前回の投稿でも触れましたが、先日滋賀・京都に行ってきました。滋賀県の西側、湖西エリアや大津エリアにはステキないくつか石仏がありまして、それを見て回るのも今回の旅行の大きな楽しみでした。
そんなステキな石仏のひとつが大津市にある「志賀の大仏」。↓
「大仏」と書いて「おぼとけ」と読むそうです。「しがのおぼとけ」。おぼとけ!...じゃなくておぼえとけ!😴
以前から見てみたいと思っていた仏さまでした。
天智天皇の大津京跡からもそれほど離れていない(徒歩40~50分くらいだったでしょうか)場所にあります。
この仏像がある場所はもともと大津と京の都を結ぶ「志賀越え」または「山中越え」と呼ばれる街道の入口でもありました。比叡山や逢坂山ともつながりの深い志賀山を越えるルート。かつては多くの人がこのルートを使って大津~京都間を移動していました。
その歴史はかなり古く、万葉集にもこのルートを題材にした歌が収録されています。
例えば情熱的(過ぎる気もする😅)な歌をいくつか残した但馬皇女(天武天皇の娘)が異母兄で恋人でもあった穂積皇子に対して送った歌、
「後れ居て 恋ひつつあらずは 追い及かむ(しかむ) 道の隅廻(くまみ)に 標結(しめゆ)へ我が背」
があります。これは近江にある「志賀の山寺」に派遣された(当時の都は京都じゃなくて飛鳥)穂積皇子に対して「後に残されて恋い焦がれて苦しむくらいなら彼を追いかけよう!わたしがわかるように道にしるしをつけておいてね、ア・ナ・タ❤❤」みたいな感じで呼びかけた内容。
情熱的ですねぇ。なんでもそもそも穂積皇子が近江に飛ばされた理由がそもそもこの二人の恋愛関係が問題になったから...なんて説もあるそうです。
今でもこのルートで京都に行くことが出来ると思いますが、現在ではほとんど使われていないようです。市街地から離れてここへと向かう山道に足を踏み入れてから誰とも会いませんでした。
↓は現地にあった大仏の説明板
仏さまの姿だけでも高さ3.1メートル(約1丈)と堂々たるスケール。それに対してそのお姿はなんとも言えない素朴で味わいのあるステキさ。有名寺院に安置されている「芸術的な」仏像とはまた趣の異なる仏像の素晴らしさを備えた像だと思います。
お顔立ちもじつによい感じ↓
そのお姿は定印を結んだ典型的な阿弥陀如来ですが、もともとは弥勒菩薩として信仰されてきた面もあるそうです。↓はお堂にあった御詠歌。
↓の画像、山道をしばらく進んだところで視界の先に見えてくるロケーションも素晴らしくて。見えてくるなり「ああ、いらっしゃる。やっと会えた!」と感慨を覚えたものでした。
説明板にもありますが、作られたのは鎌倉時代の13世紀。以来700年以上にわたってこの地で京の都へと向かおうとしてる旅人たちを見守り続けてきたことになります。昔の人たちは街道へと足を踏み入れる前にこの仏さまに手を合わせて旅の無事を祈り、また京の都からはるばるたどり着いた人たちはここで一休みしつつ無事にたどり着けたことをこの仏に感謝していたのでしょう。
この石仏にはそんな名もなき人たちによる歴史が蓄積されている。そして今回訪れたわたくしはそんな歴史の一部に加わることができた(引き返しましたけど/笑)
これも寺院に安置されている仏像にはない、路傍の石仏ならではの魅力・醍醐味だと思います。
しかもこの仏さま、お堂は屋根つきなのに仏さまそのものは露座。なのでわれわれは屋根の下で拝むことが出来るというじつにありがた~い形になっておるのです。
そして、この街道の入口に立つ仏像は2つの世界(大津と京都)を結ぶ境界において災いが入り込んでくるのを防ぐ「道祖神」としての面もおそらく持ち合わせていたのではないでしょうか。
道祖神の多様性と路傍の石仏が担っていたであろうさまざまな役割をうかがううえでもこの石仏の価値はとても高いと思います。
もともと仏教ではみ仏の素晴らしさをビジュアルで表現するためにお堂や仏像を美しく飾り立てる必要がありました。いわゆる「荘厳(しょうごん)」というやつですね。海外の、とくに東南アジアの仏像は金色でキラキラしていますし、奈良東大寺の大仏などもそのために東北地方から金を求めたりしたわけですが…
日本の仏教では、とくに鎌倉新仏教の登場によって本当の意味で仏教が「日本人の宗教」になって以降はそうした「キラキラ飾り立てた仏像」よりもこの石仏のようなもっと身近で親しみやすい仏像の方が求められ、愛されたように思えます。
今年2024年は法然による浄土宗の開宗850年の記念イヤーですが、この浄土宗の登場によって身分を問わず誰でも念仏を唱えさえすれば極楽浄土へ行くことができるようになり、仏像が信仰においてあまり必須なものではなくなりました。
でもやっぱり庶民の感覚としてはみ仏の存在を実感できるような拠りどころとなるものがほしかった。そんな人々の要望に応えたのが素朴なつくりの仏像だったのでしょう。
例えば現代では芸術品としての価値も高い江戸時代の円空や木喰行道らが作った独特な素朴さを持ち合わせた仏像などもそんな要望に応えられる魅力を備えていたからこそ、多くの人たちから求められ、それに応えて多数作られたのだと思います。
よく美術的な観点から「日本の仏像制作は鎌倉時代がピークで以降衰退していく」と言われますが、それはあくまで芸術的な視点からの話。
むしろこうした路傍の石仏や小さなお堂に祀られている仏像は中世以降の日本仏教の(民間宗教としての)成熟ぶりを示すとともに、日本仏教の真髄を伝えるものであると言いたい。
法然&親鸞の登場によって「日本の仏教は本来のインド由来の仏教から離れて完全に独自の世界を展開するようになった」とも言われますが、そんな日本仏教の特色がこれらの名もなき人たちによって作られ、名もなき人たちから信仰を集めた仏たちに宿っているのではないでしょうか。
そんな庶民の信仰の拠りどころであった素朴な仏像が今でも全国各地に残されている。それは国・自治体からの補助金などを受けながら維持されている大寺院の「芸術的な」仏像にも負けないくらいすばらしいことだと思うのです。
説明板にもあるようにどうやらこの志賀の大仏は現在でも地元の人たちによって大事にされているようです。ぜひとも、これからもずっと訪れる者たちを見守ってほしいものです。
↓は説明板にも少し書かれている志賀越えの京都側にある北白川の石仏、通称「北白川の子安観音」です。銀閣寺から少し歩いた交差点に立っており、交通量が多い場所においてまだまだ現役バリバリって感じのたたずまいを見せています。こちらも鎌倉時代の作と考えられています。
この石仏、かの豊臣秀吉が気に入って聚楽第に持ち込んだものの、毎夜毎晩「北白川に戻せ」と訴えかけたために戻された...という「いわく」つき。
行き交う車のドライバーは「おい、ぜったいにぶつけんなよ、安全運転を忘れるな」という石仏からの強烈なプレッシャーを感じているんじゃないでしょうか(笑)
最後に、日本の仏像ではあまり飾り立てずに作られた「素朴な」ものが求められた面があると書きましたが、その背景にはもうひとつ、重要な理由があるとわたくしは考えています。
その理由とは!
...近日公開!...のよてい。
なお、志賀の大仏の近くには飛鳥時代から室町時代まで存在していたという崇福寺跡という史跡もありますが、現在そのエリアへのルートは工事か何かで通行止めになっていました。もし訪れる予定がある方はご注意ください。