久しぶりの投稿となりました。このところお絵かきに没頭しておりまして。そのうちの一枚がコレ↓
タイトルは「Rainy Shade of Love」。梅雨時の光景を前景&後景に百合の世界を表現してみました!神社の神紋も百合!
イギリスのプロコル・ハルムの1967年のヒット曲に「A Whiter Shade of Pale(邦題:青い影)」という曲がありまして、タイトルはこれをもじってつけました。
↓の動画。「どこかで聴いたことがある!」という方もいらっしゃるのでは? この曲の方は浮気がバレで顔が蒼白になる歌詞ですが、絵の方は純愛で(雨に濡れた傘の下で)顔が真っ赤になった状況、みたいな。
画像が妙に細長い構図になっているのはいずれKindle出版するときの表紙にするつもりでそのフォーマットに合わせて描いたからです(笑)
ところで今年2024年は1874年に「第一回印象派展」がフランスのパリで開催されてから150年、つまり絵画の「印象派」が誕生してから150年の記念イヤー。といっても「印象派」という名前は後につけられたものですが。
このイラストはそんな記念イヤーに合わせてちょっと意識して「フランスの印象派スタイルを日本のイラストスタイルで描く!」的な感じで描いてみたのですが。光と影のコントラスト、みたいな。まあ、10万年早いですね。
この第一回の展覧会にはクロード=モネ、ルノワール、セザンヌ、ドガなどそうそうたる面々が参加…ですが十分な成功を収めたとは言えなかったようで。先進的な芸術が理解されるためにはどうしても時間がかかるものなんでしょうねぇ。
この印象派の絵画に関してはよく「日本の浮世絵の影響を受けた」と言われますが、おそらくもっとも印象派の画家たちに影響を及ぼしたのは当時普及が進んでいた写真だったと思います。
どちらも「光と戯れる」面を持っていて、同じ場所で描く/撮影しても光のあたり具合によって印象がまったく異なる(そのため印象派の画家たちはしばしば同じ構図を何度も描いた)、といった点で共通しています。
一方、自然崇拝(日本の神道や修験道など)の聖地では光のあたり具合によって雰囲気が一変する、という状況が良く見られます。日光が差し込む日中では神々しい雰囲気を味わえる場所が薄暗い環境になるとたちまち魑魅魍魎が跋扈しているような恐ろしい雰囲気に早変わり! 真っ暗な夜にでもなろうものならそこはもはや人間の世界ではない…みたいな。
おそらく多くの方がこうした経験をしたことがおありだと思いますが、これは一神教のような善悪二元論が日本の信仰のような自然崇拝の要素を持ち合わせている信仰にそぐわない大きな理由ではないかと思います。
自然の中において、日中に神々しく、人の心に癒やしや感動をもたらしてくれる「何か」と、薄暗い中で恐怖や不安をかきたてる「何か」がじつは同じ存在ではないか。神と妖怪・魑魅魍魎の区別がしばしば曖昧になる、それどころか神そのものがしばしば恐ろしい存在と化す。そんな日本の信仰の世界はこうした自然環境との密接な環境によってもたらされたものではないかとも思うのです。
山、とりわけ火山に対する日本人の姿勢はまさにそれを象徴しているように思えます。山に対する畏敬/畏怖の念は神秘的な存在に対するものと、現実的な被害と脅威をもたらす存在に対するものとが分かちがたい形で共存しています。
そう考えると印象派の世界と日本の信仰の世界には浮世絵の影響だけに留まらない、より深い部分での共通点があるのかもしれません。
というわけで、表紙の画像と↓の画像は山形県山形市、峯の浦垂水遺跡で撮影したものです。「もうひとつの山寺」とも呼ばれて近年では写真映えするスポットとしてよく話題になっています。
ここはまさに「光と戯れる」空間であろう、と実際に訪れてしみじみと思いました。まさに「何か」が宿っていそうな、今にも降臨しそうな神秘的な雰囲気…だったのですが…
参拝者&観光客も多いこのエリアからちょっと離れて遺跡のさらに奥まで足を伸ばすと人の姿はまったくなし、ところどころ生い茂る木々で日差しが遮られて薄暗く、茂みからはよくわからない物音が聞こえ、さらにはあちこちに「野生動物に注意!」の看板も。あげくの果てには実際に去年の夏に熊が出没した情報もあり。
危険×5。5回も言わないとダメなのか(笑)クマ鈴を鳴らしながらの道中でしたが、どれだけ効果があったんでしょうかね?
そうなるともはや「何かが降臨しそうな」神秘的な雰囲気なんてあったものじゃない、今にも野生動物が現れて襲いかかってきそうな雰囲気にビクビクしながらの道中となりました。
そしてその道中で考えました「神秘的なものへの畏怖の念とはなんぞや?」と。
こうした場所を歩いていると神秘的な「何か」、神や仏と表現される存在に対する「畏怖の念」と野生動物をはじめとした実際に危害をもたらす可能性がある存在に対する恐怖心・不安感の区別がつかなくなってきます。どちらも鳥肌を立たせ、背筋に冷たいものを走らせる、という点では同じ。
そもそも神秘的なものへの畏敬の念とは、こうした面がごちゃごちゃに入り乱れたものではなかったか? 神秘的な雰囲気に圧倒され感動する気持ちと、「下手なことをするとバチがあたるかもしれない」という神秘的なものへの恐怖心・不安心、さらに自然がもたらす現実的な脅威への恐怖心・不安心が区別がつかない状態で入り乱れた状態こそ、伝統的な日本人にとっての「畏怖の念」ではなかったか?
日本の信仰にはアニミズムの要素があり、動物を神仏の化身、さらには神そのものとしてみなす傾向もあると言いますが、こうした面も自然環境が人間にもたらす複雑な感覚を土台にしているように思えます。
神秘的な雰囲気や神仏への畏敬の念を味わいつつ、現実的な危険への恐怖も持ちながら山林を歩いているときに野生の熊と遭遇したらどんな心境になるか?単に「あ、まずい、熊に殺される!」とはならず、何か人間では理解できない意志や力が熊という形をとって自分に危機や試練をもたらしたのか?といった考えがよぎるのではないか?
遭遇したときにはそこまで考える余裕はないかもしれませんが、うまく危機を脱することができた後にこうした考えがよぎってもおかしくないと思います。幸い今回わたしはそんな経験をせずに済みましたが(笑)
一神教のような「偉大な唯一神」が設定されている宗教では神の偉大さを前にして畏怖の念を抱く、その神の威風に打ち震える、といった考え方/感じ方がありますが、この一神教の「畏怖の念」と日本をはじめとした自然信仰を土台とした多神教の「畏怖の念」との間には大きなギャップが存在していると思います。そしてこのギャップは両者の信仰を通した相互理解における大きな障害にもなるんじゃないでしょうか。
難しいですねぇ。
なお、表紙の有名な場所に立つ2基の鳥居は奥の朱色の小さい方が稲荷神社、手前の方が古峯神社(こぶはらじんじゃ)を祀ったものです(後者は社殿がありませんが)。↓は現地の説明板
古峯神社と言えば栃木県に有名な「古峯神社(読みは”ふるみね”ですが)」があり、天狗信仰でよく知られています。そして山形県内の神社では境内に末社としてこの古峯神社をしばしば見かけます。
↑表紙画像のすぐ近くにも「古峰神社」の碑が!
おそらくこれらは現在では忘れられつつある神仏習合の時代における山岳信仰/修験道の神様を祀るものだったのでしょう。
そんなことを考えながら峯の浦垂水遺跡を歩るけば今にも頭上から天狗が襲いかかってくる気配を味わうこともできるでしょう(野生の熊の気配もお見逃しなく!)
↑峯の浦垂水遺跡の入口に位置する千手院。最上三十三観音霊場のひとつ。同地になじみのある方にしかわからないネタですが、堂内で金色のお札見つけましたよ。
↑千手院の鳥居。「仏教寺院なのに鳥居?」と言いたくなりますが、東北地方では珍しくないのですぐに慣れます(笑)、この鳥居にはちょっとしたローカル信仰もあり(興味のある方は検索!)
↑参道が線路でぶったぎられています。神奈川の江の島とか、滋賀県の大津エリアでもよく見られる光景ですね。
↑毘沙門岩。こんな感じでいろいろな形をした岩があちこちにあります。
↑このあたりになるともう何が出てきてもおかしくない雰囲気
↑ゴールは山寺霊園。お地蔵さまがズラリと並ぶ光景はこれはこれで背筋を寒くさせてくれます。