鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

石をとれ!~印地打ちのフシギな世界 京都・北白川天神宮

今回はかつて日本でよく見られた群衆による「石投げ」、印地打ちについて。↓の「石合戦」のWikiページにあるように記録だけでも古代にまで遡ることができるという由緒正し~いコンセプト。

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地面に転がった石を拾って誰かに向かってぶん投げるというのは実に恐ろしい武器になるわけで、それが集団で行うともなれば殺傷力を備えた立派な軍隊にもなりうる。なにしろ元手がかからない遠距離攻撃用の武器、しかも身分を問わずに誰でも、石を握ったその瞬間から兵士にも暴徒にもなりうる、じつに恐ろし~い戦法ですね。

そんな石投げは寺社で行われるお祭りのイベントの一環でもあると同時に神仏の意思を示すものと見なされていたと考えられています。↑のWikiページでも鎌倉幕府執権の北条泰時が石投げの扱いに苦慮させられている様子が紹介されていますね。

またWikiページにも書かれていますが、こうした石投げは「印地打ち」とも呼ばれており、こちらのWikiページもあります。

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どこからともなく飛んできてしばしば恐ろしい威力を発揮する、というこの印地打ちは神仏の意思、一種の天罰としての意味合いももたれていたようです。そして北条泰時が苦慮したように、民衆による権力者への不満の意思表示の手段として用いられるほか、寺社勢力の権力者に対する(神意という名の)示威行為にも使われていたとか。比叡山の強訴の手段としても利用されていたそうで。

民衆によって行われた前者の方は黙認されていた面もあり、権力者に向かって印地打ちが行われるということはその権力者がその地位に相応しい統治を行っていないという「神意」であり、速やかに改善する必要があることを示すものである、という位置づけが持たれていた。そのため印地打ちを食らった権力者はしかるべき対策を行わないと民衆や寺社勢力から「この者は神仏の意に従わない、権力者に相応しくない者だ」と見なされる。

迷信じみていながらなかなかに合理的なシステム。

祈祷や縁起担ぎで政治を行っていた(?)平安貴族とは違い、実力行使の武士政権であった鎌倉幕府はそんな考え方を否定・規制しようとしたものの、なかなかうまくいかなかった…北条泰時の苦戦ぶりは中世初期に見られていた伝統的な価値観と新しい価値観の衝突を示すものなのかも知れません。

こうした面白い面を持っているだけあってこの印地打ちは伝説・伝承の世界にも登場します。とくに有名なのが妖怪の「天狗つぶて」↓は偉大なるマエストロ、水木しげる先生によるイラスト。

どこからともなく飛んでくる恐ろし~い石つぶては神出鬼没な天狗が投げつけたものだ! 天狗と縁の深い比叡山が歴史上何度も強訴を繰り返し、印地打ちを神意の現れとみなしていた…という連想から生まれた妖怪なのでしょうか。(もともと妖怪とはいわゆるモンスターめいた存在だけでなく怪異現象そのものも含みます)

そして水木しげる先生の先駆者とも言える江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕先生にも印地打ちを描いたものがあります。

そして印地打ちとも縁がある神社が表紙画像にもなっている京都府京都市左京区北白川にある北白川天神宮銀閣寺があるエリアですね、銀閣寺から数百メートルほど離れた場所にあります。「天神」ですが菅原道真を祀った神社ではなく後述するようにスクナビコナノミコト主祭神としている神社です。

↑これは拝殿。

春日大神、日吉大神、八幡大神の三神を祀った三社殿。

これが本殿。

↑こちらは加茂社。

さて、この北白川エリアと言えば、源平合戦時の英雄として名高い源義経ともちょっと関わりがあります。この義経に関しては幼少時から兄頼朝の元に馳せ参じるまでの期間中にさまざまな伝説がついてまわっていますが、その中にこの白川(白河)で活動する印地打ちが登場します。義経を巡る伝説と言えば鞍馬寺で天狗の元で修行したエピソードがとくに知られていますが、ほかにも「鬼一法眼(きいちほうげん)」なる人物が登場するエピソードも有名です。

この鬼一法眼なる人物も謎に包まれた面白い人物で(↓はwikiページ)、義経の兵法・剣術の師匠である一方で彼に兵法の「虎の巻」を盗まれてしまう役割も担っています(しかも義経は彼の娘を口説いて彼女に父親を裏切らせる形で)。これによって義経は天才的な用兵術を手に入れて、それを用いて平家を滅亡へと追い込む…という流れですね。もっとも若い娘をたぶらかせて目的を達成するあたり虎の巻を手に入れる前の段階から兵法家としての天賦の才をうかがわせますが😅

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京都の鞍馬寺にはこの義経との縁(悪縁?)にちなんで鬼一法眼を祀った小祠などもあります。

で、そんな鬼一法眼には娘婿として「北白川の印地打ちの大将」と呼ばれた湛海(たんかい)なる人物がいます。

大英博物館には歌川広重作の「五条の社に牛若丸白河の湛海を討取」なるタイトルの浮世絵も所蔵されています。↓はそのURL

www.britishmuseum.org

この「五条の社」とはおそらく京都市下京区にある五條天神社(「天使突抜」というすごい地名があるところ/笑)でしょう。そしてこの神社と北白川天神社はどちらも「天神」つまり少彦名命(スキナビコナノミコト)を祀っていますから、この浮世絵の題材となったエピソードもこのつながりで五條天神社が舞台になったのでしょうか。

どうやら古代~中世にかけて印地打ちを得意とする集団(セミプロ?)が存在しており、北白川はそんな印地打ち集団の重要な拠点となっていたらしい。

北白川と言えば能楽隅田川」にもちょっと出てきます。母と息子が生き別れになってしまう悲劇の物語ですが、その母子はもともと北白川の地で息子が人身売買の商人にさらわれてしまうことで生き別れになってしまいます。そして舞台は遠く東国、現在の東京へと移っていく。

印地打ちの集団&その大将といい、人身売買の商人といい、かつての北白川の地は当時の身分社会や社会秩序からはみ出した者たちが多く存在していたようです。少なくともそう見なされていた。

なぜか?

この北白川の地はかつて(現在の)京都と滋賀県を結んでいた「志賀の山越(または山中越)」という街道の重要な拠点でした。この街道に関しては以前滋賀(大津)側の拠点であった地にある石仏「志賀の大仏(おぼとけ)」を紹介した時にちょっと取り上げたことがあります。

がそのページ。もしよかったらご一読ください。

aizenmaiden.hatenablog.com

多くの人が行き交う場所はいろいろな人が集まる場所でもある、そうなればならず者をはじめとした社会の周辺にいる人たちにとっての活動の拠点にもなりやすい。とくに「隅田川」の人身売買の商人の設定などはこうした北白川の環境をベースにして作り出されたものなのでしょう。

もちろん、現在の北白川の地にはそんな雰囲気はなく、また北白川天神宮も観光スポットとして有名な寺院のほど近くにあるにもかかわらず参拝者も少なく、とてもいい雰囲気を持ったスポットです。↓のように

数百メートルほど離れれば観光客がごった返しているとは思えない雰囲気、天狗が現れてもおかしくない? すぐの画像は後述する白川石に関連した碑なのでしょう。

して北白川の地と印地打ちとの関係でもうひとつ重要な意味を持ちそうなのがかつてこの地で産出していた「白川石/」の存在。の画像は神社の入口に位置している「萬世橋」。

一応白川石のWikiベージも

ja.wikipedia.org

京都を代表する石の産地であり、京都各地の寺社にも利用されているとか。銀閣寺の庭園の銀沙灘(ぎんしゃだん)と向月台、さらに禅宗の寺院として海外でもよく知られた京都市右京区にある龍安寺の有名な庭園でもこの白川砂が使用されているそうです。

地域の特産品ということもあって北白川のエリアではかつて石工として活動していた人たちも多数いたとか。専業だけでなく、兼業として石工を営んでいた住民も多かったらしく、生まれも育ちも地元の人たちと、他の地域から白川石/砂を目的に訪れた人たちとが混在して活動していた様子も想像できそうです。

もしかしたらそんな彼らがある時は農業、ある時は行商、またある時は石工、かと思えば有事にはたちまち石を手にして印地打ちに早変わり!みたいな多彩な活動をしていたのかもしれません。そうなると多彩な出自の人たちが「石工」という職業と、印地打ちという陰謀めいた活動とで結びついていた状況、ということになる。

これはもはや日本版「フリーメイソン」と言えるのではないか?(メイソンは石工の意味)

え?フリーメイソン陰謀論はもう古い?🤣

ほかにも北白川天神宮の主祭神である「天神(スクナビコナノミコト)」がその名前の通り天候と関わる面を持っているのでどちらも神意と見なされていた大雨や落雷などの自然現象と印地打ち(天狗つぶて)が結びつけられた可能性などもこの白川の地が印地打ちと結びつけられた理由として指摘しておきたい。あとこの地の北東にある印地打ちを得意とした比叡山との関係もちょっと気になりますねぇ。

いずれにせよ、こうしたことが複雑に混ざりあった結果として歴史と伝説両方の面で「北白川=印地打ち」の連想が生まれたのではないでしょうか。

さらに北白川と言えばもうひとつ、「白川女(しらかわめ)」と呼ばれる女性の花の行商人の存在も忘れてはならないのでしょう。伝説上のルーツは平安時代にまで遡ると言われ、とくに活発な活動が展開されたのは江戸~明治の頃だそうです。

白川女の最盛期には「この地域では男性は石工、女性は花売りに従事する」と言われたほどだったとか。北白川天神宮の境内にはそんな白川女の活動を称える碑も建てられています。

おそらくこのかつての白川女たちはファイナルファンタジー7のヒロイン、エアリス・ゲンズブールの遠いご先祖のひとつではないでしょうか🙄

なお、北白川から志賀山越を超えた滋賀県の大津の地にはかつて「大津絵」という名物がありました。これも以前投稿したことがあります

aizenmaiden.hatenablog.com

こちらも白川女と同じく江戸時代~明治初期くらいにかけて人気を博したもので、土産物として広く普及したらしい…が、なにぶん消耗品として扱われていたので現存するものはごく少数。今や日本を代表する美術品として扱われている浮世絵との間に大きな差がついてしまっている状況ですが…

そんな大津絵には「花車の娘」という題材の絵もあります↓以下の大津絵に関する画像は以前の投稿で撮影した大津市にある圓満寺境内の「浮世絵美術館」でのものです。

そして大津絵を代表する題材に「藤娘」もあります。

この二つを見た方の多くは「ほとんど同じやないけ!」とすかさずツッコミを入れる😆と思うのですが、なぜか?

おそらく以下のような状況だったのではないでしょうか。

1.京都から北白川~志賀山腰を経由して大津を訪れた人たちが現地の人たちに白川女の話をする

2.現地の大津絵を描く人・売る人たちの間で「そうか、都では白川女が人気なのか、なら大津絵のネタにすれば売れる!」と欲の皮をつっぱらせる

3.でも彼らは白川女を実際に見たことがない、なのですでに人気の題材だった「藤娘」を流用して手っ取り早く「花売り娘」として売り出した

しかし花車の娘は現存するものが非常に少ないそうです。つまりあまり売れなかったのでしょう。なぜか? それはおそらく、実際に白川女を知る人たちから「おい、何が花売りの娘だ、ぜんぜん違うじゃねーか!」と猛ヒンシュクを買ったからではないか?

と、大いに邪推したい。

さて、真相はいかに?

印地打ちについてもうひとつ、今は滅多に見られないと思いますが、一昔前(20年くらい?)にはファンの期待を裏切ったスポーツ選手に対して生卵を投げつける、なんて乱暴な行為がありました。

これなどは印地打ちの遠い末裔なのかも知れませんね?

 

最後に宣伝になってしまいますが(けっこう切実なのでご容赦ください)、以前に印地打ちをテーマにした短編を電子書籍で発表したことがあります。↓の短編集に収録しています。

www.amazon.co.jp

印地打ちをテーマにした投稿をした機会にこの書籍を無料販売したいと思います。

明日107日午後5時~109日午後459分まで48時間、丸2日間。

もしよかったらご一読いただければ幸いです。さらにもしよかったら、レビューなり、ご友人・知人に紹介していただけたら望外の喜びであります。