフカーが境内を横断するという風情もへったくれもない環境だったのですが...(苦笑)

現地の解説板では「夷族」などと記されて暴君のような扱いを受けていますが、現地に伝わる他の伝説でも阿久留王は恐ろしい鬼であったとも言われています。

彼がヤマトタケルノミコトに屈した後に泣いて慈悲を乞うた(ちょっとかっこ悪い😅)「鬼泪山(きなだやま)」なんて山もあります。阿久留王の墓よりもちょっと西、千葉県の観光名所としてちょいと有名なマザー牧場があるところですね。

さて、ヤマトタケル(そして古墳時代大和朝廷の勢力)はどこまで関東に勢力を広げることに成功したのでしょうか?

常陸国風土記にはヤマトタケルが登場(しかも天皇として!)したりもするのでそうした点も考慮してもっといろいろと検討していくとますます面白さが増すようにも思えます。

なかなかに歴史のロマンをかきたててくれるテーマではないでしょうか。

なお、こうした中央政権に倒された地方の有力者(吉備の国の温羅など)の伝説によく見られるように、全国的には「現地の人たちを虐げていた恐ろしい鬼の類」といったネガティブなイメージが持たれているのに対して現地では正反対で「非常に優れた支配者であり、それゆえに大和朝廷に滅ぼされた」というポジティブなイメージが伝えられています。

阿久留王に関してもそうした両方のイメージが現地に伝えられているようです。

もうひとつ、現在の東海道と言えば東京~京都を結ぶ東海道新幹線のイメージが強いですが、初期律令制時代には東京(武蔵国)は東海道に含まれておらず、相模から海を渡って房総半島を北上するルートをとっていました。なので上総国下総国は南北ひっくり返っているような位置関係にあるわけですが、このルートはまさにヤマトタケルノミコトの東征ルートを想起させます。

なぜ大和朝廷はこのルートを設定したのか?それは最後まで畿内勢力に対して頑強に抵抗した勢力が残っていた三浦半島東部~房総半島西部の支配権をできるだけ早く確立するために交通網を整備する必要があったからではないか?つまり、これらの地を「悪路」ではなくすことに朝廷が心を砕いていたのではないか?

う~む...自分にとって都合のいい話だけ拾って紹介しているのは百も承知ですが(笑)、こうして挙げていくと自分の考えが正しいのではないかとの思いがどんどん高まってきちゃったりして。

最後に、日本の国土は山林が多く平野部が少ない、そして河川が多く海に囲まれた島国です。ですからメインの移動手段は有史以前から江戸時代くらいまでは陸路ではなく水路でした。

ですから道路網が整備されていない「悪路の地」は文化の後進地域であった...とは一概には言えないはず。

例えば江戸時代には日本海側で北前船の貿易でボロ儲けした豪商がいたことが知られています。もし彼らを陸路の視点だけで見てしまえば「地元でブイブイいわせていた辺境の豪農」のような理解になってしまいかねません。

おそらく古代の日本には大和朝廷とはまったく異なる文化、経済網を持っていた「悪路王」たちが各地に存在して活躍していたのでしょう。そして大和朝廷は彼らのほとんどを直接の支配下に置くことができていなかった。

平安後期の東北の安倍氏藤原氏などもそうした「悪路王」たちの延長線上に現れた存在だったのかもしれません。

 

迎撃せよ! ヤマトタケルノミコトとの戦い 前編

ヤマトタケルノミコト”の”戦い」ではなく”との”戦いです。

↓の画像は房総半島の南西端の近く、千葉県館山市にある船越鉈切神社&海南刀切神社で撮影したものです。道路を隔てて近距離に位置している両神社は解説板にあるようにペアのような関係にあります。

その昔、神さまがこの地で人々を苦しめていた大蛇を退治するために鉈を研いだ石...その名も「鉈研ぎ石」!

↓はちょっと見づらいですが説明板です。

船越鉈切神社の方は本殿が海蝕洞穴の中に設置されており、この空間が「鉈切洞穴」として県指定の史跡となっています。

の説明板にあるように縄文時代から人間の居住空間として使用されてきただけでなく、古墳時代には葬送の地として使用されてきたことが発掘品から明らかにされています。

いわゆる洞穴葬と呼ばれるスタイルですが、発見された人骨の中には火葬されたものも含まれていたそうです。

日本における火葬の歴史と言えば700文武天皇4)年の道昭三蔵法師の弟子にして行基の師匠として知られる人物)が記録上最初に火葬で葬られた人物。そして天皇では703年に死去した持統天皇が最初であることが知られています。

が、実際にはそれよりも少なくとも100年以上前から日本で火葬が行われていたことがこの史跡の発掘物からうかがうことができます。しかもこの鉈切洞穴だけでなく、各地に火葬によって葬られたと見られる人骨が発見されており、しかもその多くは洞穴葬の形で葬られているとのことです。

関東地方ではこの鉈切洞穴も含めた房総半島の西側と、それと向き合う三浦半島の東側にしばしば火葬を伴う洞穴葬が行われた遺跡が発見されています。

の地図はかなり大雑把になってしまいますが、わたくしが作成した分布図。赤い◎印が洞穴遺跡です。一番下に見える青い◎が鉈切神社。

さて、古墳時代とはどんな時代であったか?一般的な理解ではこの時代にヤマトの国に強大な権力が誕生し、その権力を基盤にして支配者である大王(おおきみ)を埋葬するために巨大な古墳を次々と造営していた。そしてその権力基盤を畿内からさらに広い範囲へと拡大し、東国や九州にまでその支配権を及ぼすようになっていた...といったところでしょうか。

古墳時代の東国における支配&影響力に関してはよく知られた埼玉県行田市の埼玉古墳群で発掘された鉄剣(「金錯銘鉄剣 がしばしば根拠として挙げられます。

この鉄剣に刻まれている文字の内容について、広く受け入れられている定説では471年、当地の有力者がワカタケル大君(雄略天皇)に仕えていたことが記されているとされています。

実際に関東地方では5世紀後半くらいから古墳の造営が開始されています。

これらの内容・状況をもってして大和朝廷の支配が関東地方にまで広く及んでいたと考えられているわけですが…

しかしこの時代よりも数十年以上は経過しているであろうこれらの洞穴遺跡に大和朝廷の葬送形式とは著しく異なる形式で葬られた跡が残っている、それもその地域の首長などそれなりに有力な人物と思われる人たちの(改葬が行われた痕跡も多く見られる)墓が作られていた。しかも火葬を導入していたわけですから、考えようによっては大和朝廷よりも「進んでいた」という味方もできます。

となると古墳時代の関東における大和朝廷の支配権&勢力圏も一般的な理解よりもかなり割り引いて考える必要があるように思えます。

しかも、上記の洞穴遺跡の分布図からも三浦半島と房総半島の人々の間で交流があったのは明らかで(これらの遺跡からは丸木舟も見つかっています)、この時代にはいくつかの勢力が海をまたいだネットワークを確保しながら勢力圏を築き上げていた様子もうかがえます。

おそらく実際に大和朝廷の支配権が関東地方に広く行き渡るのは雄略天皇の時代よりもゆうに1世紀以上は後の話ではないかと思います。

雄略天皇といえば中国の「宋書」に登場する「倭の五王」のひとり「武」であろうと考えられており、そこでは倭王武は中国(の南朝)に対してしきりに自分がいかに広い範囲に支配を及ぼしているかをアピールしている様子をうかがうことができます。

しかし朝鮮半島にも支配権を及ぼしていることが主張されているようにどうも実態が伴っているとは言い難い。おそらくは実際にそれだけの勢力を持っていたわけではなく、倭王武が支配したい&支配を目論んでいる領域までも含めてアピールしていたのでしょう。

なぜそんなことをしたのか?征服活動を有利に進めるため、中国の王朝から支配を認められたという「箔」をつけるためではないか?

ではなぜそんな箔が必要だったかというと、おそらく東国をはじめとした国内での勢力の拡大がうまくいっていなかったからではないでしょうか?

稲荷山古墳の鉄剣はあくまでその地域の有力者が雄略天皇に仕えていたことを示すものです。ですからこの人物が本当に関東地方においてどの程度のレベルの有力者だったかははっきりとはわかりません。本当に大和朝廷が関東に勢力を順調に伸長させていた証拠になるレベルの有力者だったのか?

もちろん、古墳を造営できるわけですからそれなりの力は持っていたのは明らかです。しかし、むしろ関東圏内においてはそれほど強大な力を持った存在ではなく、だからこそ大和朝廷という「外部の勢力」と結ぶことでより強い勢力と対抗したり、自らの勢力の伸長を図ったのではないか?

それどころか、古墳は自らの権威を誇示するためよりも大和朝廷に服属していることを示すために作られた可能性だってありえるでしょう。

帝国主義時代のヨーロッパの植民地政策がとくにわかりやすい例ですが、ある勢力が自らの支配力を他の土地へと伸長させていく際には「少数派を優遇して多数派を圧迫する」ことによって当地の住民の間で内部分裂を促しつつ影響力を強めていくやり方が採用されます。

この稲荷山古墳の鉄剣も大和朝廷による関東支配のための計略を示すものに過ぎなかったのかもしれません。関東の中小勢力と結んでより強大な勢力の支配権を切り崩しにかかる、そのためにも中国の王朝から認められた「関東の支配者」という箔がぜひとも必要だった…

...と断言するほどの自信はありませんが、少なくとも関東南部に存在する洞穴遺跡や火葬をはじめとした葬儀の形式からは大和朝廷の影響力はそれほど早い段階では全国各地には広がっていなかったと見ることはそれほど無茶な話ではないと思います。

また、関東の古墳は近畿地方で大型古墳があまり作られなくなる頃から大型化が進む傾向が見られると言われます。これは一般的には「畿内に比べて関東が文化的に遅れていたから」と言われますが、もしかしたらそうではなくて、大和朝廷に服属する首長が関東地方において優位な立場になったのが遅れたために大型古墳が作られる時期も遅れただけなのかもしれません。

そして大和朝廷と結んで「勝者」の立場となった彼らはその基盤を盤石にするために必死になって自らの権威を誇示・確定するために大型古墳の造営に走った…

さらに、房総半島を擁する千葉県は確認されている古墳の数が関東でもっとも多い(全国でも4番目)地域です。その背景には「大和朝廷と結んだ新興勢力VS結ばなかった既存の勢力」との激しい戦いがあったのかもしれません。抵抗勢力が多く、危ういパワーバランスにある場所ほど権力者の権威を誇示するものが重要になってくる面があるはずです。

しかも、洞穴遺跡に葬られた有力者たちは海をまたいだ連絡・交渉を行い、先程も少し触れたように火葬をいち早く導入していたわけですから、「大和朝廷は先進の文化を持っており、文化・技術的に遅れた地域を支配権に組み入れつつ勢力を拡大していった」という一般的な見解にも少し疑問の余地が出てきそうです。

邪馬台国畿内説の最大の弱点として纒向遺跡など畿内の遺跡からは海外と交易した痕跡があまり見られない点がしばしば挙げられます。大和朝廷はあまり海の交通・交易には強くなかった可能性も十分に考えられます。

大和朝廷が勢力圏を拡大していったのはもっぱら武力と外交の力によるもので、必ずしも文化面で圧倒的なアドバンテージを持っていたとは限らないかもしれません。

関東と言っても稲荷山古墳がある埼玉県行田市と房総半島&三浦半島とではずいぶんと離れているのでまとめて論じるには少し無理があるのは承知の上ですが。

さて、真相はどうか?

というわけで長くなったので後半に続きます!...っていうかタイトルのヤマトタケルノミコトがまだ登場してない!🤣😂

↓が後編です!

aizenmaiden.hatenablog.com

の画像は海南刀切神社とその拝殿内に描かれていた絵。訪れたときにちょうど氏子の方々が掃除をしておりまして、ありがたいことに中に入って撮影させてもらうことができました。

僧侶にして日本画家として活躍した岩崎巴人(はじん)氏の作品です。

 

大和朝廷における「武」の時代の終焉と悪路王の戦い

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Ho!Ho!Ho!

むかし達谷の悪路王

まっくらくらの二里の洞

わたるは夢と黒夜神

首は刻まれ漬けられ

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上記の詩は宮沢賢治作「原体剣舞」の一部です。今回ご紹介する岩手県平泉にある達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)とこの地に伝わる伝説上の人物「悪路王」が登場しています。当時でも岩手県では有名だったのでしょうか。

↓がその達谷窟毘沙門堂の入り口。

桓武天皇の時代、京都の朝廷では「軍事と造作」の両方を展開、平安京の造作で臣民に負担をかけ、軍事によって征服・征討対象となった蝦夷の地の人々に多大な犠牲をもたらしていました。

それが「徳政論争」を経て最終的に途中で放棄される形となって平安朝の環境と領域(朝廷の人々にとっての世界観)が確定することになり、それ以後「」の漢字を冠した天皇が現れなくなる。

ワカタケル(倭王”武”)こと雄略天皇の時代から350年くらいでしょうか(神武東征は伝説として扱いカウントしないとして)、とりあえず富と労働力の収奪による度重なる都(あるいは巨大古墳に代表される権力を誇示するための装置)の移転・造営と強引な征服活動が中断した形となりました。(近代になって朝廷が武力制圧を再開する形になるわけですが、明治天皇は当初「後神武」も諡の候補として上がっていたそうです)

都の境界も、国の支配領域の境界もあいまいなまま「なんとなくこんな感じな」国が成立、以後朝廷はその成立した国の維持を図りつつ内部での権力闘争に明け暮れることになる...

坂上田村麻呂にとって軍事司令官としての最後の活躍の舞台とも言えるのが内乱(未遂)であった薬子の変平城太上天皇の変)だったことはその象徴と言えるのでしょう。

そしてこのあいまいな境界がその後魑魅魍魎が跋扈する伝説の舞台となっていく。

しかし中途半端に征服活動を停止したためでしょうか、以後朝廷の人たちは潜在意識のなかで蝦夷たちが住む東北の方向に警戒心と恐怖心を抱き続けたらしく、それが「鬼門」の概念の肥大化をもたらした...面もあったようです。

もともと中国の「鬼門」とはあの世とこの世とを結ぶ門であって、そこを通って死霊がこの世に現れる、そしてその死霊たちがしばしば災いをもたらすと考えられていたようです。

しかし日本ではそれが拡大解釈&肥大化されて死霊、神、妖怪など災いをもたらすさまざまな存在がこの世にやってくる方角、さらには疫病などの災害・災難がもたらされる方角とされるようになりました。

このように平安朝の領域・境界設定の中途半端さが妖怪・怨霊国家日本を作り上げたのかもしれませんねぇ。

そこで鬼門の方角から災いがもたらされるのを避けるために朝廷から見て東北の方向にお寺を配置してその災いやら悪神、妖怪の類をブロックすることにした...そんな目的で配置されたお寺が現在でも比叡山延暦寺を筆頭にたくさんあるわけですが、この達谷窟毘沙門堂は「蝦夷の地」東北のなかでもとくによく知られている場所だと思います。

お寺の縁起によると延暦20年(801)、この地の蝦夷を征討した坂上田村麻呂によって創建されたとされています。彼はこの地を支配していた「悪路王」を征討し、軍神として加護を与えてくれた毘沙門天に感謝するとともに蝦夷を抑える拠点として毘沙門堂を建立、さらに翌延暦21年には同地に達谷西光寺が造立された、とあります。

同じく坂上田村麻呂創建とされる京都の清水寺を模して建てられたというお堂。

詳しい縁起については↓の画像をご参照ください。堂々たる経歴(?)です。

 

この達谷窟毘沙門堂からさらに北東(鬼門)の方向、宮沢賢治の故郷、そして大谷翔平の出身高校がある花巻市には同じく坂上田村麻呂創建とされる毘沙門天(兜跋毘沙門天)を祀った成島毘沙門堂もあります。

毘沙門天が本尊のお寺と言えば奈良と大阪の境にある朝護孫子寺もよく知られており、ここには物部守屋を征討した聖徳太子が建立したとの話が伝わっています。どうも強力な敵を倒したときには毘沙門天を祀ってその地にこの神の神秘的な力でにらみをきかせる伝統があったようですね。

そして清水寺の北東方向に坂上田村麻呂が立ったまま葬られたと伝わる「将軍塚」があります。死して彼自らが毘沙門天と化したのでしょうか?

で、この達谷窟毘沙門堂が建つ地域で坂上田村麻呂と対峙して敗れ去った「悪路王」とは何者なのか?

実際にこの名前が登場するのは鎌倉時代くらいからのようですが、「悪路」とは文字通り「状態の悪い道」という意味なのでしょう。

古代ローマ帝国がとてもよい例となっていますが、世界各地の歴史を見るとある地域に強力な統一政権が誕生した場合、その支配力の強化・拡大のために道路網が構築され、支配圏内に交通網が張り巡らされていきます。つまり「悪路王」とはそんな中央政権の支配権から外れた地域を支配している王(首長)みたいな意味なのでしょう。

なので固有名詞ではなく、一般名詞、ほかにもこのような名前がつけられた支配者がいたようです(次回の投稿の伏線😆)。

達谷窟毘沙門堂へは平泉駅から自転車で30分くらい。その道中に悪路王ゆかりの伝説を伝えるスポットもあります。

まず「髢石(かつらいし)」。詳細については↓の平泉の観光案内のサイトで(手抜き😂)

www.hiraizumi-yukari.com

そしてもうひとつが「姫待ちの滝」。これも観光案内のサイトをご参照ください↓

www.hiraizumi-yukari.com

境内にはこの伝説とかかわる「姫待ち不動堂」なる施設も。↓の画像。

いずれも悪路王の残酷さ、悪辣さを伝えるスポットですが、これは明らかに支配者の視点から見たもの、これらかなり極端な話の内容からは征服された者たちを貶めることによって自らの征服活動を正当化する意図が見て取れることができるでしょう。

そして悪路王と言えば、東北の地の族長として坂上田村麻呂と激戦を繰り広げたことで知られる歴史上の人物、「アテルイ」としばしば同一視されます。↓はアテルイWikiページ

ja.wikipedia.org

実際に同一人物だったかどうかはともかく、いずれも都の征服・征討活動に抵抗した現地勢力の有力者たちの一人であったのは確かであり、「悪路王」とはそうした有力者の象徴として、または総称として名付けられたものなのでしょう。

史実においてこのアテルイは激戦を繰り広げた後に彼は坂上田村麻呂に降伏、捕虜として護送されたうえで河内国の椙山(すぎやま。現在の大阪府枚方市に比定)にて処刑されます。

一説によれば坂上田村麻呂は彼の助命を前提に降伏を呼びかけ、アテルイもそれに応じたものの、朝廷の公卿たちが処刑を主張、最終的には坂上田村麻呂の助命の要望を退ける形で桓武天皇が処刑を決断したらしい。結果的に朝廷側が騙し討ちをくらわした形に。

京都の清水寺にはその出来事を伝える碑も建てられています。

残酷で悪辣だったのはどっち?となるわけですが、これらの話を読むとフリードリッヒ・ニーチェの「善悪の彼岸」に出てくる以下の言葉が脳裏をよぎります。

「怪物と戦う者は誰であろうとその過程において自らが怪物にならぬよう用心せねばならない。そなたが深淵を覗き込むとき、深淵もまたそなたを覗き込む」

人はだれでも恐ろしい怪物になる素質を秘めている...ってところでしょうか。

それからこの達谷窟毘沙門堂は岩壁に彫られた石仏でもよく知られています。その名も岩面大佛。「岩面に顔面だけ残ってます」っていうダブルミーニングでしょうか。

縁起によると源義家が前九年・後三年の役の犠牲者の冥福を祈るために彫らせたとなっており、ここにも征服戦争の名残をうかがうことができるのですが、残念ながら明治の時代に起こった地震で像の大半の部分が崩壊、現在ではかろうじて顔の部分だけが残っている状況になっています。

お寺では阿弥陀如来としている一方、大日如来ではないか?との説もあるそうです。

同寺には坂上田村麻呂信仰についての説明もありました。↓

東北地方には田村麻呂に征伐された鬼に対する愛着心がしばしば見られる(ここ数年知名度が上昇している岩手県の旧鬼死骸村とか)一方で征伐した側の田村麻呂への信仰も根強くある。

このあたりは中央権力に征服・支配された歴史を持つ東北地方の複雑な環境や人々の心情が垣間見られるような気がしますね。

↓はそのほかの境内のスポット

というわけで、次回の投稿にちょっとだけ関連する形で続きます!

 

 

天下人と稲荷信仰 その2 ~最上稲荷とか

前回の投稿に続いて「天下人に影響を及ぼした(かもしれない)神仏の存在」について。

「その1」はこちら↓

aizenmaiden.hatenablog.com

今回ご紹介するのは岡山県岡山市にある最上稲荷。正式名称は最上稲荷山妙教寺。ここの稲荷も前回紹介した豊川稲荷と同じく荼枳尼天を祀っているのですが、ここでの名称は「最上位経王大菩薩」。長い!

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最上稲荷の本殿、霊光殿

豊川稲荷と同様、仏教寺院です。広大な境内にいろいろな建物がありまして、どこがメインなのかちょっとわかりずらいところなのですが。日蓮宗の寺院としてのメイン(根本大堂)と最上位経王大菩薩(荼枳尼天)を祀る寺院としてのメイン(霊光殿&霊応殿)が別々にあるみたいで。

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インド風の山門がインパクト大!

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山門脇にて遭遇。え?このネコちん、供物?
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こちらは根本大堂

もともとは天台宗として創建(龍王山神宮寺)、その後衰退したものの、江戸時代に入って日蓮宗の寺院として再興されたそうです。
境内には聞いたことのない神さまを祀った祠がずら~り!

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縁結び(&縁切り)の「縁の末社
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旧本殿の霊応殿
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ここから山道を登ると奥の院に行けます

そしてその衰退と再興の狭間の時期に歴史上重要な出来事の舞台になっています。豊臣秀吉による備中高松城攻略。備中高松城址がある地域の地名が「高松」、最上稲荷がある場所の地名は「高松稲荷」、昔のガイドブックなどでは最上稲荷のことを「高松稲荷」と紹介しているものもあります。

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はるか備中高松城址を望む
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秀吉本陣跡の碑が立つ地

上記の画像、境内にある日蓮の堂々たる像が立っている場所がかつて秀吉が備中高松城を攻略する際に陣を敷いた場所(この戦いでお寺が荒廃しちゃった、という説と、すでに荒廃していた地に陣を敷いたという説がある模様)とされています。

このお寺そのものが龍王山という山にあって、この陣を敷いた場所からはとても良い景色を眺めることができるとともに清水宗治が守っていた備中高松城を一望できる絶好の場所の立地。↓こんな感じで

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下の案内板の画像をご参照ください。大鳥居が絶好の目印
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備中高松城の水攻めの陣図
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ここに陣を構えつつ「城を落とすのは難しそうだ」と秀吉が見ていたところに黒田官兵衛が水攻めを献言した…とされています。実際に景色を眺めると「ああ、なるほど」とちょっと納得。

そしてこの水攻めを実行してじわじわと攻めていたところに本能寺の変が勃発、清水宗治は歴史に残る切腹劇を演じ、秀吉はいわゆる「中国大返し」を敢行して光秀を滅ぼすことに成功、天下人への道を突き進むことになるわけですが…

徳川家康といい、豊臣秀吉といい、天下人にとっての人生の大きな転機に荼枳尼天が関わっていることになります。これは果たして偶然か?彼らは荼枳尼天の導きによって天下人へと上り詰めることに成功したのか?

しかし天下を取った後のこの二人の荼枳尼天(稲荷)への扱いはまさに好対照を見せています。前回の投稿で触れたように家康は稲荷信仰を優遇して全国に稲荷信仰が拡大するきっかけを作ります。それに対して秀吉は…

よく知られたエピソードですが、彼の養女(前田利家の娘、豪姫)が体調を崩し、原因が狐憑きによるものだと診断(?)されます。そこで秀吉は京都の伏見稲荷大社神仏習合の時代では伏見稲荷大社でも荼枳尼天が祀られていました)に以下の内容の文書をしたためて捧げます。

「娘がキツネのせいで苦しんでいる。なんとかしろ。さもなきゃ全国のキツネを皆殺しにするぞ」

神仏を恫喝! 当時の秀吉の怖いもの知らずぶり、そして晩年の秀吉の得意技「撫で斬り」思想がここでも炸裂しているわけですが(苦笑)。なお、最終的に娘からキツネを追い払って救ったと伝えられるのが日本刀の「天下五剣」のひとつに数えられる「大典太光世」です(ほかにも諸説あり)。もっとも豪姫が宇喜多秀家に嫁いだことを考えるとキツネの呪いは追い払われずに宿り続けていたのかもしれませんが…

かくして荼枳尼天(稲荷)を大事にした家康の一族はその後長く繁栄し、恫喝した秀吉の一族(ついでに宇喜多も)は…まさに結果も好対照。

荼枳尼天おそるべし!われわれの日々の営みは荼枳尼天の手のひらのうえで踊っているだけに過ぎないのでしょうか?

…とまあ、実際にそんな超自然的な力が発動したかどうかはともかく、当時の一般庶民を含めた人たちがそう信じていた可能性は十分にあると思います。今でもなお日本人の深層心理に根付いている「お稲荷さんを大事にすればご利益がある、でも粗末に扱うと恐ろしいことが起こる」というイメージ。

徳川家康豊臣秀吉という二人の天下人が稲荷信仰を「恐ろしい力を持っているからこそご利益も大きい」という日本人の伝統的な神仏への考え方に見事にマッチする方向へと導いた。

この両刃の剣のような面が稲荷信仰への(危険な)魅力を高め、身分を越えて広まっていった原動力になったのではないでしょうか?

ちょっと真面目な話になってしまいますが、こうして見ても現在の(神仏分離以降の)荼枳尼天をないがしろにした形の(おもに神道の)稲荷信仰は本来の(そして現在もなお日本人の深層心理に宿り続けている)形からかけ離れてしまっているように思います。

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上記の画像は境内にある最上位経王大菩薩が降臨し、開山の報恩大師がそれを「感得」した場所という八畳岩。この「感得」というのもいかにも日本語らしい曖昧な表現というか…感じたの?それとも獲得したの?どっち?みたいな(笑)

備中高松城址にも訪れました。

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清水宗治首塚
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こちらは胴塚
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こちらは自刃の地。妙玄寺の境内にあります

上記の画像は備中高松城址で撮影したものです。清水宗治首塚、自刃跡、胴塚など、小規模ながらもありました。彼の死に様が立派だったので以降切腹が武士の儀式的な死の作法として行われるようになった…という説もあるそうで、そうなるとこの方面でもこの戦いは歴史に大きな影響を及ぼしたことになりますね。

天下人と稲荷信仰 その1 ~豊川稲荷

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豊川稲荷妙厳寺の大本殿

前回に引き続き武田信玄の西上を阻んだ(かもしれない)神仏のネタです。

日本でもっとも数が多い神社は八幡神社、ついで稲荷神社と言われています(稲荷を祀った小さな祠を含めればおそらくこちらが1位でしょう)。東京などは江戸時代に「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われたほど稲荷神社がたくさんあり、現在でもあちこちに見かけることができます。

八幡神は軍神としての面を持ち合わせていたわけですが、稲荷神社も怨敵調伏の力を持つと言われる荼枳尼天を多くの戦国武将が信仰していた(神仏習合の時代)と言われているので日本の神社のトップ1&2がいずれも「戦いに勝つ、敵を退ける」ご利益を持っている神さま、ということになりまして。現在の神道についてまわる「共存と平和を重視する」イメージとはちょっと違う実情も見えてくるような気がします。

この荼枳尼天がかかわる稲荷信仰は天狗信仰と同様に明治の廃仏毀釈によって大きなダメージを受けてしまったわけですが…

そもそもどうして全国にこんなに稲荷神社があるか?よく理由として徳川家康荼枳尼天を信仰していた、さらに秘法「荼枳尼天保元の乱の当事者のひとり、藤原忠実も用いたとされる秘法!保元の乱では負けちゃったけど)」を用いて天下統一に成功した、なんて話もあって、実際に天下統一に成功した際に感謝の意を込めて荼枳尼天の社を各地に建てて大いに優遇した…という話が挙げられます。天下泰平の世に荼枳尼天はあまりふさわしくないかも、と考えた家康が荼枳尼天ではなく従来の稲荷の神様である宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を全面に出すことにした、とか。

そんな影響でもともと江戸の武家屋敷で各藩が家康に倣って敷地内に稲荷の社を建てるようになり、それが江戸の町人たちにも広がると同時に参勤交代の影響で全国各地にも稲荷信仰が広がっていったのだろう…という説を読んだことがあります。

ではどうして家康はここまで荼枳尼天(稲荷)に肩入れしたのか?ちょっと考えてみました。

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JTBの新版鉄道旅地図帳」より

↑の画像は東海地方の路線図、ちょうど武田信玄の西上作戦の舞台となったエリアです。赤い丸で囲んだのが武田信玄の本拠地である甲府、青い丸で囲んだのが武田信玄最後の戦いとなった野田城、そして白い丸で囲んだのが今回紹介する豊川稲荷(見づらくてすみません)。稲荷は稲荷でも妙厳寺という荼枳尼天を祀っている曹洞宗のお寺です。家康から厚い信仰を受けていたと言われており、東京の赤坂にある東京別院もけっこう有名です(むしろこっちのほうが有名?!)。

こうして見ると改めて「武田信玄にとって天下(京)は遠かったなぁ」としみじみ思うとともに東海道新幹線というドル箱を擁するJR東海ブイブイ言わせている状況を見ると「東海道を制するもの、天下を制する」と言いたくもなります。

武田信玄の西上作戦の進軍ルートに関しては最近になって新説が出てきまして、かつての甲府からまず信濃へ北上してから一気に南進した説(現在のJR飯田線に近いルート?)に対して現在のJR身延線に近いルートを辿ったのではないか、そして従来の説のルートは別働隊のものではなかったか?ということだそうで。

現在でも静岡から長野に行きたかったらまず東海道新幹線で東京に行ってから北陸新幹線に乗換えたほうが早い、なんて言われるくらい(笑)静岡県内の南北の移動がちょっと面倒な面があるのでわたしは新説に肩入れしたいのですが…どうでしょうか?

この新説だと信玄は甲府からまず南下して現在の掛川市にあった高天神城を通過、さらに西へ向かって二俣城、三方ヶ原、そして野田城へ。というのが大雑把なルートだと思うのですが、気になるのが野田城豊川稲荷、そして岡崎の立ち位置。

もし信玄が進軍を止めずに西上を続けていれば豊川稲荷の地域も飲み込んでいた、さらに岡崎まで達していたのではないか?

一方で言い方を変えれば豊川稲荷の直前で信玄は撤退した見ることもできそうです。

さらにこれを見方を変えて徳川家康の立場から見ると「豊川稲荷荼枳尼天の神通力が信玄を追い払ってくれた!」とならないでしょうか?そして人生最大のピンチのひとつを救ってくれた荼枳尼天に感謝を抱きつつ厚い信仰を寄せるようになった。

荼枳尼天を信仰して怨敵調伏を行っていたのではなく、荼枳尼天が怨敵を調伏してくれたから荼枳尼天を信仰するようになったのではないか?それ以前に荼枳尼天を信仰していたのかもしれませんが、これをきっかけにますます厚く信仰を寄せるようになったのかもしれません。

もし信玄がもう数ヶ月も進軍を続けていたら豊川稲荷の地域も武田軍に飲み込まれていたかもしれない、さらに徳川家康が滅亡していたら?そこまで破滅的な結末には至らずにピンチを脱することができたとしても、家康の豊川稲荷、ひいては荼枳尼天(稲荷)への信仰心(評価)もずいぶんと違っていたでしょう。

「なんだよ、あっさり敵に征服されやがって、ぜんぜんダメじゃん」とばかりに。

信玄の西上作戦がさらに続いていれば徳川家康が天下を統一できたかどうかわからないだけでなく、天下を統一できたとしても稲荷信仰に肩入れすることはなかったかもしれませんし、そうなると現在のような全国至るところに稲荷神社があるような状況も作られなかった、つまり「稲荷は天下を統一することはなかった」のかもしれません。

そう考えると武田信玄の西上作戦とその頓挫(放棄?)は日本の軍事史、政治史のみならず日本の信仰史にも大きな影響を及ぼしたのではないでしょうか?

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荼枳尼天真言も堂々たる様子で左側は「オン シラバッタ ニリ ウン ソワカ

この豊川稲荷、仏教寺院ということもあって一般的な稲荷神社とはまた一味違う、呪術的な雰囲気が漂う空間でした。こっくりさんに代表されるように日本人の深層心理には現在でも「お稲荷さんはちょっと怖い」イメージが宿っていると思うのですが、それはおそらく荼枳尼天がもたらしたものではないか?境内を回っているとそんな思いを抱くとともに「キツネとお経の組み合わせって合うな」と感じたりもしたのでした。

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霊狐塚へと続く参道。こちら目当ての人も多いようです。
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霊狐がびっしり!
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こうして見ると迫力を感じますが、ひとつひとつの像を見ると…
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怖い子もいれば愛嬌のある子、イケメンなど色とりどり。
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豊川駅ではちょいとゆるいキツネ像がお出迎え!
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駅前広場にもキツネ像が!

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マスコットキャラクターの「狐娘(ここ)ちゃん」

ところで日本人は「三大◯◯」が好きとよく言われますが、「三大稲荷」といえばみなさんどこを思い浮かべますか?

伏見稲荷大社とこの豊川稲荷は不動、あとひとつはどこか?になると思うのですが…

おそらく一般的な意見として西日本の人は岡山の最上稲荷妙教寺)、東日本の人は茨城の笠間稲荷を挙げることが多いと思うのですが…ほかにも各地に「三大稲荷の一角」を自称する寺社仏閣が多数(笑)、とくに佐賀県の祐徳稲荷などはかなり有力な候補になると思いますが…ちなみにわたしは東京者なので王子稲荷に一票を投じます。

あともうひとつ、現在中央新幹線の開通工事が進められて(いろいろとゴタゴタもありますが)います。もしこれが開通すれば東京から山梨、長野、岐阜を通って名古屋、さらに大阪まで達する新たな交通ルート(京都をスルー!)が誕生することになります。↓の画像

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浜松駅にて撮影

これまで日本の鉄道網は基本的には古くから人間が移動ルートとして使っていた場所(海をまたぐところでも)に線路を敷いて(あるいはトンネルを通して)築き上げられたものだと思います。武田信玄の西上作戦のルートに関しては先述したように諸説ありますが、新説によると往路はJR身延線東海道線天竜浜名湖鉄道、そして帰路はJR飯田線中央本線のルートを辿って移動したようです(こう書くと「ローカル鉄道ぶらり旅」みたいな感じですね)

それに対してこの中央新幹線のルートは日本の歴史上おそらくこれまで存在していなかった移動ルートを新たに作ることになりそうです。

開通すれば日本の交通網の一大革命になる可能性を秘めているのですが、一方でこの移動ルートが16世紀に存在していれば信玄の上洛が圧倒的に楽になっていたことになります。

「このルートがあれば信玄が信長のようなこわっぱ(失礼。あくまで話のネタです)の後塵を拝したりせんかったわい!」

という山梨県民の雄叫びが聞こえてきそうです(笑)。それどころか、甲斐と美濃の交通が簡単にできていたなら武田家と斎藤家の対立が激しくなり、武田家と織田家が同盟関係を築いていたかもしれません。信長が信玄の甥っ子だった、とか。

気候や地形のように人間ではコントロールできない要素が人間の歴史をコントロールしている面もあったりして、人の営みとは面白いものですね。

からっ風と天狗伝説 ~秋葉神社

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秋葉山本宮秋葉神社(上社)の拝殿

昨年の大河ドラマの影響でちょっと話題になった浜松エリア。それに乗じた...わけではありませんが訪れてきました。大河ドラマの舞台を見るために…じゃなくてアニメ「ゆるきゃん」の聖地巡りで(笑)

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ゆるきゃん車両 ラブリー!

そんな浜松エリアの名物のひとつが冬場に吹く冷たく乾いた風「遠州のからっ風」。年末シーズンにわたくしが訪れたときはよりによって連日強風注意報が発表、夕方ころになると体感温度マイナス10℃くらいのそれはそれは寒~い風に身を晒す状況に陥りました。

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Beautiful, but Sooooo cold!

↑とくにこれを撮影しているときに(笑)

「まずい、死ぬ、凍死する!あ、でもこれぜったい話のネタになるな」

と心の中で叫びつつの滞在となったのでした。(はい、ここでネタにしています)

*遠州のからっ風。季節風の一種で日本海側で雪を降らせた風が乾燥した状態で山を越えてはるばるとやってきたもの。雪は降りにくいが体感温度が低すぎて心が折れそうになる強くて冷た~い風。現地では「布団がふっとんだ」と言うとダジャレとして機能せずに本気で心配されるらしい(すみません、嘘です)

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秋葉神社上社の鳥居
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天狗のおみくじ!
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幸福の鳥居

訪れた時には秋葉神社(秋葉原の地名の由来とも言われる。正式名称は秋葉山本宮秋葉神社)の本社(上社&下社)がある秋葉山にも登ってきました。標高866メートル。約2時間くらいで登れる山なのですが、山頂の上社では建物の屋根や地面に氷が張っていました。が、浜名湖周辺や浜松市街地よりも暖かい。理由はいたってシンプルで、

風が吹いていなかったから

山頂の絶景を眺め、神に祈りを捧げつつ「からっ風恐るべし」と自然の脅威に畏怖の念を禁じ得なかったのでありました。

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拝殿からの絶景!

徳川家康が絶体絶命のピンチに陥った三方ヶ原の戦いは旧暦の12月22日、現在の暦では1月25日に起こりました。つまり遠州のからっ風の絶頂期。行軍する兵士たちは大丈夫だったのか?と心配にもなってきます。

さらにこの武田信玄の西上作戦は途中で放棄されるような形となり、その後ほどなく信玄が死去。この死因に関しては諸説ありますが…

遠州のからっ風にガタガタブルブルと震わせながらわたくしはある考えをよぎらせました

もしかしたら信玄って遠州のからっ風の寒さにやられて風邪をひいたんじゃないか?

と。

アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン夜中愛人の元へこっそりと通っていたら風邪をひいてそれが原因で肺炎になって死んだ…なんて話もあるのでありえない話ではないはず。ドラマティックな人生を送った人間の死に方までドラマティックとは限らないわけで。

武田信玄が喀血の症状を見せていたとの話も風邪からはじまった感染症による肺炎の疑いを抱かせます。

果たして真相やいかに?

そして秋葉山といえば天狗伝説、そして火防の神を祀った地としてもよく知られています。全国各地の天狗信仰の例にもれずこの地の信仰も明治の廃仏毀釈によって破壊されてしまいましたが、かろうじてかつての姿を垣間見ることができます。(たとえば浜名湖の中心エリアである舘山寺にもこの天狗(秋葉三尺坊大権現)が祀られたクールな祠があります。)

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↑これは秋葉神社上社に至る途中にある秋葉寺(しゅうようじ)で撮影したものです。こちらの方が神社よりも従来の信仰をよく保っているようです。

そのためわたしは今回、浜名湖湖畔でからっ風に身を晒して寒さに震え上がり、秋葉山の山頂で雄大な景色を眺めながら感動に打ち震えながら頭の中で天狗伝説とからっ風の関係に思いを馳せることになったのでした。

乾いた強い風は火事の被害を拡大させる脅威となる、となると、

天狗が神秘的な力で風をもたらすと見なされていた

強い風が火事の被害を拡大させる

人々(実際にからっ風の被害に悩まされていた)はそれを避けるために天狗に祈りを捧げる

天狗が火防の神として祀られるようになる

という流れが想像できます。災いを直接防いでくれる神仏ではなく、災いをもたらす神仏に祈りを捧げることで災難を避けようとする、という日本ならではの「祟り神」信仰がここに見られるのかもしれません。

そしてからっ風と言えば群馬県の「上州のからっ風/赤城おろし」もよく知られています。そして群馬県にも迦葉山に代表される天狗伝説がある。

気候条件と人間の思考回路が組み合わさることで妖怪や伝説が生み出されていく、そしてそれが歴史になる。とくに山は歴史と伝説が交錯しやすい場所なのかもしれません。

そうなると俄然気になってくるのが阪神タイガースの「六甲おろし」ですが…当地に天狗伝説はあるのでしょうか?

秋葉神社と言えば徳川家康の信仰が厚く、江戸に幕府を開いた際には江戸の町を火事から守る神として勧請されあちこちに秋葉神社が建てられました。現在でも旧江戸エリアにとどまらず広い地域に秋葉神社が見られ、とくに神社の境内に末社として祀られているのをよく見かけます。

なぜ徳川家康秋葉神社を信仰したのか?理由として「自分の地元の神だから」がよく挙げられますが、もっと直接的な理由はないのか?

遠州のからっ風に身も心も震え上がりつつわたしはある説にたどり着きました。

徳川家康武田信玄遠州のからっ風にやられて死んだことを極秘の情報網を通して知っていたのではないか?そして自分を救ってくれた秋葉の神に感謝を捧げるために信仰を捧げたのではないか?」

さて、この新説(珍説?)はいかがでしょうか?

ちなみに上社の拝殿は1986年に再建されたもの。その前の拝殿は山火事による延焼で焼失してしまったそうです。

というわけで、さあ、みなさんご一緒に!

あれ?火防の神さまじゃないの?

おそらくこうした人間にはコントロールできない荒ぶる恐ろしい面も古くから日本人が山に信仰を寄せてきた理由なのでしょう。

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秋葉神社上社の神門
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玄武
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朱雀
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青龍
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白虎

立派な四神の彫刻を伴う神門も素敵です。↑

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↑こちらは山の麓にある下社の方。参拝者向けの休憩所に暖かいストーブを炊いてくれていたとても素敵なところでした。