鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

走れイナリ!~稲荷信仰と参勤交代との意外なカンケイ

日本最大勢力の神社といってもおそらく過言ではない稲荷神社。その歴史は少なくとも奈良時代以前にまで遡ることができると言われていますが、現在のような全国各地に無数の神社や祠が建てられ、信仰されるようになったのは江戸時代に入ってからと考えられています。

その理由として挙げられるのが徳川家康がライバルを倒すための呪力を手に入れるためにダキニ天(荼枳尼天)を信仰していたため...とも言われています。この点に関しては以前に投稿したことがあります。

ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

そして見事天下統一を果たした家康はその加護への感謝の意図を込めて稲荷信仰の浸透を図った...とも言われています。

そしてもうひとつは江戸時代の参勤交代制度の存在。江戸において将軍さまのお墨付きのような形で広まっていた稲荷信仰を、参勤交代で江戸に来ていた地方の武士たちが受け入れた。彼らはまず自分たちの江戸屋敷に稲荷神社を勧請し、それをさらに地元へと「持って帰る」形で広めていった…

さらに稲荷の持つ個人的な願望(欲望?)を叶えてくれる呪術的な面(まさに家康が頼りにしていた部分)が当時天下泰平の世のもとでの市場経済の浸透と結びついて商売繁盛の神さま(ビジネスは戦争だ!😅)としての面を強く持つようになり、江戸の町を中心に身分を問わず信仰を集めるようになっていった。

参勤交代によって広いエリア、つまり水平方向に広がり、富をはじめとした現世利益への期待によって広い身分、つまり垂直方向に広がっていく。これが稲荷信仰が日本最大勢力の神社となった原動力なのでしょう。

稲荷神社の総本社は京都にある伏見稲荷大社、そして現在の稲荷神社の主祭神はウカノミタマノカミ(宇迦之御魂神)となっていますが、稲荷信仰拡大の「震源地」は江戸、そして信仰拡大の原動力となったのはダキニ天だった、と言うことになります。

そもそも、現代でもなお日本人の深層心理に巣食い続けている「稲荷さまはちょっと怖い」イメージはまさににダキニ天の呪術的な世界観を引きずったものと言えるはず。

そんな江戸の町から参勤交代制度を通して稲荷信仰が全国へ普及していったことをうかがわせる伝説が各地に見られます。今回はそのひとつ、福井県小浜市、旧小浜藩領にある「八助稲荷大明神」をご紹介します。かつて小浜城が建っていた地にある小浜神社の末社として境内に鎮座しています。

は神社の説明。そして...

がこの伝説の説明。文中の「仲間」は「なかま」じゃなくて「ちゅうげん」ですね。

こうした「稲荷のきつね(白狐)がおつかいをする」というパターンはけっこうありまして、おそらくもっとも全国的な知名度が高いのは秋田県山形県の間で伝わる「与次郎稲荷神社(與次󠄁郞稻荷神󠄀社󠄁)」、あとわたくしが把握しているものでは山形県米沢市上杉神社(米沢城址内にある神社)末社福徳稲荷神社、さらに神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮のすぐ向かいにある「志一(しいち)稲荷」などが挙げられます。

全国各地を駆け回る動物と言えば今はクロネコ、しかしかつては白狐だったのだ!

上杉神社の境内にある福徳稲荷神社の霊験記。

ちょっと字が小さくて見づらいので霊験記の部分をアップしたものも↓

こちらは呪術的なダキニ天のカラーがとくに全面に出ていますね。ちなみに上杉謙信の兜の前立ての飾りは飯縄権現です。

こちらは鎌倉の志一稲荷神社の説明板。訴訟のためにはるばる九州から鎌倉に来る...室町時代初期を舞台にした伝説らしいですが、元寇を契機に朝廷が西日本の統治権を失っていった状況がうかがえるのでしょうか。

そしてこれらの伝説のうち鎌倉の志一稲荷を除いたほかはすべてかつて藩主の城郭内にあり(秋田の与次郎稲荷は久保田城址にある)、しかも江戸との往来で白狐が活躍した設定になっています。これは稲荷が江戸から参勤交代の制度を通して各地に広がっていった経緯を示していると想定できるのではないでしょうか?

参勤交代の制度においては単に藩主やその家族が一定期間江戸で暮らすだけでなく、さまざまな理由で江戸と本国の間での連絡が行われていた、そしてその環境が各藩にとって大きな負担になっていた様子もうかがえそうです。白狐がお使いとして活躍する伝説はそんな当時の参勤交代の面倒くささやいろいろと起こったであろうトラブルが反映されているのかも知れません。

そして鎌倉の志一稲荷の話がどこまで時代的に遡ることができるかはわかりませんが、伝説が室町初期に設定していることを考えると参勤交代制度が導入される前にすでに形成されており、稲荷信仰の普及・拡大とともにこの伝説も各地域に合わせて多少改変されつつ広がっていったシチュエーションも想定できそうです。何しろ参勤交代制度は基本的に(江戸からの距離による負担の違いはありますが)どの藩も同じ面倒を強いられたわけですから、同じ伝説が基本的な骨格を変えることなく広がっても不自然ではない。

その時代の社会のシステムや環境が文化、信仰に大きな影響を及ぼす。そしてそのことを伝説や民話から垣間見ることができる。

じつに面白いものですね。

もう少し八助稲荷神社の画像を↓

なかなかにいい感じの顔立ちをしてらっしゃる狐たち

いい感じの小祠

面白い姿をしている木

参勤交代制度は幕府による各藩を統制する強力な手段として機能していた一方、各藩を結びつける役割も担っていました。何しろ全国各地の藩主が定期的に一定期間江戸に住んでいたわけですから。稲荷信仰もそんな「結び目」を通して広まっていったのでしょう。

そして白狐のような霊力を備えていない人間ができるだけスムーズに江戸と本国を往来できるよう、ルート上のインフラが整えられていった。

江戸時代には一般の民衆の間で富士講伊勢参りが流行しましたが、それが可能だったのもこのインフラ環境があってこそでしょう。

おそらく江戸時代とそれ以前との間では日本人の信仰心や信仰の実践において大きなボーダーラインが引かれていると思います(仏教の檀家制度も含めて)。檀家制度によって信仰圏がローカルになった一方で参勤交代によってグローバルになった面もある。

そしてもうひとつ大きな信仰史のボーダーラインとも言えるのがご存知明治時代の廃仏毀釈。これによって残念ながら日本の信仰は取り返しのつかないダメージを被ることに。

かたや整備、かたや破壊。

近世と近代の落差に切なくなってきます。

小浜神社の境内にはかつての小浜城の痕跡も見られます。↓は本丸跡。

さらに他にも建築時の人柱伝説を伝えるお地蔵さまや小浜地方の代名詞ともいえる八百比丘尼伝説ゆかりの石など面白い見どころがありますが、もうひとつ。

かつては北陸を代表する巨樹&ご神木であったものの、残念ながら2003年に枯死してしまった「小浜神社の9本ダモ(タブノキ)」が生えていました。現在では八助稲荷大明神のすぐ目の前に株だけが残っています。

これが現在の姿。

そのため、現在の小浜神社は城郭と巨樹両方の史跡となっている状況です。

その九本ダモを見ながら元気だった頃の姿を見たかった😥...としみじみ思ったりもしました。

さらにさらにもうひとつ、この小浜神社の祭神はかつての小浜の初代藩主、酒井忠勝(1587-1662)

そして山形県鶴岡市の鶴ケ岡城址(かつての出羽庄内藩の城)にある荘内神社の祭神のひとり(一柱)は出羽庄内藩の初代藩主、酒井忠勝(1594-1647)

同時代に生きた、同名異人。

徳川四天王の一角、酒井忠次の子孫が出羽庄内藩のほう。

観光スポットとして有名な埼玉県川越市川越藩の藩主でもあった酒井家の一族が小浜藩主のほう。

おそらく日本でもっとも紛らわしい神さまでしょう😅。

信仰に関しては歴史の過程で似たような立ち位置・ご利益の神仏がやがて同一視されるようになる、というケースがしばしば見られます。なのでこの二人の酒井忠勝もいずれごちゃごちゃになったうえで同一視されるようになるのかもしれません…

...ってもうなってる?

 

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