“年経(ふ)とも 越の白山 忘れずは
かしらの雪を あわれとも見よ”
---藤原顕輔(1090-1155) from 新古今和歌集・神祇歌(1912)
この歌の作者は院政の創始者にして権力の絶頂を極めたとも言われる白河上皇の近臣として羽振りを利かせていた(でも途中で失脚→白河上皇の死後に復活)人物。
詞書には「加賀守として現地に赴任した際に白山宮をお参りしたのを思い出しながら日吉大社の白山宮にて詠んだ」とあります。
歌意は「以前白山宮をお参りしてからずいぶんと年を経た今もこうして白山の社にお参りにやってきました。もし白山の神さまがわたしをお忘れでないのなら、この白髪頭になったわたしを哀れとお思いになってください」みたいな感じでしょうか。
「雪が降る」を「歳月が経過する(経る)」に、「雪景色」を白髪頭になぞらえるのは和歌によく見られる手法ですね。この歌ではさらに「雪」と「白山」を結びつけている。ちなみに歌の「白山」の読みはおそらく「はくさん」ではなく「しらやま」。
歌に出てくるお参りした白山宮とは現在石川県白山市鶴来町にある白山比咩神社だと思われます。
おそらくこの歌は白河天皇の寵愛を失って失脚していた時期に詠まれた歌だと思います。讒言によって白河院の怒りを買って失脚した(独裁者の意向で人事が決まる組織の定番ですね😅)のが1127年、彼が37歳(満年齢)のとき。その後、白河院が死去して彼が政界に復活するのが1130年。この間ではないでしょうか。
現代人の感覚では37歳でまるで自分が年寄りであるような表現をするのは奇妙に思えますが、当時では40歳で初老でしたし、あくまで歌なので誇張も入っているのではと思います。なお彼が加賀守だったのは21~28歳までの期間でした。
なじみのある霊山、白山に対して「わたしを哀れに思うなら政界に復帰させてくださいな」と願いを込めた。しかもそれが後に自らの凋落のきっかけとなった「白河」がいなくなったことで実現したことになる。
「白山」と「白河」が対立して前者が勝利した!みたいな形になっている、なかなか面白いですね。もしかしたらこの点も顕輔は意識して詠んだのかも知れません。「地上で権力を握っている「白河」に対抗するには天上の「白山」しかあるまい!」みたいな。
もちろん、白河上皇の存命中には「白河」とは呼ばれていなかったわけですが、「(名前の由来にもなった)白河の地で思うがままに権力を振るっている人」みたいな評判はあったのではないかと。
さらに白河上皇と言えば権力の絶頂下において「意の如くならざるもの、鴨川の水、双六の賽の目、山法師(比叡山の僧兵)」と言った「天下三不如意」がよく知られています。そして日吉大社は比叡山の鎮守社、守護神としての位置づけにありました。
ですから顕輔がこの日吉大社に祈願した背景には「白河上皇の意のままにならない比叡山の神さまにお願いする」という意図も込められていたのかも知れません。「白山vs白河」に加えて「山法師vs白河上皇」の2つの構図。
そして彼が失脚していた時期にこの歌を詠んだ、とのわたしの推測が正しければ、祈願のご利益やてきめんだった、ということになります。
和歌の力ってすごいですねぇ。
↓はそんな滋賀県大津市の日吉大社の境内に現在でも鎮座している白山宮(白山姫神社)。
中世に北陸地方を中心に絶大な勢力を誇った白山信仰ですが、かつては天台宗と深く結びついてその末社のような位置づけでもありました。この天台宗=比叡山の鎮守社であった日吉大社に白山宮があるのもその結びつきゆえ、そして名残なのでしょう。
↑現在でも立派な拝殿を持っているなど、かなり別格の扱い。「山王二十一社」のなかでも上位にランクされる「上七社」のひとつだとか。縁起によると858年勧請・創建。
さて、この天台宗=白山の結びつきは顕輔の時代から半世紀ほど後に歴史を揺るがす大きな事件のきっかけをもたらすことになります。
1176年、平清盛による平家政権がいよいよ絶頂期を迎えようとしている時期に後白河院の近臣、近藤師高が加賀守に任命され、彼の弟、師経が目代として現地に赴任します。その地で彼の手下の郎党たちが当時国司不入の権利を有していた白山信仰の拠点の一つであった湧泉寺(現石川県小松市)への侵入を図り、僧兵たちに追い払われたのですが、それを聞いた師経が怒り狂ってなんと湧泉寺を焼き払ってしまいます。
すると今度は怒り心頭になった白山の僧兵たちが反撃に出て近藤師経を加賀国から追放、さらに比叡山ともタッグを組んで京に逃げ戻った師経と師高兄弟の流罪を実現させます。この争いの際には平重盛の兵たちと比叡山&白山の僧兵と激突して後者が圧勝。
ところが今度は後白河院側が反撃に出て当時の天台座主、明雲が解任されたうえに流罪に処されますが、これに対して比叡山の僧兵が強引に奪回に成功。この際には源頼政&多田行綱の兵と比叡山の僧兵が衝突してここでも後者の完勝。
これに堪忍袋の緒がキレた後白河院が平重盛と宗盛に比叡山攻撃を命令、平家一門は比叡山と全面対決を迫られる難しい状況に陥ったのですが…
そこにじつに都合よく打倒平氏の陰謀事件が発覚、先述した近藤兄弟の父親であった西光なども捕らえられ失脚するなど後白河院の近臣勢力が一掃されることに…
…有名な「鹿ケ谷の陰謀」事件ですが、この経緯からしてもどうも不明な点も多く、「清盛が当時の難しい状況を打開するためにでっち上げたものでは?」なんて説も。彼の視点から見ればこの陰謀によって比叡山との正面衝突を避けることができたうえに後白河院の勢力を大幅に削ぐことができたことになる。のででっち上げ説も無視できないわけですか…
この鹿ケ谷の陰謀の発覚は先ほど名前が出てきた多田行綱がこっそりと清盛の西八条邸(後述)を訪れて密告したのがきっかけとされています。
となると以下のような筋書きも想定できます。
比叡山の僧兵による天台座主明雲の奪回劇を目の当たりにしていた多田行綱が「こりゃ比叡山の僧兵を敵にまわしちゃまずいぞ」と痛感。同じく比叡山と事を構えたくなかった清盛と協力して比叡山と敵対していた後白河院の近臣たちを一掃して危機を回避しよう、と目論んだ。
比叡山の僧兵による天台座主明雲の奪回劇が5月23日、多田行綱が清盛の元に密告に訪れたのが6月1日。ずいぶん展開が速いことからも多田行綱は京都に戻ってくるなりすぐに清盛のもとに駆けつけたんじゃないか?って気もしてきます。つまりこれは密告ではなく「比叡山の僧兵はちょっとヤバいですよ」という報告であって、そこから「陰謀事件をでっち上げる陰謀」を作り上げていった、みたいな。
真相やいかに!
ともかく、この一連の大事件においても「(後)白河」よりも「白山」の方が強かった、という形になりそうですね。
そしてこの事件と冒頭の藤原顕輔の歌から当時加賀国は院の近臣が利権を得るための国になっていたことがうかがえると思います。
さらに顕輔が日吉大社の白山宮に参拝したことからも加賀国でうまくやっていくためには「白山=天台」の勢力と仲良くやっていく必要があった、しかし近藤師経は自らの権力に溺れてかその大原則を無視した振る舞いに出た。それが大事件を引き起こすことになった。
日本史が好きな人なら一度は「院政下の院の近臣ってロクなことしてないよな」と感じたことがあると思うのですが(笑)、これもそれを裏付けるエピソードとなるでしょうか。
しかも当時のもっとも高いクラスに位置していた武士の兵たちも止められない比叡山の僧兵たちの恐ろしさもありありとうかがうことができます。
そしてこの一連の経緯で平清盛の嫡男であった重盛が先述したように僧兵の暴走を止めることができなかったうえに彼の妻の兄であった藤原成親が鹿ケ谷の陰謀の首謀者の一人として捕らえられるなど面目を潰されてしまう形となって一門内で微妙なポジションに立たされることに。
また、後白河院が平重盛&宗盛に比叡山攻撃を命じたのはこの二人が当時近衛大将の地位にあったから。この二人は清盛と比べるとどうも政局や政敵への対応が「生ぬるく」感じる面を持っていると思うのですが、おそらくこうした天皇家に近い地位にいたのが彼らの弱腰の理由のひとつなのでしょう。
こうして権力の絶頂を極めることになった平氏ですが、それも長くは続かずその9年後には壇ノ浦の藻屑に消えることに。そして事の発端となった白山勢力(と現地の天台宗の影響力)は室町時代に北陸の地で大勢力を形成した浄土真宗の圧迫を受けつつ大きく力を失っていくことに…そして院政時代に院との個人的な結びつきで出世した近臣たちは歴史上から消えていくことに。
諸行無常ですねぇ。
事の発端となった加賀国の湧泉寺ですが、もはや痕跡はどこにもなし。かろうじて「湧泉寺」の地名が残るのみとなっています(先日取り上げた加賀市の大聖寺と同じパターン)。
かつてこの地域は「中宮八院」と呼ばれる白山信仰の寺院があって重要な信仰の拠点となっていたのですが、この湧泉寺を含めて当時の繁栄を伝える名残はほとんど見られないというのが現状のようです。
この地域のほかでもかつて白山信仰の拠点となっていた場所のほとんどが失われており、この信仰は現在でも全国各地に多数の白山社を擁している現役の信仰であるにもかかわらず「失われた信仰」としての面も濃厚に持ち合わせたちょっとミステリアスな存在にもなっています。
そしてこの地域の現在の地名は「小松市」。重機メーカー「コマツ」発祥の地としても知られていますが、平重盛(小松殿)の一門の名前と同じ! 地名の由来については重盛が関係している説もあるのですが、彼の面目をつぶす事件のきっかけとなった地が同じ「小松」というのも何やら因縁じみているというか…源義経&弁慶の「勧進帳」の舞台の地でもありますね。
なお、先述のように「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれる事件(あえてこう表現します)には平重盛の義理の兄(妻の兄)であった藤原成親も関与していたとされて捕らえられました。
この成親は当時平清盛と非常に親密な関係にあり、腹心のような立ち位置にあった藤原隆季(後述)の異母弟。加えて重盛の嫡男、平維盛の妻は成親の娘でもあることからも両者の間には非常に密接な関係が築かれていた様子がうかがえます。
重盛はこのつながりから成親の助命&赦免に奔走するのですが、それも叶わず彼は処刑されてしまいます。↓は流罪の地となった岡山県岡山市にある碑。
以前取り上げたこともある宗教団体、福田海の本部の敷地内にあります。
鹿ケ谷の陰謀においては能楽の題材にもなった俊寛のエピソードがよく知られていますが、その俊寛とともに奇界ヶ島に流されることになった平康頼が流される前に出家したことを伝え聞いて重盛が↓の歌を詠んで彼に送ったと「平家物語」にあります。
"墨染めの 衣の色と 聞くからに
よその袂も 絞りかねつつ”
「墨染めの衣の色」とは僧衣のことで、歌意は「あなたが出家して僧衣を身にまとうことになったのを聞いて涙にびしょぬれになった袖の袂を絞っても絞りきれないくらい悲しいことです」みたいな感じでしょうか。
この一連の事件に関して重盛は父清盛に対して関係者への寛大な処置を訴えていたとされていますが、この歌からも父親よりも処罰された人たちに対して共感を抱いていた様子がうかがえますね。
そして重盛はこの事件以降政治の表舞台にあまり出なくなり、父清盛がその剛腕によって権力を完全に掌握した1179年に死去。享年41。
この歌を詠んだ時点で彼はもう権力争いにうんざりしてしまっていたのでしょうか?
その後打倒平家の炎が全国に燃え広がって平家が劣勢に立たされていくなか、重盛一門は少々微妙な立ち位置で戦うことになるのですが…重盛の嫡男、維盛は途中で戦線を離脱するような形で熊野の地へと逃れ、そこで入水自殺をします。
これは熊野の南の海の向こうにあると考えられていた観音浄土「補陀落」を目指した「補陀落渡海」であろう、と考えられているのですが、彼は死を覚悟した段階で↓の歌を詠んだとも言われています(ただし平家物語の作者による創作と考えられていますが)。
妻である藤原成親の娘と子どもたちに向けて詠み送ったとされています。
“いづくとも 知らぬ逢瀬の 藻塩草(もしおぐさ)
書き置く跡を 形見とも見よ”
「藻塩草」とは製塩のために「かき集める」海藻のこと。そのため「書く」の縁語としてしばしば使用されます。なので歌意は「もはやどこで再び逢えるかもわからない状況になった。せめてこの書き残した歌を形見としてほしい」といったところでしょうか。
彼は入水自殺をしますから、「藻塩草」は「書く」の意味だけでなく、死んだ後に海の中を漂うことになる自分の身も暗示していると思われます。
この歌は「見るべきものはすぺて見た」と言い残して壇ノ浦に沈んだ平知盛や孫の安徳天皇に「海の奥底にも都がありますよ」といい聞かせながら同じく壇ノ浦に沈んだ平時子の態度とは非常に対照的、この世に未練を残しながらの入水自殺となっているように見受けられます。
彼は都を離れる際に奥方に対して「俺が死んでもぜったいに出家するな。再婚をして子どもをちゃんと育ててくれ」と言い残したとされています。平家滅亡後に本格的に訪れる「武士の時代」の価値観とはそぐわない、むしろ現代人の価値観に近い。時代を先取りしすぎた男だったのかもしれません。
この歌が本当に維盛が詠んだのか、平家物語作者の創作なのかどうかはともかく、おそらくこの歌は当時の人たちの間で維盛が平家一門の間で微妙な立ち位置に立たされていたことが知られていた、さらに彼の妻の父親であった藤原成親(とその親族)に対する同情の声があった状況を示しているのではないでしょうか。
そう、やはり鹿ケ谷の陰謀は清盛自身による陰謀であった、という見解も当時噂されていた可能性も考えられないでしょうか?
なお、先程鹿ケ谷の陰謀のところで触れた清盛の「西八条邸」は現在史跡&観光スポットとして知られる六孫王神社が立地するエリアに位置していました(京都市下京区)。
この邸宅には清盛邸だけでなく平家一門の邸宅、さらに上記の清盛の側近であった藤原隆季の一族の邸宅もあったと考えられています。
平清盛と藤原隆季の一族との縁は隆季(と成親)の父親であった藤原家成の代から築き上げられており、この西八条邸があったエリアは鹿ケ谷の陰謀事件の舞台となるだけでなく、清盛とその腹心による権謀術策の舞台にもなっていたことが推測されます。
なお、隆季の息子の隆房が平清盛の娘と結婚、この縁で平家滅亡後に建礼門院徳子はこの夫婦のもとに身を寄せたと考えられています。
現在六孫王神社は清和源氏の祖と位置付けられる源経基の邸宅があった地とされ、さらに彼を祀っていることから「源氏発祥の地」としてよく知られていますが、この点からしてもあくまで伝承の世界の話だと思われます。(室町時代あたりから言われるようになったとか)。
この神社の由来ではもともと源頼政がこの地を所有していたものの、彼が平清盛に譲渡。この土地には「六宮」という社が祀られており、譲渡された後も清盛の邸宅内で祀られ続けていた、とされています。
ただ頼政が清盛に譲渡した、という話は歴史的な根拠を見いだせないらしく、そもそも大事な社ごと譲渡するという内容そのものがかなり無理があります。
通常、土地を手放す際にはその地に祀った神社は移転する土地なり邸宅に遷座します。神さまのお引越しなんて珍しくもなかった日本人の信仰形態から考えても自分の一族の氏神に相当するような宮をそのまま他氏に、それもライバルの平家に土地ごと譲り渡すなんて「非常識な」ことを頼政がしたとはちょっと考えられません。
しかも「六孫王」とは源経基が天皇の6番目の子どもを父親に持って生まれたから呼ばれるようになった名前とされていますが、6番目の子を「六宮」と呼ぶことはあっても、6番目の子のさらに子どもを「六孫王」と名乗る例はほかにありません。そもそも経基の「六孫王」の呼称からして当時の文献にはないらしい。
この「数字+宮」の呼称は源氏物語を読んだ方にはおなじみですね。もし「六孫王」という表現が経基や満仲の時代に一般的だったなら、源氏物語に似たような名称が登場していたのではないでしょうか?
ですから、平清盛の邸宅にあったとされる「六宮」も難しく考えずに「いつかの時代かの天皇の六番目の子どものうちの誰か」、もしくは神社のなかで六番目の序列にある社(ずいぶん低いな/笑)、とみなすのが妥当というところでしょう。ですからこの「六宮」と現在の六孫王神社は別物、ということになる。
そもそも源経基は平将門の乱や信州に伝わる有名な「鬼女紅葉伝説」においてあまりかっこいいイメージでは描かれていません。そんな人物を源氏の人々が氏神として崇敬していたのか? という疑問もありますし、逆に言えば崇敬していたのならもっとかっこいい伝承のひとつでも作られていたのではないでしょうか?
こうして見ても六孫王神社があるエリアは「源氏発祥の地」よりも「歴史が大きく動いた大事件の震源地、そして熾烈な権力闘争のなかで権謀術策が繰り広げられていた地」としての面の方が歴史のロマンを味わえるように思えるのですが、いかがでしょうか?
開発が進みすぎて発掘調査が思うようにできないみたいですが。
↓が六孫王神社。室町時代を通してこの「源氏発祥の地」としての伝承が広まっていったらしく、江戸時代に源氏の子孫を誇る大名たちが奉納した灯籠などもあります。歴史的な価値を見出すならこちらの「伝承として語り継がれた歴史」の方でしょう。
中世に入ると社会が不安定になって権門の庇護が期待できなくなった寺社や職能集団が自分たちに「箔」をつけるために歴史上の有名人と結びつける由緒・縁起や家系図を作っていくようになります。この六孫王神社の「源氏発祥の地」に関してもそんな活動の一環と思われます。
よく徳川家康が「征夷大将軍になるために源氏を詐称した」などと揶揄されますが、こうした経歴の詐称は中世以降当たり前に行われていました。現在残っている家系図の多くもこの中世に作られたものを土台にしている可能性が大、なので知らないうちにあなたも同じことをしているかもしれない!😨😆
少なくともそんな歴史を持つわれわれ日本人は家康を笑うことはできないでしょう。
ちなみに白山事件で登場した天台座主妙雲は源義仲の京都進撃(法住寺合戦)にて斬首されています。
かくして、白山での事件から鹿ケ谷の陰謀に至る一連の出来事に関与した者たちはみな歴史の表舞台から去っていくことに…
たったひとり、後白河院を除いては。
やっぱりこの男、タダモノじゃないな(笑)
いや、もうひとつ、藤原隆季の一族についてもう少し触れて見ます。先述のように彼の一族が清盛と深く結びついたのは隆季の父親、家成の代からと考えられています。彼は清盛の父、平忠盛の正室にして清盛の義母にあたる池禅尼の従兄弟でもある。どうもこの二人は清盛が子供の頃から親しい関係にあったようです。
この池禅尼と言えば、源頼朝の助命を清盛に嘆願したことで知られています。このエピソードは中世においては一族における後家の権限が非常に強かったことを示しているとも言われますが、さらに「なぜ頼朝の助命を願ったのか」についても諸説あります。
その中で面白いのは「平治の乱によって平家の一人勝ち状態になるのを危惧した朝廷が対平家の切り札として頼朝を温存しようとした」というものです。
もしこの説に少しでも妥当性があるのなら、藤原家成の一族は平家と朝廷を両天秤にかけていたことになります。飛躍著しい平家に接近しつつも平家が失脚したときのことを考えて朝廷にも居場所をしっかりと確保していた。
もともと家成の一家は後白河院とも近い関係にあり、息子の隆季は彼と加賀守だった高階宗章の娘との間に生まれています。そう、ここでも加賀守が登場! この高階宗章が加賀守だったのは1129-1131年の間。奇しくも冒頭の歌を読んだ藤原顕輔が失脚していた時期に重なっています。やはり加賀国は当時「院の近臣枠」になっていたのでしょう。
そして鹿ケ谷の陰謀において処罰された者たちのなかに藤原成親をはじめ彼の一族が多く含まれていました。なんと事の発端となった白山での事件の当事者、近藤師経の父親、西光は家成の養子でもあった!
「時勢が朝廷・平家どちらに転んでもOK」みたいな姿勢を一貫して取り続けていたように思えます。なので平重盛はそんな彼らに巻き込まれて苦しむことになったと見ることもできそうです。
見方を変えればこの鹿ケ谷の陰謀事件に見られる藤原家成&隆季の一族の両天秤な姿勢が上記の池禅尼の頼朝助命嘆願に「裏があった」ことの証拠になるのかもしれません。
そして婚姻関係によって平家の一門と同等クラスの待遇を受けて世の繁栄を味わいつつ、平家の滅亡後には平家と共倒れになることなく朝廷にちゃんと居場所を確保している。
まるで戦国末期の真田家を連想させる世渡りのうまさ、したたかさを感じさせないでしょうか。しかもその後この一族が「四条家」として繁栄することになることを考えると明らかに真田家よりもうまくやってる!
そうなるとこの一族こそ、院政末期から源平合戦の間における目まぐるしい時代の変転の黒幕、という見方もできるのかもしれません。
そして彼らの一族が生き残ったことで建礼門院徳子は平家滅亡後に余生を過ごす場を得ることができ、さらに隆季の息子、隆房と清盛の娘との間の子孫を通して清盛の遺伝子が天皇家にもたらされることになる。
面白いものですね。
さらにもうひとつ、平重盛の孫にして維盛の息子であった「六代」こと平高清は捕らえられた後に一度は頼朝に助命されますが、最終的には処刑された考えられています(異説もあり)。
このいったん助命が許された背景には怪僧、文覚が助命に奔走したからというのがよく理由としてあげられますが、おそらく母方の縁者であった藤原隆房とその一族の口添えもあったのでは? と思います。
なにしろ建礼門院徳子を引き取ったくらいですから、六代の庇護者になるのもごく自然なはず。
ではなぜ一度助命されたのに最終的に処刑されてしまったのか?
そう、この一族の意向を受けて池禅尼が源頼朝を嘆願したために平家が滅亡することになった。同じことをすれば今度は源氏がやばいのではないか?と鎌倉政権側が警戒したからではないか。
まさに因果応報。人の営みとは因果の糸に絡め取られたうえで成り立っているのでは? なんて気もしてきます。
白山について詠んだ藤原顕輔の歌からずいぶんと遠くまで来てしまいました。ただ現在では鹿ケ谷の陰謀の舞台も、その発端となった白山での衝突事件の舞台も、痕跡はまったく残っていません。
かろうじて、日吉大社の境内にある白山社がかつての白山と天台宗の結びつきを現在に伝えている。その意味で価値のある史跡といえると思います。
お読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできるかぎりアピールする機会をもたないと誰の目にもとまらずに埋もれてしまいかねませんので。なにとぞご容赦のほどを。
普段の投稿と同路線、「神・仏・妖かしの世界」を舞台にした創作小説(おもに怪奇・幻想・伝奇・ファンタジー系)です。もしご購読いただければ光栄の極みにて御座候🙏