“晴れやらぬ 身のうき雲の たなびきて
月の障りと なるぞ悲しき”
~和泉式部(978?-不明)
このところ出だしに歌を紹介することが多くなっているので今回も踏襲してみました。なかなかに見栄えがするかなぁ、と(笑)あと最近「~を覗き見る/垣間見る」ってタイトルが多いですね。ちょっとマンネリ化?😅
紫式部や清少納言と同時代に生きたおなじみの女流歌人、和泉式部。紫式部と清少納言は前者が今年(2024年)の大河ドラマのの主人公になったように現実的な視点から語られる傾向が強い(紫式部に関しては有名な地獄堕ちの伝承もありますが)のに対して和泉式部は各地に彼女を巡る伝説が伝わっているなど何かと神秘のヴェールに包まれた印象があります。
この歌も「風雅和歌集」に収録されている一方、詠まれた経緯に関しては多分に伝説じみた面がともなっています。
歌意は↓のような感じでしょうか。「うき雲」の「うき」は「浮き雲」と「憂き」の掛詞ですね。
「憂鬱で心が晴れない身のわたしに急に月の障り(月経)が来てしまい神仏との出会いの妨げになってしまいました。とても悲しい」
この歌は彼女が熊野へ参詣しに訪れた際にもう少しで熊野に到着というところで月経になってしまい参詣できなくなったことを嘆いた歌、とされています。
和歌では「雲」が神仏と交流する上での障害物の意味として使われることがあるのをこれまで何度か紹介したことがありますが、これも同様の使い方、ということになるのでしょう。熊野へと続く道にうっとおしい浮雲が垂れ込めてきて進路を妨害されてしまった、みたいな感じでしょうかね。
せっかくはるばる熊野まで来たというのにいざ参拝の直前になって月経に妨げられてできなくなってしまった、そんな彼女の無念のほどはいかばかりか、となるわけですが…
…ところが彼女のこの歌に対して当の熊野の神さま(熊野権現)が返歌を寄こしてきます。それが↓の歌。
“もとよりも 塵にまじわる 神なれば
月の障りも 何か苦しき”
「わたしはもともと世のさまざまな塵と交わっている神である。いまさら月の障りなどどうということはない。苦しゅうない、われのもとへ来たれ」
といった意味でしょうか。
神と和歌のやりとりをしている!
和歌が神仏と交流する手段となっていたかつての日本人の世界観を垣間見ることができる歌&伝承ですが、さらに以下のようなことがうかがえますね。
1.女性は月経になると神仏に参拝することができなかった
2.熊野はそんな女性も拒まない霊場として知られていた
女性の月経は「赤不浄」とも呼ばれ、ケガレとみなされていました。それが女性の不浄観と結びついて当時の女性観に大きな影響を及ぼしていたわけですが、こうしたケガレを背負っているがために女性は死後仏になれないだけでなく、神仏への参拝(つまり神仏との接触・交流)すら許されない面も持ち合わせていたことになります。
これは多くの山岳信仰の舞台となった霊山が女人禁制となっていた大きな理由でもあるのでしょう。しかし熊野はそんな状況下において例外的な場所だった、という状況がこの和泉式部と熊野権現の間の歌のやり取りからうかがうことができそうです。
そしてこうした女性も受け入れる熊野の環境が全国を行脚して女人救済をはじめとした熊野の信仰世界を「熊野観心十界曼荼羅」の絵解きを通して布教してまわった熊野信仰の歌比丘尼を登場させる土台となっているのでしょう。
↓はそんな霊場熊野の地、和歌山の県立博物館のページ。ごく簡単にですが熊野比丘尼について触れられています。
で、↓の画像が今回の投稿のメインとなる京都府京都市中央区にある誓願寺。
↑本尊の阿弥陀如来
↑和泉式部にちなんで「恋みくじ」なんておみくじも。
↑は現地の説明板。
国内最大の観光名所にしてこのまま行けばオーバーツーリズムの失敗例(?)となるであろう京都市の市街地のまさにど真ん中って感じの場所に位置する浄土宗の寺院です。もともとは京都御苑の西側、「元誓願寺通り」という地名が残っている場所にありましたが、豊臣秀吉の京都大改造の際(天正19年:1591)に現在の場所に移転してきました。
このお寺、公式サイトの内容がけっこう充実してまして、古くから女人救済・女人往生の寺として信仰を集めてきましたことが紹介されています。
↓はそんな経緯を伝える誓願寺の公式サイトのページ。
ただしこのページでは有名人の往生譚だけになっていますが、実際にはさまざまな階層に属する女性たちから女人救済の地として深い信仰を集めていたそうです。
で、この誓願寺に関しては江戸時代に書かれた「宿直草(とのいぐさ)」という怪談集にちょっと面白い話が収録されています。概略をご紹介↓
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むかしむかし、とある山伏が京の誓願寺に毎夜参籠に訪れていた。そんな日々をしばらく続けていると彼は毎日午後4時ころになると50代くらいの女性が必ず現れて参拝するのに気付いた。その様子を見ながら、
「じつに堅固な意志と信心を備えた女性だ。彼女なら六十万人決定往生(一遍上人が六十万人の極楽往生を目指して書いたお札のこと)に加わること間違いなしであろう」
などと殊勝に思う。
しかしそんなある夜、いつものように誓願寺の御堂で祈りを捧げていると恐ろしい姿をした鬼が4、5頭、1人の女性を引きずりながら境内に姿を現した。
「何が起こったんだ?」
と困惑する山伏に気づいた様子もなく鬼たちはその場でその女性を火にあぶって恐ろしい拷問をくわえはじめる。鬼たちが繰り返し女性の体をひっくり返しては念入りに火にあぶる様子を見て山伏は震え上がりつつ、
「見るに耐えられん。こんな恐ろしい目に遭う女性はいったいどんな罪を犯したのか?」と恐る恐る拷問の現場に近づいてみたが、そこに見たのはほかならぬ彼が称賛した女性であった。
「毎日参拝に来て感心していたが、あの女性は裏で何か罪を犯していたのだろうか?」
と彼が疑問を覚えながら様子を眺めているとやがて夜が明け、その地獄絵図は跡形もなく変え失せたのだった。
あれは夢だったのか? などとも思った山伏だったが、翌日その女性が参拝に訪れた時によくよく観察してみることにする。
すると女性は祈りを捧げつつ、賽銭を盗み取っている現場を目撃した!
「そうか、これが女が犯した罪か」
と納得した山伏は女性が火あぶりに遭う地獄絵図を見ることになったのは彼女を教化せよ、との仏の導きに違いあるまいと確信する。
そして翌日に女性が姿を現すと声をかけて夜中に見た地獄絵図のこと、彼女が賽銭を盗み取っている場面を目撃したことを説明し、どのような事情でこのような罪を犯しているのか説明を求めた。すると女性は涙ながらに自らの窮状を語りはじめたのだった。
「そうですか、そのようなものを見たのですか。わたしはこの近くに長い間住んでいますが、夫もなく子もなく一人だけで厳しい生活を余儀なくされております。あまりの苦しさについつい賽銭を盗むようになってしまい、それでこれまで生きながらえてきました」
さらに、
「このような罪を犯してしまったわたしはどうすればよいのでしょう? 今夜あなたさまが見た地獄絵図をわたしも見たいと思います」
というので山伏も合意して夜に御堂にこもることになった。
そしてその夜、まさに前回山伏が見た地獄絵図が展開し、女性は恐ろしい鬼たちに責められている女性が自分自身にほかならないことを知る。
夜が明け、地獄絵図が跡形もなく消え去るや山伏は誓願寺を立ち去り、女性は出家して尼となり、自らの体験談を他者への教訓として寺に参詣する人たちに語って聞かせるようになったのだった…
めでたしめでたし
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ちなみにこの話は↓の本に収録されているものです。
「江戸怪談集・上」 高田 衛・校注 岩波文庫
現代語訳ではないのでちょっと読みづらい面もありますが、江戸時代の文章ですし、馴染のない単語・表現には注釈がついているので現代人のわれわれでも十分読めます。
しかもこの話は挿絵つき↓ 山伏が恐ろし~い火あぶりを目撃する場面
淡々と描かれている分シュールな感じ? 残念ながら現在絶版、古本で探すべし!
女性が恐ろしい鬼たちに火あぶりの形に処される! 誓願寺に訪れたことがある方なら「あのお寺でそんな恐ろしい光景が現れていたなんて!」とちょっとおもしろく感じるのではないでしょうか。
話の中に「六十万人決定往生」という言葉が出てきましたが、後にまた出てきますのでちょっと覚えておいてください。六十万人という具体的な数字が使われていますが、実際には「たくさんの人=すべての人」みたいな意味を持っています。一切衆生の極楽往生を願って書かれたお札といったところでしょうか。
この怪談は内容が面白いのももちろん、いろいろな面を垣間見ることもできます。まず夫も子どもいない女性がいかに厳しい状況に晒されていたか。女性が生まれつき成仏できない「不浄の身」として捉えられていただけでなく、さまざまな事情で罪を犯しやすい身とみなされていたらしい、
さらにそれゆえに地獄に落ちやすいと見られていたとか。さらにそんな女性でも救済の余地がある、とみなされていたらしいことも。
加えて面白い点としてこのお寺は浄土宗であるにもかかわらず時衆(時宗)の一遍上人による救済を前提にした話になっているうえに、話の主人公となる僧侶は女人禁制の世界であるはずの山伏に設定されていることが挙げられます。
江戸時代における宗教観、女性観、身分意識をめぐる複雑な状況がうかがえるようです。
なぜ浄土宗の寺院なのに一遍上人が出てくるのか?いろいろと理由があると思いますが、ここでは以下の3つを取り上げてみたいと思います。
1.このお寺が先述したように熊野系の歌比丘尼の拠点であったこと。それも時衆系の熊野比丘尼が多く集まっていたらしい
2.鎌倉新仏教の創始者のなかで一遍上人だけが性別や身分の隔たりなく極楽往生が可能と説いてまわっていたこと
3.中世になると修験者と巫女がコンビ(多くは夫婦)を組んで憑祈祷(よりぎとう)の儀式を広く行っていた。しかもここでも熊野信仰が深く関わっていたらしいこと。
1に関してはかつて柳田國男が京都の誓願寺が熊野系の歌比丘尼の活動の中心地であり、同時に歌比丘尼を養成する機関のような役割を担っていたのてはないか、との説を立てていました。
時衆系の熊野比丘尼たちがこの誓願寺で活躍していた歴史・環境がこの怪談に見られる一遍上人とのつながりや、女人の更生・救済を伴う筋書きの土台となったのかもしれません。
2に関しては一遍上人の足跡を記した「一遍上人聖絵」に非常に多くの女性や非人と見られる被差別民たちが描かれていることが知られていますが、彼が人々に極楽往生を解いてまわるきっかけになった出来事からも見ることができます。
それによると彼が熊野の地を訪れ、熊野本宮大社を訪れた際に熊野権現が出現、「すべての人々の往生はすでに阿弥陀如来によって決定している。なのであなたは浄不浄を問わず、信不信を問わず念仏札を配って歩かなければならない」とのお告げをもたらしました。
そして彼はこの出来事をきっかけに「一遍」と名乗るようになり(ちなみに彼は河野水軍で知られる豪族の河野氏出身)諸国を廻国しながらの教化活動に入ったとされています。
このエピソードから時衆と熊野信仰が結びつくわけですね。時衆系の熊野比丘尼が活躍する土台になっているのだと思います。
ではそれに対して浄土宗の宗祖、法然の女性観はどうだったのか? 彼もまた女人でも念仏さえ唱えれば女人でも極楽往生が可能である、としていましたが、あくまで女人はケガレを背負い仏になるのが難しい「五障」を背負った身であることを前提にしていたようです。
つまり彼の言う「女性でも極楽往生できる」というのは男女平等思想によるものではなく、「本来なら成仏が難しい女性でも極楽に行けるんですよ」と念仏のありがたさを訴えるものとして面が強いように思えます。
法然は仏教の大衆化、ほんとうの意味で仏教が「日本人の宗教」となる道を切り開いた人物(今年は浄土宗開宗850年)ですが、女人救済の観点から見るとちょっと踏み込みが中途半端だった観は否めないようです。それに対して一遍は徹底していたとも言えるのでしょう。
3についてはこの怪談に登場する山伏と、賽銭を盗み取っていた女性(山伏との出会いをきっかけに改心して尼になる)とが「修験者と巫女」の関係と彼らが行っていた憑祈祷を元にしていると見ることもできそうです。
「憑祈祷」とは修験者が巫女に神仏や霊を憑依させたうえで神託・託宣を得る祈祷方式です。験力を振るうのは男だけれども、それによってもたらされる神秘的な現象は女性の身に起こる、という構図ですね。
ですからこの怪談そのものが山伏の祈祷によって女性の身に死後降りかかる恐ろしい地獄のビジョンが現出された、という見方もできるのかもしれません。
そしてこの怪談に関してはもうひとつ、能楽の「誓願寺」とも深い関わりが垣間見られて面白いです。ありがたいことに誓願寺の公式サイトでもこの作品が取り上げられています。↓のページ。
一遍上人がさきほども名前が出た「六十万人決定往生(このページでは「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と紹介されています)」を誓願寺で配っていると女性が現れて極楽往生に関する問答を交わす。その女性はじつは和泉式部の霊であり、彼女の要望に応えて一遍上人が誓願寺の扁額を「南無阿弥陀仏」に書き換えると和泉式部が今度は菩薩の姿となって現れ、美しい舞を披露し、誓願寺こそ極楽往生の地であることを告げるのだった…
ここで和泉式部と江戸時代の怪談とを結びつけることができそうです。加えて和泉式部と一遍上人の結びつきも明らかになります。
この能楽作品の一遍上人を怪談の山伏、和泉式部を賽銭を盗み取っていた女性になぞらえることもできるでしょう(和泉式部は恋多き生涯を送ったゆえに「罪深い女性」とみなされていた面もありました)。
そんな和泉式部でも成仏できるのだから賽銭を盗み取っていたこの罪深い女性はもちろん、あらゆる女性も成仏できる、といったコンセプトがこの能楽作品、さらに誓願寺の信仰には含まれているのかもしれません。
さらに一遍上人を修験者、和泉式部を巫女と見ることもできます。前半に登場して一遍上人と問答を交わす女性は和泉式部ではなく、彼女の霊が巫女に憑依した状態と見ることもできそうにも思えるのです。
上記の江戸時代の怪談はこれらの誓願寺を巡る歴史・伝統・状況を土台にして作られた、と考えても強引な解釈との誹りを受けないと思うのですがいかがでしょうか。
そして誓願寺のすぐお隣に誠心院というお寺があります。こちらは和泉式部が初代住職であったとの伝承を持っている真言宗の寺院です。↓がその画像
↑はお寺の説明板。なお、能楽作品には「誓願寺」のほかにも和泉式部を主人公とした「東北(とうぼく)」という作品もあります。この説明を見る限りこのお寺はこちらの作品と縁がありそうな感じですね。
そしてこの寺も誓願寺と同様、秀吉の区画整理によって現在の地に移転してきました。もともと現在の京都御所を挟んで正反対の場所に位置していた和泉式部ゆかりの寺院が秀吉によって同じ場所に移転することになる。数奇なめぐり合わせといったところでしょうか。
そして↑は境内にある和泉式部の供養塔(宝篋印塔)。これが上記の能楽作品「誓願寺」に出てくる和泉式部のお墓、とのことです。まあ厳密に言ってしまえばこの作品は世阿弥作とされているのでこの地に移転してくる前の話、ということになりますが😅。
さらに誠心院の本尊は浄土宗と同じく阿弥陀如来。宗派は違えど一切衆生を救済するという目的は誓願寺と共有していたのかも知れません。
こうして見ても江戸時代のこの界隈は和泉式部と女人救済の信仰が濃厚であったことがうかがえます。
前回の投稿で少し触れましたが、熊野比丘尼たちによる教化活動の土台となった「熊野観心十界曼荼羅」は決して男女平等を土台とした世界観ではなく、血の穢れを負った女性たちは死後に地獄(血の海地獄など)に落ちることは避けられない身にあることを前提としています。そんな地獄に堕ちた女性たちを救うのが熊野の地である、といったコンセプト。かなりマッチポンプっぽいですね。
前回も取り上げた熊野観心十界曼荼羅と女人救済について触れている兵庫県立歴史博物館のページ↓
前回の投稿ではそんな地獄に堕ちた女性たちを救う仏さまとして如意輪観音が女性たちの間で広く信仰を集めたことを書きましたが、その信仰が広がっていく過程ではこうした熊野信仰を取り込んだ時衆系の宗教者たちの活動も重要な役割を担っていたみたいですね。
さて、冒頭で触れたように同時代の紫式部、清少納言が現実的・歴史的な視点で才女として扱われる傾向があるのに対して和泉式部は現実を超えた伝承の世界の住民としてのイメージのほうが強いようです。
全国各地に彼女の足跡が残されているのは歌比丘尼たちの活動によるものなのはおそらく間違いないのでしょう。ですから和泉式部伝説が伝えられている地はかつて熊野系の歌比丘尼たちが活動していた地である可能性が高いということになります。
かつてこれらの地で女人救済について語られ、多くの女性がそこに救いを見出していた様子を思い浮かべる…これも伝承がもたらす歴史のロマンでしょうか。
せっかくなのでそのひとつ、長野県諏訪地方、来迎寺に伝わる「銕焼地蔵尊(かなやきじぞうそん)」と和泉式部をめぐる伝説をご紹介。
なんと和泉式部は諏訪出身で養女となって京に移り住むことになったのだ!
衝撃の真相!😄
境内の像。伝説のクライマックス、「まあ!顔の火傷痕が消えたわ!」のシーンでしょうか。
ここも誓願寺と同様、浄土宗の寺院です。
先述したように前近代の世界では女性は非常に不安定な立場で生きていました(残念ながら現在でもそうした面は残っているのでしょう)。
しかし女性たちがそんな状況に置かれていたからこそ、社会が不安定になっていく一方で仏教が一般人の間に広く深く浸透していく中世の時代にさまざまな形て女人救済の手段が模索されるようになっていったのだと思います。
なので「前近代は男尊女卑で女性は抑圧されていた」という一般的な見解は全面的に受け入れるのはちょっと注意が必要な気もします。
時代的な制約を受けつつも当時の人たちは自分たちなりに女性を救済する手段を考えていた面もあったはず。現代人から見ればいかにも不十分すぎるにしても。
それから和泉式部と歌比丘尼たちとの関係では他にも鹿との関係もなかなかに面白いので(なぜ足袋はあのような形をしているのか?の起源譚とか)いずれ取り上げることができたらな、と思っています。
誓願寺に関してもう少し。お寺の公式サイトにも書かれていますが、じつはかの清少納言もこの誓願寺で尼になり、近くに庵を構えて余生を送った、との伝承もあります。
清少納言が晩年に過ごした地については以前とりあげたことがあります。彼女の主人であった藤原定子が眠る鳥戸野陵にもほど近い「月輪」の地(現在泉涌寺があるあたり)であろう、と。
この誓願寺周辺にも彼女の終焉の地としての伝承が伝わっている形になるわけですが、泉涌寺の近くには熊野信仰と深い関わりがある今熊野観音寺というお寺もありますから、どちらもやはり熊野系の歌比丘尼たちによって語られた「伝承」なのかもしれませんね。
もうひとつ。能楽作品の「誓願寺」には↓のフレーズが出てきます。
「神といひ仏といひ 只是れ水波の隔てなり」
神も仏も対して変わらない、ちょっと姿が違うだけですよ。といった意味。このフレーズ、江戸時代には「誓願寺」以外でも広く使われていたらしい。
熊野信仰においては神仏習合の時代には熊野三社のそれぞれの神さまに本地仏が割り当てられていました。そのうえですべてをまとめて「熊野権現」として扱われていたことになります。
先述した一遍上人が熊野の地で得たお告げも熊野の神さまの総称である熊野権現によるものであると同時に熊野本宮大社の祭神、家都御子大神(けつみこのおおかみ)にしてその本地仏である阿弥陀如来からのものでもある、という構図になっています。阿弥陀如来自らが「すべての人々は阿弥陀如来によって救済・往生が決定されている」と宣言している形。
めんどくせぇ~と感じるのはワタクシだけでありますまい(笑)
この神仏習合の時代の神と仏の関係については現代のわれわれが見ると複雑極まりないように見えるのですが、実際にはじつに単純明快「神も仏もみんな同じようなもの」というコンセプトのもので信仰されていたのでしょう。
つまり、昔の人たちも複雑な信仰形態を理解していたわけではなく、「名前が違うだけでみんな同じ、難しく考えなくてもいいでしょ」とシンプル極まりない姿勢で向き合っていたのではないでしょうか。
そんなシンプル&ちょっとルーズな姿勢だからこそ、いろいろな神仏を結びつける複雑怪奇な信仰形態が作り上げられていったのかも知れません。「わかるやつだけわかればいいよ」みたいな。
この大らかさが日本の宗教の特色であるとともに海外の人にはなかなか理解できない部分なのかもしれません。難しくて理解できないのではなく、単純過ぎて理解できない(笑)
最後にもうひとつ、せっかく誓願寺をめぐって2人の才女が登場したのでこの2人のエピソードをちょっとご紹介。
紫式部が清少納言のことを「知識をひけらかす嫌味な人」と厳しく評し、和泉式部のことは「才能あるけど身持ちが悪い女」とこれもまたビミョーな評価。では清少納言と和泉式部の関係はどうだったのか?
じつはこの2人の間でかわされたとされる歌が残っています。まず↓は和泉式部から清少納言へと贈った歌。
“これぞこの 人の引きける あやめ草
むべこそ閨の つまとなりけれ”
ちょっと意味をとるのが難しいのですが、↓のような感じでしょうか。
「これはどなたかが見事に引き抜いた素晴らしいあやめ草、さぞかし閨(寝室)の軒端に置くのにふさわしいものですね」
あやめ草を清少納言その人になぞらえたうえで「つま」を「軒端」と「妻」の掛詞にしています。なのでこの歌の背後には「素晴らしいあなたが男に引っ張り込まれてその人の妻になったんですってね」みたいな意味が込められている、と考えられています。
あやめ草(菖蒲)には魔除けの力がある…というのは現在でも受け継がれていますが、和歌の世界では「道理を忘れた恋」みたいな意味でも使われていました。なのでこの歌では清少納言をあやめ草になぞらえることで「魔除けの効果をもったあやめ草のような素晴らしい女性」という褒め言葉と、「才女のはずなのに道理に合わない恋をする女」の意味の両方が込められているのではないか? と見ることもできるでしょう。
そんな歌に対して清少納言は↓の返歌をしています。
“閨ごとの つまに引かかる 程よりは
細く短き あやめ草かな”
意味は↓のような感じでしょうか。
「あなたはそんなこといいますけどね、あちこちの男性の寝室に引っ張り込まれている大人気のあやめ草に比べればこちらはずいぶんと細くと短いものですよ」
こちらは恋多き女と言われた和泉式部をあやめ草にたとえて当てこすっていると思われます。
さらにこの歌に対して和泉式部が返歌を作っています↓
“さはしもぞ 君は見るらん あやめ草
ね見けん人に 引き比べつつ”
「あなたがそんな目で見るのはあなたもわたしと同じようにあちこちの寝室に引っ張り込まれているからついつい比べてしまうんでしょうねぇ」
みたいな感じでしょうか。
さて、どうでしょうか? ずいぶんと生々しいやり取りですが、これらの歌から彼女たちの関係をどう読むべきか?
こんな生々しい、あけすけな話をするくらいだから仲が良かったのでは?との見解が一般的みたいですが、これらの内容を見ると…
褒め言葉を駆使しつつ相手を小馬鹿にする、典型的な京都人のやり取り(偏見?)に見えるような気がするのはわたくしだけでしょうか?
この時代には京都人の会話パターン、そして定評ある「いけずのスピリット」がすでに確立されていた! みたいな(京都の方、怒らないでね! あくまで話のネタということで)。
少なくとも、もしワタクシが女性2人が面と向かってこのような会話を繰り広げている現場に居合わせたら背筋が凍る思いを味わうことでしょう🥶。
さて、あなたはどう思われますか? この2人は仲が良かったのか、それとも悪かったのか?
だいぶ長くなってしまいましたが、おまけにもうひとつだけ。どうして和泉式部が神秘のヴェールに包まれた伝承の世界の住民のように扱われているのか?
それはもしかしたら彼女の出自が関わっているのかも知れません。
彼女の父親は大江雅致(まさむね。大江匡衡の弟と考えられています)、つまり彼女は大江氏出身。
大江氏と言えば、大江時親が楠木正成に兵法の真髄を伝授したとか、大江匡房は源頼光を高く評価していて本人は陰陽道にも詳しかったとか(源頼光が鬼退治をする酒呑童子伝説の舞台は「大江山」)、その大江氏から出た毛利元就が戦国時代屈指の謀将だったとか、何かと怪しいイメージのある一族。この出自が彼女のイメージ形成に影響をおよぼしているのかもしれませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。最後に恒例(?)のわたくしKindle出版している電子書籍の紹介をさせてください。
やっぱりできるかぎりアピールする機会をもたないと誰の目にも留まらずに埋もれてしまいかねませんので😅なにとぞご容赦を。
普段の投稿を同路線、「神・仏・妖かしの世界」を題材にした創作小説(おもに伝奇・幻想・ファンタジー系)です。
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