鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

かつての葬送の地にて法華経の世界を垣間見る ~京都化野念仏寺と岡山の福田海はなぐり塚

の画像は京都府京都市、嵯峨鳥居本化野町(いつも思うことですが京都の地名って面白いですね)にある化野念仏寺

観光スポットとしても有名なところですが、その中でもとくに撮影スポットとなっているのがこの「西院(さい)の河原」。ちなみにこのエリアの内部での撮影は禁止です。は現地の説明板。

は入口

野(あだしの)と言えば蓮台野や鳥辺野と並ぶ「葬送の地」。立地的にかつての京の都の境界に位置していたと同時にあの世とこの世の境界線としての位置づけでもありました。京の都は中国の長安を元にして作られた一方で中国の都のように周囲を城壁で囲まみせんでした(これは奈良の都も同じですが)。その理由としていくつかの説が挙げられていますが、その一つとして聖と俗、日常世界と異界の境界線を明確に設定しないよう、意図的に城壁を作らなかった、という説を読んだことがあります。

われわれが日常生活を送っている世界と、神仏が住む聖なる世界または魑魅魍魎が跋扈するおそろし~い異界との境界は非常に曖昧であって、人間が「あっちに」迷い込んでしまったり、逆に魑魅魍魎が「こっちに」迷い込んできたりするもの…そんな日本人らしいあいまいな価値観が都の区画設定に反映されていたのではないか、と。

この説が本当かどうかはともかく、境界が曖昧になったことで京の都は魑魅魍魎がはびこる素晴らし~い世界になったのは間違いないようです。

で、平安時代以降これらの葬送の地では死者の遺体が放置されていました。上品に言えば風葬、身も蓋もない言い方をすれば野ざらし。当時はこれが普通だったのでとくに野蛮だとか貧しい人たちは死んだ後も酷薄な扱いを受けていた…とは言えないわけですが、一方で、そんな死者たちを弔うために石仏や石塔が葬送の地に置かれました。上記のお寺の説明板では空海の関与も記されていますね。

それから時は流れ、明治時代になって化野の地こうした無縁仏となった石仏を集めてこの化野念仏寺に安置されたのがこの「西院の河原」です。時代は平安から江戸にわたり、その数はじつに8000体とも言われています。

名前の由来はもちろん「賽の河原」ですが、名付けられた経緯については↓のお寺の公式サイトに記されています。

nenbutsuji.jp

この名称に合わせて観光案内などではこの西院の河原が「賽の河原を再現したもの」などと書かれることもありますが、実際は異なります。公式サイトでは「明治中期に地元の人たちによって集められ、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえて…」とありますが、実際には明治30年代に中山通幽(1862-1936という人物が中心になって集められ、「釈迦如来が集まっている人たちに向かって説法している」シーンになぞらえて配置されたものです。

なぜ公式サイトではこのような内容に変わってしまっているのか?理由はこの配置がおそらく法華経の内容と関係があるからです。

仏教の重要な経典のひとつ、法華経ではお釈迦さまが出現した宝塔の中に入り、その宝塔の持ち主である「多宝如来」と隣り合って座りながら説法を居並ぶ仏たちに向かって説法を続ける…というシーンがあります。

このシーンは「法華曼荼羅」という名称で図案化もされていまして、Wikiから拝借したものです。

これと化野念仏寺の西院の河原を比較すれば一目瞭然というか、「なるほど」って感じがしますよね?

この化野念仏寺は浄土宗の寺院。そして浄土宗は阿弥陀如来を本尊としており、法華経とはあまり関係がない。そんな立場上、境内の見どころを「法華経における仏教の世界観を表現したもの」とは言いづらいのかも知れません。

しかしこの西院の河原がこの配置で作られた経緯もれっきとした「歴史」ですから、自分たちの都合に合わせて変えてしまうのはちょっとどうでしょうか?って気もしますが。

この法華曼荼羅のシーンでは釈迦如来の説法を聴くのは人間ではなく仏さまです。ですからこの西院の河原の配置は単に「この地に葬られた死者がお釈迦さまの説法を聴いている」だけでなく、「この地に葬られた死者はすでに成仏して仏になっているんだよ」という意味も込められているような気がします。無縁仏というと「かわいそう」なイメージがついてまわりますが、必ずしもそうではない、とのメッセージが込められているんではないか?

もしそうなら、親より先に死んだ子どもたちが成仏できずにさまよい続ける賽の河原とは正反対のコンセプトということになりますが、どうでしょうか? わたくしとしてはこの法華経をベースとした「無縁仏はすでに成仏している」というコンセプトのほうがより壮大にして深淵、かつ美しく相応しいように思えます。そもそも浄土宗って「死んだ人はみな成仏して浄土へ行ける」宗派のはずですし。もっともそれだとこのお寺で執り行われている行事「千灯供養」のコンセプトと噛み合わなくなっちゃいますけど。

で、この西院の河原を配置した中山通幽という人物は岡山を本拠としている「福田海(ふくでんかい)」という宗教団体の創始者でもあります。

江戸末期から明治にかけてさまざまな新興宗教が生まれますが、岡山県では「教派神道」の代表格として挙げられる黒住教金光教が生まれていますが、この福田海のその一つ、ということになるのでしょう。

本部は岡山県岡山市黒住教の本部にもほど近い…というか観光スポットとしても有名な吉備津神社吉備津彦神社を結ぶルートのちょうど中間くらいのところにあります。

その本部にはとても興味深い施設もあります。「はなぐり塚」。↓の画像です。

使役される牛を供養するためのもので、ともともは古墳だったものを転用、そのうえに牛のはなぐりを積んで作られています。その数じつに600万!はその説明板。

説明板にもある馬頭観音

とにかく見る者を圧倒する無数の鼻ぐり(鼻輪)。滞在している間は敬虔の念と罪悪感が入り交じる複雑な心境になりました。

かの比叡山延暦寺には福田海が奉納した牛の像などもありまして

この牛の霊を弔うはなぐり塚や化野念仏寺の西院の河原のコンセプトからは中山通幽の「衆生、あらゆる生き物(人間・動物を問わず)は仏になることができる、仏として供養する価値がある」という理念を見て取れるような気がします。

もうひとつ、前述の法華曼荼羅ですが、法華経をもっとも重視する日蓮宗では似たようなコンセプトで法華経の世界を文字化したものも作られています。その名も「大曼荼羅」。日蓮佐渡に流されたときに考え出したものだそうですが、のようなものです。Wikiから借用

そして東京国立博物館で展示されていた安土桃山時代に使用された武士の陣羽織。

明らかに大曼荼羅を簡略化したもので、前身頃に天照大神(太神)と八幡大菩薩、後ろ身頃の中心に「南無妙法蓮華経」、その周囲に四天王を配置し、向かって左側に釈迦如来梵字、右側に多宝如来梵字が配されています。

日蓮宗の信者はこれを身にまとうことで神仏の加護を得ていると確信することができた…のでしょうか?

なのでこれを身にまとっていた武士は間違いなく日蓮宗の信者。日蓮宗といえば戦国時代に「天文法華の乱」に代表されるように天台宗浄土真宗などと武力行使をともなう争いを繰り広げていました。

となるとこの陣羽織の持ち主はどんな立場でこれを身にまとって戦っていたのか?

などと想像を掻き立てられます。

は化野念仏寺にある「トーラナ(Torana」。インド由来で「塔門」といった意味らしい。「それがなんでここに?」って感じなのですが、鳥居を連想させる形状からそのルーツのひとつではないか?との説もあります。

「どのみち境内に入りたかったらこの門を通らな(トーラナ)あかんな」って感じ?

ごめん。最後にもうひとつ、↓はこちらも化野念仏寺の境内にある天満宮に立つ「宗忠鳥居(ねむただとりい)」。これは先述した教派神道のひとつ、黒住教の教祖、黒住宗忠を祀った神社に由来するものだそうです。丸材と角材を組み合わせているのが特徴だとか。

意外なほど明治の新宗教、それも岡山由来と縁があるお寺のようですねぇ。