鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

平安ノスタルジーの世界をたどる 清少納言と藤原定子、一条天皇 ~京都・鳥戸野陵

あらたまる しるしもなくて 思ほゆる 

    古(ふ)りにし世のみ 恋いらるるかな”

「世の中が変わる様子もなく、ただただ過ぎ去ってしまった昔の世を恋しく思います」

---清少納言が詠んだ歌。

近年「昭和ノスタルジー」ともいうべき風潮があちこちに見られます。「あの頃はおおらかでよかった」とか「日本が元気だった」とか。文字通りの「ノスタルジー」であって、今より当時が良かったわけでは必ずしもないわけですが、こうした風潮そのものが現代日本の状況をよく示しているのかも知れません。

そしてそんなノスタルジーを感じる方にとってこの清少納言の歌は「わかるわかる!と親近感を覚えるのではないでしょうか。

とはいえこの歌に見られる清少納言の懐古の年は単に加齢がもたらした(笑)ものではなく、彼女をとりまく状況の大きな変化によってもたらされたものでした。そんな彼女の生涯を知るうえで欠かせない人物が一条天皇中宮であった藤原定子976-1001。旧暦では没年は100012月)。

京都市東山区にある「鳥戸野陵(とりべのみささぎ)」。藤原定子の墓としてとくに知られている場所です。

今被葬者のラインナップ。後述するように藤原定子没落の原因を作った藤原詮子の火葬塚もここにあります。これぞ呉越同舟

今年2024)年の大河ドラマがまさにこの時代なので(見てません)、話題になる機会も多いと思うのですが、藤原定子藤原道隆の娘、そして藤原道長は道隆の弟、つまり彼女の叔父にあたる人物。そのため道長と彼女の一族(中関白家)との間で激しい(というか陰湿な)権力闘争が繰り広げられ、最終的に道長が勝利、一条天皇に入内していた彼女はかなり厳しい環境に置かれることになりました。そして3人目の子どもを産んだ時に死去。享年24

この辺はよく知られた話ですのでここでは割愛。

清少納言はそんな薄幸の女性、定子に女房として仕えていた人物。かたやライバルとして語られる紫式部は権力闘争に勝利した側の道長の娘、彰子に仕えていた人物。

ですから冒頭の清少納言の歌は主人であった藤原定子が死去し、定子を中心とした女房たちの「小さな世界」が崩壊・消滅した後に詠んだものです。かつて同じく定子に仕えていた同僚だった女性に向けて詠んだ歌らしい。

自分たちが属していた、それも居心地がよかったであろう「世界」が崩壊し、一緒に過ごしていた者たちがバラバラになってしまった状況に対して「ただただ昔が恋しい」と言っている。単なるノスタルジーとは言えない深い心境がうかがえますね。

主人と勤務先を失った清少納言がその後どんな人生を送ったのかについてははっきりとしたことはわかっておらず、後述するように諸説がありますが、彼女のような女房(女官)に関しては再就職の道がいろいろとあったようです。

というより朝廷やそこに仕える官女たちの間で職を失った女性の再就職を斡旋する習慣があったらしい。この歌も詠んだ相手が別の貴族のもとへ再就職することが決まったときに清少納言が贈ったものです。できるだけ路頭に迷う女性が出ないよう、うまくやりくりする、みたいな感じでしょうか。

しかも官女たちの就職(再就職)先はその人が置かれた状況を考えると意外に思えるところも見られます。例えば清少納言の娘、小馬(こま)藤原定子の「宿敵」であったはずの道長の娘、藤原彰子のもとに仕えています。あるいは就職の話ではありませんが、定子の最後の子どもとなった媄子内親王(びしないしんのう)はそれこそ定子の一族を没落へと追いやった張本人のひとりである藤原詮子一条天皇の母にして道長の姉。弟を権力者につけるべく夜な夜な息子を説教したらしい/笑)のもとに引き取られています(そのため定子の死後、清少納言はこの縁で藤原詮子のもとに一時期仕えていたのでは? との説もあります)。

さらに定子の長男、敦康親王はほかならぬライバル、藤原彰子のもとで育てられます。しかも彰子はこのライバルの遺児をかなりかわいがったらしい。

時代が下ると源平合戦における悲劇のヒロイン、建礼門院徳子に仕えていた歌人(「建礼門院右京大夫集」の著者)として知られる建礼門院右京大夫は平家滅亡後に後鳥羽天皇のもとに出仕しています。彼女は仕えていた期間は後鳥羽天皇のほうが長いのに建礼門院徳子に仕えていた時期を懐かしがって自らの名前(ペンネーム?)に「建礼門院」を使っている。この点冒頭の清少納言の歌に通じるものがあるかも。そしてこの人も主人と勤務先を失った後に平家の敵方にあたるところに再就職先を見つけていることになる。

なお、この建礼門院右京大夫は以前取り上げたことがある「源氏物語」の同人小説(?)「山路の露」の作者の有力候補のひとりでもあったりします。

京都の宮廷社会では男たちの(しばしば女性を巻き込んだ)熾烈かつ陰湿な権力闘争とは別のところで女性同士が助け合うような環境があったらしい。この点は武士の時代の「倒した敵は一族皆殺し」とはずいぶんと異なる部分なのでしょう。

ほかにも女性が職や生活の糧・後ろ盾を失った場合には交際・交流のある男性が支える、という仕組みもあったようです。建礼門院徳子は平家滅亡後に大原に隠棲してほどなくして死去した…と言われていますが、実際には彼女の姉妹の夫であった藤原隆房(1148-1209)の庇護のもとで余生を送ったと考えられています。(ちなみにこの隆房と建礼門院徳子の姉妹との間の子孫を通して現在の天皇家平清盛の遺伝子が受け継がれています)

陰湿な権力闘争のイメージが強い京都の貴族ですが、そんなドロドロした面とは違うこうした部分はもっと知られてよいのかも。多くの貴族の女性たちにとって権力闘争など厄介なものに過ぎず、迷惑がっていたのではないでしょうか。藤原詮子にしても定子個人に対しては何も含むところは持っていなかったのかも知れません。

そして清少納言の代表作…というよりこの作品でもって清少納言の名が知られている「枕草子」ではそんな貴族社会の女性たちの日常生活が定子を中心とした職場を通して非常に活き活きと描かれています。そしてこれを読むと定子という女性はとてもよく笑う、かわいらしい女性だったようです(後述するようにかなり美化されている気配も見られますが)。

そんな彼女と一条天皇の夫婦仲はかなりよかったらしく、そこに権力奪取のために強引に自分の娘、彰子をねじ込んだ道長のイメージを大きく損ねているわけですが、そんな定子は死去した際に一条天皇に遺したと思しき辞世の句を詠んでいます。がそれです。

夜もすがら 契りしことを 忘れずは 

   恋いん涙の 色ぞゆかしき”

訳はのような感じでしょうか。

「夜を徹して交わしあった約束を忘れずにいるならば、わたしが死んだ後にあなたがわたしを恋しがって流してくれる涙に心を惹かれることでしょう」

ちなみに最初の三句を「わたしたち一晩中愛し合ったときのことを忘れずにいるならば」と訳すものもありますが、この「夜もすがら 契りしこと」とは当時の習慣だったとされる七夕の夜に恋人同士が将来を誓い合う約束のことらしい。そもそも当時の天皇はいろいろな制約があって夜通し女性と愛し合う、なんてことはなかなかできなかったみたいですから(天皇のメイクラブは基本昼間だったのだ!😄)。

さらに定子の辞世の句をもう一つ↓

煙とも 雲ともならぬ 身なりとも

   草葉の露を それと眺めよ

藤原定子は当時すでに貴族社会(天皇を除く)では通例となっていた火葬を拒否、土葬で埋葬されました。その意思を示した歌。火葬ではないので遺体が燃やされて煙や雲になることはない、というわけですね。

「火葬ではないので煙にも雲にもならないわたしですが、草葉の露をわたしだと思ってください」

みたいな意味。

この歌を見た兄の藤原伊周が彼女の意をくんで土葬で葬送を執り行ったらしい。

そしてはその定子の葬送の際に詠んだ一条天皇の歌

野辺までに 心ひとつは 通へども

   わが行幸(みゆき)とは 知らずにやあるらん”

「わたしの心はあなたが埋葬される場所に通うけれども、あなたはそのことに気づいてくれるだろうか」

みたいな意味。

極端なまでに清浄さを求められ、ケガレを徹底的に避け(ることを強いられ)た天皇はたとえ愛する女性であろうとその死にも、葬儀にも立ち会うことができませんでした。「源氏物語」においても光源氏の母親、桐壺の更衣が余命いくばくもない状況になったときには彼女を寵愛していた桐壺帝は泣く泣く彼女を宮中から退下させなければならなかった…という場面が出てきます。

なので一条天皇はこの歌のように定子の葬儀に「心だけは参加している」形にならざるを得なかった。

そんな愛する人の死に際にも、葬儀にも立ち会うことができない一条天皇の悲哀がこの歌にこめられているのでしょう。藤原道長をはじめとした周囲の人間の圧力に屈するような形で定子を遠ざけるような形になった自身の行為に対する罪悪感もあったかもしれません。「彼女が死んだ後にどれだけ恋い慕ったところでこの想いは届かないかもしれないなぁ」みたいな。

また、この定子の葬送の際には雪が降っていたらしく、四句の「行幸」は「深雪(みゆき)」とのダブルミーニング。ですから「わが行幸とは」には葬送の場に降っていた雪はその場に訪れていたわたし(一条天皇)の心、といった意味もこめられているのかもしれません。涙雨ならぬ涙雪

そしてもともと現在の京都市の中心部は今も昔もそれほど雪が降る地域ではないでしょうから、「深雪」と天皇の「行幸」のどちらも珍しいもの、という共通項を前提にしているはず。

さらに定子の辞世の句↓

知る人も なき別れ路は 今はとて

   心細くも 急ぎ立つかな

「頼りになる人も誰もいない死出の旅路になりそうですが、今はただ心細い思いを抱えつつも急ぎ旅立つところです」

これはちょっと投げやりな感じがする歌ですね、もう人生にうんざり、さっさとこの世からおさらばしたい、といった意図が透けて見えそうです。もしかしたら上記の一条天皇の歌もこれを踏まえたうえで詠んだのかも知れません。「彼女はすでにわたしを「知る人」の中に含めていなかったのか」といった心境で。「枕草子」からは見えてこない定子の暗い一面といったところか。

そして定子の死から約11年後に一条天皇が死去します。その際に詠んだ彼の辞世の句

露の身の 風の宿りに 君を置きて

   塵を出(い)でぬる ことぞ悲しき”

「露のように儚いこの身であるわたしが、あなたを風が吹くこの世に残してあの世に去っていくのがとても悲しい」

みたいな意味。

この内容に関しては二つの説がありまして、藤原道長はこれを自分の娘、彰子にあてたものと見なして「御堂関白記」に記しています(こちらは二句が「草の宿り」となっています)。

一方紹介した方は藤原行成の「権記」に記されており、そこでは定子に宛てたもの、とされています。

定子と彰子のどちらに向けて詠まれた歌だったのか? 彰子は長命に恵まれて1074年まで生きますから、一条天皇がこの世に残していく彼女に向けて詠んだと見ても不自然ではない。しかし定子説も捨てがたい。上記の定子の辞世の句「~ 草葉の露を それと眺めよ」とこの歌の「露の身の」とが共鳴している、一条天皇は当然意識して詠んだのだろう、と。

定子の歌では火葬を拒否することで「草葉の露を それと眺めよ」といえる状況、つまり遺体が火とともに煙と灰になってこの世から消えてしまうのではなく、土葬によってこの世に留まり続けることを意図した。そんな定子を残して自分はこの世から消えてあの世に行ってしまうのが悲しい、という意味が込められているのだろう、というわけです。

なお、一条天皇は定子と同じように土葬を希望していたようですが、藤原道長がそれを忘れていたために火葬になってしまったと藤原行成の「権記」には記されています。

「ほんとうに忘れてたの?わざと無視したんじゃないの?」と疑問を抱くのはわたくしだけではございますまい。

もし希望通り土葬してしまえば、「一条天皇は死して再び定子といっしょになったのだ」といったイメージを朝廷社会の人々に与えてしまいかねません。それは道長にとってはあまり望ましい状況ではなかったでしょう。

ただし、土葬を希望しておきながらこんな辞世の句を詠んだあたり、「いくら彼女にならって土葬で葬られたところで定子とはもう会えないだろう」といった諦念を一条天皇は持っていたのかも知れません。あるいは道長が主張するように彰子に宛てた歌だったのか? はたまた当時の道長の権勢の前ではいくら土葬を希望したところで叶わないだろう、との諦念があったのか?

さて、どれか?

死に臨んでいた一条天皇が見ていたのははたして自分が死んだ後に残される人たちの未来か、はたまた定子とともに過ごした過去へのノスタルジーの世界か?

真相は藪の中ならぬ草葉の中って感じですが。

そしてもうひとつ、定子はちょっと気になる歌も残しています。続古今和歌集に収録されており、「なやみ給ひける頃まくらの包み紙に書きつけられける」との詞書を持った歌です。

なき床に 枕とまらば 誰か見て

   積もらむ塵を 打ちもはらはむ”

「なき(亡き)」と詠んでいるのでこれも自らの死を意識した上での歌と考えられ、これも辞世の句として扱われることもあるようです。

ではこれはどんな意味なのか? いろいろな説があって「これで間違いない」という定説はないようです。文字通り読むと「わたしが死んだ時の枕を誰かが見れば積もり積もった塵を打ち払うことができるでしょう」のような意味になりますが、ここから定子の意図を読み取るのはなかなか難しい。この歌で何が言いたかったのか?

この歌に関しては二句の「枕」をほかならぬ清少納言の「枕草子」と見る説もあります。そして枕草子は定子を中心とした宮廷生活を描いた作品。

つまり、「私が死んだ後もこの枕草子が後世に残って誰かの目に留まることがあれば、わたしのもとに積もり積もった嫌なことや噂話を吹き飛ばすことができるでしょう」

といった意味であろう、と。自分が生きていた間悩まされていた陰湿な陰謀も、自分の元にふりかかった屈辱や醜聞もすべてが塵のようにな振り払われて真実が明らかになるはず、みたいな感じでしょうか。

さて、どうでしょうか? 十分にありえそうに思えますが…少なくとも清少納言はこの歌をこうした意味で受け止めた可能性は十分にありそうです。

もっとも定子が「後世の人達に真実を伝える書」と期待したかも知れない「枕草子」は決して当時の定子を巡る宮廷の状況を正確に記したものではなく、明るく楽しい、良い面だけをひたすら描いたものだったわけですが…

ともあれ、そうなると気になるのが「枕草子」というタイトルの意味。もともとこのタイトルは固有名詞ではなく、枕のように分厚い本のことをこう読んでいたらしい。

そんな普通名詞をタイトルにして清少納言が執筆することになった経緯は当の「枕草子」に書かれています。一番最後の跋文。以下のようなエピソード↓

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ある日、兄の藤原伊周から妹の定子のもとに何も書かれていない冊子(草子)がプレゼントされました。同じものが一条天皇にも贈られており、彼は「史記」を書写しているらしい。

そこで定子が清少納言に「じゃあこれには何を書こうかしら?」と聞いてみると清少納言は「だったら枕(草子)でしょうね(枕こそは侍らめ)」と答えたので定子は「だったらあなたにあげるから書きなさい(さは、得てよ)」と賜った。ので清少納言はその草子(紙)にいろいろなことを書くことになったのでした。

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この経緯から考えても上記の「なき床に 枕とまらば」の「枕」を清少納言枕草子と見る説は十分に可能性があると思うのですが、そもそも清少納言はこの「だったら枕でしょうね」と答えたのか? についても諸説あります。

まず普通名詞としての枕草子(分厚い冊子)は日記や和歌の解説書が書かれていることが多かったので清少納言藤原伊周から贈られた草子にこうしたジャンルが向いていると考えて言った、という説。しかしもっと面白い説もあります。

一条天皇が「史記」を書写していたので「向こうが敷(史記)布団ならこっちはその上に乗せる枕だ!」ととっさに言ったという「ダジャレ説」。昔は寝床に敷く布のことを「しきたへ」と読んでおり、和歌においては「枕の枕詞」でした。

しかも枕草子は「春はあけぼの…」でよく知られているように「四季」をよく題材にしている。

史記→敷布団(しきたへ)→枕→四季という連想でこのタイトルになり、この内容になった、と。

清少納言ならいかにもありそうな感じがしますがいかがでしょうか。

だいぶ長文になってしまいましたが、もう少しお付き合いください。定子が若くして死んだ後、清少納言はどうなったのか?落ちぶれて一人寂しく余生を過ごしたという「落魄伝説」もありますが、先述した娘の小馬命婦が権力の絶頂にした藤原彰子のもとに出仕していましたし、息子の橘則長越中守・正五位下とソコソコ出世していますから、ちょっと考えられないでしょう。

そして彼女は晩年に「月の輪」と呼ばれるところに隠遁生活を送っていたとされていますが、この「月の輪」がどこかについても諸説あります。ただ鳥辺野陵からもほど近い泉涌寺があるあたりだろう、というのが有力とされています。この地には鎌倉時代以降の天皇を多数埋葬した「月輪陵(つきのわのみささぎ)」なる陵墓&史跡もある。↓はそんな泉涌寺で撮影してきたものです。

とっても美しい楊貴妃観音像があるところとしても知られていますね。

そして清少納言のような歌も詠んでいます。

月見れば 老いぬる身こそ 悲しけれ

   つひには山の 端に隠れつつ”

「月を見ると自分の老いた身が悲しく感じられる。やがて月が山に沈むように自分もこの世から隠れて消えていくと思いながら」

といった意味。ではこの「月が沈んでいく山」とはどこか? 藤原定子が眠る鳥辺山(正確には阿弥陀ヶ峰~今熊野山~泉山あたり?)よりほかにふさわしい場所はないでしょう。となると「月の輪」とは泉涌寺近辺と見て問題ないのではないでしょうか。

の地図が大雑把な位置関係です

なお泉涌寺境内にはそれを意識してか清少納言の歌碑と供養塔もあります。の画像

そしての画像は鳥辺野陵から泉涌寺へと向かうルート。上に見える橋は今熊野観音寺へと続くものです。

京都駅や伏見稲荷大社周辺はオーバーツーリズムで地獄のような😅状況ですが、このあたりはこの通りとってもよい雰囲気を味わえます。

それにしても清少納言の時代に熾烈(陰湿)な権力闘争を繰り広げた藤原氏の家族関係を見ると藤原詮子道長姉弟道長の子どもの藤原彰子&頼通の姉弟、そして定子と兄伊周、弟の隆家のきょうだいと、異性同士のきょうだい仲はかなりよかったように思えます(枕草子には隆家が姉定子のもとに珍しい贈り物をするエピソードもある)。

利権が絡まない異性の親族とは仲良し、しかし利害が対立するやたちまち陰湿な足の引っ張りあいを繰り広げる…

権力欲とつまらないプライドは人間関係を壊す、という現代にも通用する教訓でしょうか?

 

なお、藤原定子の土葬による葬儀では「霊屋(たまどの)」という施設に遺体を収容した」とされています。この霊屋とは何か?

次の投稿でちょっと触れてみたいと思っております。

乞うご期待!

 

最後の最後、毎回恒例のわたくしの電子書籍の宣伝をば。やっぱりできるかぎりアピールする機会をもたないと埋もれてしまいますので😅何卒ご容赦を。

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