鳴かぬなら 他をあたろう ほととぎす

妖怪・伝説好き。現実と幻想の間をさまよう魂の遍歴の日々をつづります

京都大原の地にて、大蛇伝説と源氏物語とツチノコを追う!…って欲張りすぎ?

本年2025年は巳年、ということで蛇絡みの伝説のひとつでも取り上げておかなきゃいかんだろう、というわけで、本投稿の舞台は京都の大原地区。

タイトルからもご推測いただけると思いますが、まったく繋がりがなさそうな3つのテーマを強引に結びつけて書いたので目次は必須。興味のあるテーマだけお読みになってもOKです、という親切設計(笑)

1.大原に伝わる大蛇伝説

大原エリアと言えばおそらく三千院寂光院が代表的なスポットのツートップだと思うのですが、そんな大原の中心エリアの中心にほど近い場所に「乙が森」と呼ばれる茂みがあります。ここには恐ろしくもちょっと悲しい大蛇伝説が伝わっております。

まずは乙が森の画像から

現地の説明板。ここにある「比叡山を望むことができる」は後でちょっと重要になってくるので覚えておいてください。

龍王大明神」なる碑が建てられています。

で、伝説の内容は以下の通り↓。↑上記の説明板もご一読ください。

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昔々、この大原の地に「おつう」という名のそれは美しい娘がおりました。そんな彼女がある日若狭の国の殿様に見初められ、彼の元に輿入れすることになりました。まさに玉の輿となったおつうでしたがその幸福は長くは続きませんでした。後に病を得て健康を害すと殿様の寵愛を失ってしまい、ついには故郷の大原の地へと戻されてしまったのです。

そして己の境遇に絶望したおつうは大原川に身を投げてしまいました。

それからしばらくして、例の若狭の殿様が上洛のためにこの大原の地を通りかかる機会が訪れました。一行がこの地を通過し、花尻橋という橋にさしかかると突如として恐ろしい大蛇が出現、彼らに襲いかかってきました。

じつはこの大蛇は川に身を投げたおつうが転じた姿だったのです。自分を捨てた殿様への恨みから恐ろしい蛇身となり、その恨みを晴らすべく姿を現したのでした。

迫りくる大蛇を前に絶体絶命のピンチに陥った殿様でしたが、そこへ松田源太夫という名の侍が大蛇の前に立ちはだかり見事討ち果たすことに成功、大蛇は首と尾を切り離された状態で絶命し、殿様は危機を脱することに成功したのでした。

しかしその後大原の地には悪天候に見舞われるようになったうえにどこからともなく悲鳴が響き渡る恐ろしい状況に陥りました。これはおそらくおつうの祟りであろうと恐れた住民たちは改めて大蛇の首と尾をそれぞれ別の場所に丁重に葬り、彼女の魂を供養するための祭儀を開催することにしたのでした。

首が埋葬された場所は現在の「乙が森」、尾を埋葬した場所は「花尻の森」だと言われています。

おしまい

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現在でも上記の「乙が森」と「花尻の森」の両方が残されています。下の画像は「花尻の森」の方。「乙が森」や三千院寂光院がある観光の中心エリアよりもかなり南へ行ったところにあります。なお、「花尻の森」の近くには上記の伝説に登場する花尻橋というバス停もあり。

こちらは観光客があまり訪れないエリアだからか、ちょっと放置気味(苦笑)

このあたり伝説の雰囲気が漂ってきていい感じ。

この伝説そのものはそれほど古いものではないらしく、それまでにこの地に伝わっていたいろいろな伝説が融合した結果作り出されたとも考えられています。

まず殿様を守って大蛇を退治する松田源太夫には別の伝説もあり、そこでは平家滅亡後に大原に隠遁した建礼門院徳子を監視する役目を源頼朝から命じられてこの地に住んでいた、とされています。「花尻の森」はその彼の邸宅があった場所である、とも。寂光院からかなり距離があるのは露骨に監視するのをはばかる配慮からでしょうか?

で、どうしておつうを捨てる殿様が若狭出身なのかというとかつて大原は京都と若狭地方を結んでいた「鯖街道」のルート上にあったからだと考えられます。若狭の人たちが京都へ物資を運ぶためにこの地を頻繁に往来していた環境から若狭の殿様がこの地を通りかかって現地の美しい娘を見初める、という設定が生まれたのでしょう(この点は現代の我々が考えるように訪れる者も少ない幽境の地、というイメージに再検討を迫るのかも知れません)。

毎年3月に話題になる東大寺の二月堂にて開催される「修二会」、というか「お水取り」も若狭国鯖街道沿いにある「鵜ノ瀬」から持ってきた水を使って行われるイベントです。下は鯖街道Wikiページにあった複数あった鯖街道のおもなルート図。

大原から左へ2本目のルートに「雲ヶ畑」という地名がありますが、後で出てくるのでちょっと頭に入れておいてください。

さらに男に捨てられた女が蛇と化して恨みを晴らすという設定は道成寺安珍清姫伝説を連想させますし、大蛇をバラバラにして殺すあたりは源頼政の鵺退治を思い起こさせます。

また、殿様から遠ざけられてしまった娘が大原の地で失意の日々を過ごす…という設定からは建礼門院徳子と、夫の高倉天皇を巡ってライバル関係にあった小督局の関係をほんのちょっぴり思い出させないでしょうか? 殿様から遠ざけられた小督局のエピソードと、大原で隠遁生活を送った建礼門院徳子のエピソードがごちゃごちゃに混ぜ合わされた、みたいな。

大原というエリアそのものが伝説が語り継がれるにふさわしい雰囲気を備えている魅力的なところなのですが、この悲恋の大蛇伝説に登場するこの2つの森も伝説のロマンにひたれるような雰囲気を持っているように思えました。花尻の森は放置気味なのがかえって雰囲気を高めているのかも。

2.ツチノコブームの震源地?

さて、そんな数々の伝説に包まれた神秘の地、大原ですがじつは1970年代前半~80年代半ばくらいにかけて大ブームを巻き起こした(そう、昔は今よりもブームのスパンが長かったのです)とある伝説、それも蛇伝説とも関わりを持っています。

そう、みんな大好きツチノコ伝説!

は後述する山本素石氏著「逃げろツチノコ」に所収されている懸賞金つきのツチノコ図。

ツチノコを写真撮影に成功すれば賞金10万円!…って今でも有効なのかしら? 捕獲じゃなくて写真撮影ってのがいいですね! 「幻の怪蛇ツチノコは、すべての日本人にとっていつまでもロマンとして生き続けてほしいものです」の文章も素晴らしい。

このツチノコブーム、当時リアルタイムで経験していた方は当時の狂乱ぶりをよく覚えていらっしゃるのではないでしょうか。当時子どもたちに絶大な影響力を持っていた(現在とは比較にならないくらい)ドラえもんでもよくネタにされていましたし。

かくいうわたくしも幼い頃ツチノコ求めてあちこちを探検してまわったのをよく覚えています。しかし残念ながら見つけることはできませんでした。

その後年齢を重ねて大人になっていくにつれて「みんな騒いでたけど結局ツチノコなんていないんだよ」と醒めた目で見るようになっていったのでした…

が、しかし!

大人になってから思いもかけない情報を手に入れることになる。それは山本素石氏(1919-1988)の著作「逃げろツチノコ」に記されていたツチノコの分布と各地での呼称を示した図でした。の画像

は著作のアマゾンページへのリンク図。名作です。

「逃げろツチノコ」山本素石・著 山と渓谷社

これを見ると分布図がかなり偏っているのがわかります。そう、関東地方には棲息していないらしい! 東京出身のわたしには見つけられないのも当然というもの。

「な~んだ、見つけられなかったのはツチノコが実在しないからじゃなくて、探した地域にいないだけだったのか」

と納得するともに俄然興味が再燃してきたのでした。

「まだツチノコとの戦いは終わっていないぞ」

と。

この分布図を見ると奈良と和歌山の県境、大峰山などがあるエリアとか、京都と兵庫の県境、酒呑童子伝説が伝わる旧丹後・丹波のエリアだとか、神秘的な信仰や伝説が伝わる地に多く見られるのが面白いですね。

名前もかなり多様で、ツチノコのほかにはゴハッスン(五・八寸。ツチノコの体の縦横のサイズを元にした名前)とか、ノヅチ(野槌)あたりが有名でしょうか。ほかにも「テンコロ」とか「コロリン」とか、目撃した外見の印象をそのまま名前にしているって感じで、いかにも民間レベルの語りの世界で伝えられてきた生き物(?)である様子がうかがえます。

この山本素石氏の「逃げろツチノコ」はツチノコ好きにとっての聖典のような書籍なのですが(笑)、著者の山本素石氏は他の著作でもちょくちょくツチノコについて記しており、そもそもかつてのツチノコブームは彼の一連の著作やメディアに掲載された記事によって煽られた面もあるようです。

ちなみに念のために言っておくと氏はオカルトや超常現象系の作家/ライターではなく、釣りをメインの話題に据えつつ日本各地の失われつつある農村の風景や人々の生活を紹介した紀行文のような著作を多く残した人です。その一環としてツチノコが取り上げられている。その内容はオカルトと民俗学両方の面白さを味わわせてくれるものばかり。

で、そんな彼によると大原の地ではツチノコの目撃談が多く、どうもこの地域の目撃談が70年代に起こったツチノコブームの震源地のひとつらしい。

しかも、著者に当地での目撃談を熱心に語った人物のひとりは地元では「ホラ吹き」として有名だったらしく、その人を取材したツチノコ関連の記事がとある新聞で特集記事として大々的に掲載されたことがあったそうで…🤪😅🤣

現在ツチノコの生息地としては岐阜県も有名ですが、氏の著作にも出てきます…というか現在知られるツチノコスポットの多くはこの方の著作に書かれた情報を元にしている可能性が極めて高い(笑)

3.伊勢物語源氏物語

ツチノコの話はちょっと置いておいて(あとで再登場)。大原の地にあるスポットをもうひとつご紹介。上記の「乙が森」と「花尻の森」の間のちょうど中間くらいにあります、惟喬親王844-897)のお墓とつたわる墓所

この惟喬親王という人物もまたいろいろな伝説に取り巻かれた面白い人物ですが、文武天皇の息子(しかも長男)。父親から寵愛を受け有力な皇位継承の候補者だったものの、時の権力者、藤原良房の意向などもあって即位できなかった人物。藤原良房といえば藤原氏による摂関政治の礎を築いたとも言える剛腕の持ち主、一方惟喬親王の母方は斜陽の紀氏出身。時勢に利あらず、って感じで歴史上の敗者になってしまった人ですね。

ちなみに彼を差し置く形で皇位についたのが武家としての源氏のルーツとも言える清和天皇。惟喬親王天皇になっていれば武士の歴史もずいぶん変わっていたかも!(武家の源氏=陽成源氏説も含めて)

惟喬親王を巡るこのあたりの事情に関してはこの人のWikiページもご参照ください

ja.wikipedia.org

そんな惟喬親王、あの在原業平825-880)と非常に親しい関係にあったらしく、この二人の交流を伝えるエピソードが数多く残されています。在原業平も父親の阿保(あぼ)親王平城天皇の長男、さらに母親は桓武天皇の娘というサラブレッド。しかも伊勢物語でもほのめかされている藤原基経の妹、高子の愛の逃避行(とその失敗)などもあって藤原氏にいろいろと含むところがあった痕跡も見られます。

二人が親しい関係になったのもそんな両者に共通する「敗者のアイデンティティー」がもたらした仲間意識がきっかけだったのかもしれません。

在原業平の歌の中でもおそらくもっとも有名なもののひとつ、

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし”

も惟喬親王の別荘で花見を楽しんでいるときに詠んだものです。

で、大原にある惟喬親王ゆかりの地がじつは源氏物語とも浅からぬつながりを持っていたりします。

 3-1.大原の地にある伊勢物語ゆかりのスポット

天皇になれなかった惟喬親王ですが、それなりによい生活を送ることができたらしく、最終的に出家したうえで「小野」の地に隠遁、その地で死去したと考えられています。その「小野」の地とされているのがここ大原(異説もあり)。

はその墓所

彼を祀る「小野」の名を冠した御陵ならぬ御霊神社も。

実際中世から近世に入ってこの人が怨霊めいた扱いを受けるようになったらしく、歌舞伎には「惟喬親王魔術冠」というタイトルからして妖しい匂いがプンプンする作品があったりします。

この墓所と神社はもツチノコが出そうな…というその前に別の種類の蛇が出てきそうな緑豊かな、でもちょっとわからづらいところにあります。

で、彼が出家してこの地に隠遁したときには在原業平が↓の歌を詠んで贈っています。

忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは”

歌意は「これが現実であることを忘れて夢ではないかと思ってしまいます。深い雪をなんとか踏み分けてあなたとお会いする環境になるとは」みたいな感じ。

この歌は在原業平を主人公にしたと言われる伊勢物語の八三段に収録されていますが、古今和歌集にも収録されているので(巻18970)間違いなく業平が詠んだものと見てよさそうです。伊勢物語では惟喬親王のもとを訪れ主人公が辞去する際に詠んだものとされているのに対して古今和歌集では業平が惟喬親王のもとを訪れた後に都に戻ってから詠んだものとなっています。

いずれにせよ、この大原の「小野」の地を舞台にした歌&エピソード。なのでこの墓所は有名な古典文学ゆかりのスポット、ということになります。

さて、ここで話を伊勢物語にちょっと移して、同作品の中でもとくに有名な話を見てみましょう。在原業平と思われる主人公の色男が伊勢を訪れた際に斎宮と束の間の逢瀬を交わした話です。第69段。

未婚の内親王が担い男性を遠ざけることを大前提とした伊勢の斎宮が遍歴の色男と密通! となると大スキャンダルなわけですが、この逢瀬の後に二人は歌を詠み交わしています(いわゆる後朝の歌)

まず斎宮が業平に向けて贈った歌

君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢か現か 寝てか覚めてか”

歌意は「あなたがわたしのもとにいらしたのか、わたしがあなたのもとへ訪れたのか。よくわかりません。あれは夢だったのか現実だったのか、寝ていた間の出来事だったのか、目覚めている間のことだったのかも」。

それに対して色男の返歌が

かきくらす 心の闇に 惑ひにき 夢現とは 今宵さだめよ”

歌意は「恋心に分別を失ってしまい心の闇に迷い込んでしまったためによくわかりません。昨夜の出来事が現実だったのか、夢の中のことだったのか、今夜決めてください」。

この2首も古今和歌集に収録されており(巻13)、前者は作者を「斎宮なりける人」としたうえでよみ人知らずとしています。そして業平のうたの方は結句が「世人さだめよ」となっています。伊勢物語の作者が物語のプロットに合わせて変更したのでしょう。

なお、このエピソードには当時の斎宮惟喬親王の妹、というおまけつき!

伊勢物語の方は「今宵定めよ」ですから、「今晩もう1回逢って確かめ合いましょうよ」と誘っているのに対して古今和歌集の方は「あの夜の出来事が夢だったのか現実だったのかは世間の人たちに決めてもらいましょう」という意味になる。二人の関係が世間に知られても構わない、という自信があったのでしょうか。

この2首と上記の惟喬親王に贈った歌を比べてみましょう。どちらも「今置かれている状況が現実なのか、夢なのかよくわからなくなっている」というシチュエーションを土台としています。さらに古今和歌集には彼の歌として↓の歌も収録されています。

寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな”(巻13644

歌意は「あなたと一緒に過ごした夜が夢のように儚いものでしたので、帰宅してうたた寝をしたらますますその儚い夢の中に入り込んでしまうようです」。

こちらも現実と夢の境界線が曖昧になっています。どうやら彼はこうした表現が好きだったようです。楽しく過ごすことができる素晴らしい時間は夢のような儚い、現実味に乏しいものである、みたいな考え方でしょうか。

そしてこの彼のスタイルが源氏物語に大きな影響を及ぼしている形跡が見られるのです。

 3-2.源氏物語との関わり

源氏物語の「若紫」の巻において光源氏は彼にとって初恋の女性である藤壺(当時の天皇、というか光源氏の父帝の妃)と密通して不義の関係になります。

この逢瀬において藤壺は妊娠、生まれたのが後に天皇になる冷泉帝。

これは源氏物語の序盤に登場するエピソードで、現代人の感覚では鬼畜としか言いようのない振る舞いを繰り返す光源氏の色男伝説の開幕を告げるような立ち位置となっています(笑)

で、この禁断の密通を交わした後に光源氏藤壺に歌を詠んで贈っています。それがの歌

見ても又 あふ夜(よ)まれなる 夢のうちに やがて紛るる 我が身ともがな”

歌意は「夢のような逢瀬を交わすことができましたが、再びお逢いする機会は得られないでしょう。ですから思い切ってこの素晴らしい夢の中に入り込んで消えてしまいたい我が身です」みたいな感じ。

さて、業平の歌の世界観との共通点は明らかだと思うのですがいかがでしょうか? とくに「寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさるかな」からの影響が色濃く見られるように思えます。

彼女が少なくとも古今和歌集には親しんでいたでしょうから、在原業平のこの世界観に魅力を感じて自らの作品に取り入れたのでしょう。

と断言できそうな根拠が当時の朝廷の状況から見て取ることができます。

これは前に取り上げたこともあるのですが(URL。もしよかったらご一読ください)

aizenmaiden.hatenablog.com

伊勢物語にある在原業平(と思われる)人物と斎宮との逢瀬によって子どもが生まれ、その子は当時の伊勢権守であった高階氏によって引き取られ、家を継ぐことになった…という伝説が平安時代まことしやかに語られるようになります。

しかも紫式部の同時代に藤原道長と権力闘争を繰り広げていた藤原伊周やその弟の隆家、妹の定子の母親(道長の兄、道隆の奥さん)がこの高階氏出身。

なので道長サイドは政敵に対するネガティブキャンペーンとしてこの伝説を利用し、「皇祖神に仕える斎宮の不義密通によって生まれた子の子孫(藤原定子一条天皇の間の子、敦康親王のこと)は天皇にはふさわしくない」と朝廷内に触れ回っていたそうです。

となれば道長サイドによるネガティブキャンペーンの根拠となる伊勢物語は当時の宮廷社会では広く知られていたでしょうし、紫式部も当然接する機会があったはず。伊勢物語における主人公と斎宮との密通の話が周囲で噂になっており、そこになかなか粋な歌が収録されているのを見て「これは使えるぞ」とその雰囲気を源氏物語に取り入れた…

こうした当時の朝廷の状況から考えてもほぼ間違いないんじゃないか、と思いますがいかがでしょうか。

さらに在原業平の異母兄にあたる在原行平818-893)にいたっては源氏物語と直接的な関係を持っています。彼が詠んだ歌にがありますが

わくらばに とう人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶとこたえよ”

これは彼が原因は不明ですが政治闘争か何かに巻き込まれて摂津国の須磨の地(現兵庫県神戸市須磨区)に蟄居したときに詠んだ歌とされています。「たまたまわたしの消息を訊く人がいたなら、須磨の浜辺で塩作りでもしながらさびしく過ごしていると答えてくれ」みたいな意味。

これが源氏物語の「須磨」の巻にある光源氏都落ちと須磨での生活の元ネタになったと考えられています…というか作品中にも「光源氏が住むところは行平の中納言が「藻塩垂れつつ…」の歌の中で詫び住まいをしていたところに近いところだった」とある。

作中で紫式部自身が在原行平をモデルにしていると告白しているようなものでして、この点からも彼女が業平&行平兄弟に深い関心を持って創作の参考にしていたことは明らかでしょう。

さらに加えて伊勢物語源氏物語、そして大原との間にはもうひとつ関連がうかがえます。源氏物語の後半部分、「宇治十帖」でのお話。

この宇治十帖のヒロイン、浮舟は恋の三角関係に悩まされた末に世をはかなんで宇治川に入水を試みます。その後消息不明になり誰もが溺死してしまったと思っていたのですが、じつは彼女は物の怪に取り憑かれた状態であてもなくさまよい歩く日々を送っていたのでした。その後深い茂みの中で意識を失っているところをたまたま通りかかった一行に保護されます。そして彼らに連れられていかれたのが「西坂本の小野」という人里離れた場所。

これは現在の京都市左京区の修学院があるエリアから比叡山へと向かう途上あたりだと考えられています。

大原の「小野」に隠遁した惟喬親王を訪れた時に在原業平が詠んだ古今和歌集の詞書には「比叡の山の麓なりければ雪いと深かりけり」とあります。で、源氏物語の「小野」も比叡山の西、登山ルートにあるエリア。

どちらも比叡山が見える場所にあり、隠遁生活に向いた人里離れた地。紫式部は惟喬親王の隠遁の地「小野」をモデルに西坂本の「小野」の地を源氏物語の最後の舞台として設定したのではないか?

なお、宇治十帖の作者は別人説はここでは置いておきます(個人的には別人説にちょっと肩入れしたいですが)。ただしもし別人であってもこれを根拠に伊勢物語在原業平&惟喬親王のエピソードをよく知っていた人物によるもの、と見ることもできそうです。

昨年(2024年)の大河ドラマ紫式部を主人公としていた作品だったこともあって何かと源氏物語が話題になりました。なので「日本最初(場合によっては世界最初)の長編小説」や「最初の文学作品」といったこの作品についてまわる先入観(しかも正しいとは言えない)が再検討されるいい機会になるかと思ったのですが…そんな機運があまり高まらないまま年が改まってしまったような気もします。

源氏物語はもちろんのこと、世界中のあらゆる文学&芸術作品は決して「ゼロから生み出されたわけではない」点は歴史を学ぶうえでも重要だと思います。紫式部もいろいろな先行作品を参考にしたうえで源氏物語を作り上げていったのでしょう。

 3-3.「小野」の地名についてまわる神秘的なイメージ

惟喬親王にはもうひとつ、神秘の世界と関わりがある要素を持っています。かつて全国をまたにかけて活動し、現在でもその末裔が活動を続けている「小椋」姓を名乗る人たちを中心とした木地師集団が自分たちの祖先&祖神として惟喬親王を祀っているのです。

中世に入って中央権力が弱体化していったことで権門から庇護を得られなくなった氏族や職能集団が自分たちの出自に箔をつけるために歴史上&神話上の有名人と自分たちを結びつける家系図を作り上げていきます。その過程で彼らは惟喬親王を自らのルーツとして定めたらしい。

天皇の子をルーツとしているのですから、彼らも当然天皇の地を引くことになります。なので彼らは立派な菊の紋章を使っていました。さらに全国各地に広がる平家の落人伝説の中でも山奥に伝わっているものは彼らがもたらした(もしくは作り出した)もの、という説もあったりします。

この木地師集団の本拠地は滋賀県の旧愛知郡(えちぐん)の小椋村(現在の東近江市)で現地には惟喬親王を祀る神社が2つあるのですが、京都市の北区雲ヶ畑(先ほど鯖街道のルートで出てきました)にも同じく惟喬親王を祀る神社があります。この地も大原の小野と同じく惟喬親王が一時期隠遁生活を送っていた地とされています。しかもこの地の近くには「小野郷」なる地名もあったらしい。

「小野」という一見ごく平凡な地名を媒介にして惟喬親王源氏物語、さらには木地師の歴史とが結びつく!

小野篁小野小町も含めて「小野」という名称にはなにやら神秘的な雰囲気がプンプン漂いますねぇ。

しかもそれだけではありません。じつはこの北区雲ヶ畑エリアにもツチノコの目撃情報が残されているのだ!

再び山本素石氏の著作から引用。今回は「山棲みまんだら」という著作から。

↓はこの書籍のアマゾンの商品ページ。こちらはツチノコネタを含めつつ山間部の農村に伝わる不思議な伝説・民話やその地で暮らす人たちの生活が取り上げられています。こちらも名作!

「山棲みまんだら」 山本素石・著 山と渓谷社

このマップは大原との位置関係も把握できる優れモノですが、著者の山本素石氏はこの地図にも書かれている「栗夜叉谷(くらしゃ)」という沢でツチノコと遭遇したらしい!

この地はツチノコ好きの間ではちょっとした聖地になっているようです(笑)

つまり、惟喬親王を通して源氏物語ツチノコもつながる!

し・か・も、ツチノコの呼称の一つに「ノヅチ」があります。そして木地師は木槌・金槌を使う機会もあったはず。

ここにおいてツチノコ木地師もつながる!

かなり強引に平家の落人伝説と結びつければ平家物語ともつながる!

まさに神秘の世界と申すほかありますまい。

そう、冒頭では「まったく繋がりがなさそうな3つのテーマを強引に結びつけて書いた」と書きましたが、じつは繋がりがあったのだ!

ツチノコのところで「ツチノコの生息地は神秘の世界と重なる」と書きましたが、この京都の大原と雲ケ畑という惟喬親王伝説ゆかりの地においてもそれが証明されていることになります。この「ツチノコ=神秘の地に棲息」説はかなり真実味があるらしい。

どうやら、この神秘の生き物にはわれわれがまだまだ知らないことがたくさんあるようです。そしてツチノコを発見したければわれわれはより神秘の世界に足を踏み入れる覚悟が必要なようです。

そう、われわれとツチノコとの戦いはまだはじまったばかりなのだぁ!

と、打ち切りマンガの最終回のような締めくくりになりました。

なお、本投稿のタイトルはもともと山本素石氏の名著にあやかって「逃すなツチノコ!」にする予定だったのですが、おそらくこのタイトルでは歴史好きの方は興味を持ってくれないだろうとの大人の判断で断念したのでした。

 

お読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできる範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

www.amazon.co.jp

このブログにおける普段の投稿と同路線、「神・仏・妖かしの世界」を舞台にした創作小説(おもに怪奇・幻想・伝奇・ファンタジー系)です。もしご購読いただければ光栄至極にて御座候。

 

 

歌は魂なり ~藤原定家と平家物語との意外な関係。そして彼を巡る怪奇伝説について

さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな”

By 平忠度1144-1184from 千載和歌集

前回の投稿で藤原定家(1162-1241)の名前をチラリと出しましたが、今回は主役級の扱いで。

1.平家物語」に登場する平忠度のエピソード

まず↑の画像は京都府京都市下京区にある新玉津島(にいたまつしま)神社。賑やかな五条エリアにあるこじんまりとした神社ですが、↓の説明板に書かれているようにもともとは藤原俊成(としなり/しゅんぜい。1114-1204)の邸宅内にあった神社です。

祭神の衣通姫は歴史上の人物で近親婚がらみの妖しい伝説を持っている人物です。この人だけでもネタになりそうな面白さを持った人物ですが、ここでは↓のWikiページで。  ja.wikipedia.org

 1-1.エピソードの概略

この神社を有名にしているのは説明板にもある「平家物語」に見られるエピソード。

木曽義仲に敗れた平家が都落ちをすることになった際に平忠度(ただのり)がこの地にあった俊成の邸宅を訪れて自分の歌を収録した巻物を手渡すと「この中からもし勅撰集に一首でも選んでいただけるなら草場の下でも嬉しく思い、遠いあの世からあなたをいつまでもお守りいたします」と告げると立ち去っていった…

この都落ち1183年、1186年勧請のこの神社はまだなかったわけですが。後述するように藤原俊成が選者を努めた千載和歌集の完成が1188年ですから、もしかしら「よい勅撰和歌集が作れるように」との意図をこめてこの神社が勧請されたのかもしれませんね。

で、俊成が選んだのが冒頭の「さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」の歌。

歌に出てくる志賀の都とは天智天皇大津京のこと。なので歌意は「ここ志賀にあったかつての都は荒れ果ててしまったが、長等山の山桜は今も昔も変わらず咲き誇っているね」といったところ。

杜甫の有名な「国破れて山河あり」の詩をちょっと連想させますね。長等山はかつて大津京があったとされる地や三井寺園城寺)の西側にそびえている山。三井寺山号も長等山。長等山の「ながら」と「昔ながら」をかけています。

この歌は以仁王や頼朝の挙兵前に書かれたと考えられているのですが、その後の歴史を知っている立場で鑑賞すると大津京福原京の消滅、大友皇子(弘文天皇)平氏の没落がオーバーラップされます。しかも冒頭の「さざ波」からは何やら平家が沈んだ壇ノ浦の波の音も聞こえてくるような(それに大津にしろ福原にしろ水運を意識した都でした)

藤原俊成の手によって千載和歌集が最終的に完成したのが1188(息子の定家も関与したらしい…この点は後述)。平家滅亡後なので俊成も上記のようなイメージを重ねたうえでこの歌を選んだのではないでしょうか。

ただし、このエピソードは残念ながらおそらくフィクションと考えられています。

この歌は忠度が都落ちする前にすでに発表されており、朝廷の貴族たちの間ではそれなりに知られていたらしく、当時歌壇の中心人物だった俊成も当然知っていたと考えられています。(平家物語では忠度が長年俊成から歌の指導を受けていたことが書かれています)

忠度が自分の歌のいくつかを俊成が知っていることを承知の上で「この中から良いと思ったものを選んでください」と巻物を手渡して頼んだ…という可能性もなきにしもあらずですが、

残念ながらその可能性も低い。なぜならこの話には元ネタがあるからです。

 1-2.その真相は?

平清盛の孫、彼の次男基盛の嫡男にあたる平行盛(不明-1185)が忠度のエピソードと同様に都落ちする際に藤原定家のもとを訪れて自らの歌集を託しているのです。

そして千載和歌集にはこの歌集に収録されていたのであろう歌が収録されています。の歌

かくまでは あはれならじを しぐるとも 磯の松が根 枕ならずは”

歌意は「これほどまでにわびしい思いすることはないだろう。たとえ旅の途中で磯の松の根を枕にして寝ることになったとしても」みたいな感じ。

しかしこれは「よみ人知らず」の形での収録となっており、勅撰和歌集のため朝敵となっていた平家の名前を収録するのは憚られていた様子がうかがえます。そしてこの歌の存在は千載和歌集の編纂に定家が関与していたことを示す証拠にもなっていると思います。

ところが、それからじつに47年後、新古今和歌集を経て1235年に編まれた勅撰集「新勅撰和歌集」において単独の選者となっていた藤原定家が上記の歌が平行盛の作であることを公表、そのうえで新たにの歌を収録しています。今回はちゃんと平行盛の名前を記したうえで。

流れての 名だにも止まれ 行く水の あはれはかなき 身は消えぬとも”

歌意は「せめてわたしの名前だけでも長く語り継がれるよう、勅撰和歌集に収録されてほしい。水の流れのようにこの儚い身があっという間に消えていってしまうとしても」みたいな感じ。

平家滅亡からじつに半世紀、定家は自分に歌を託してくれた平行盛の願望を叶えたのでした。

行盛の生年に関しては不明ですが、父の基盛が数え年の24歳で早世しているうえにその死去の年が藤原定家の生まれた1162年なのでおそらく定家と行盛は年がそれほど変わらない親しい関係にあったのかもしれません。

この新勅撰和歌集が編まれた当時、すでに平家はなく、後鳥羽上皇の野望も北条政権に叩き潰され武家政権が世に定着していた時代(鎌倉政権内の争いは別にして)。一方で藤原定家は時流を味方につけたこともあってかつての不遇の時代をくぐり抜けて歌壇の第一人者の地位を得ていた時期でもある。

そんな状況下で彼は「機は熟した」とばかりに平行盛ならびに平家の名前を勅撰和歌集に収録する挙に踏み切ったのでしょうか。

なかなか粋なことをするじゃありませんか。

平行盛の名前を出して収録するにあたって上記の歌を選んだのも「平家のことを長く語り継がせるぞ」という意思表示もあったかも。

なお、鎌倉時代初期に成立した「建礼門院右京大夫」においてはその最後の場面で作者の建礼門院右京大夫建礼門院徳子に女房として仕えていた人物)と藤原定家のやり取りが収録されているのですが、ここでの藤原定家の振る舞いも実に粋なものでちょっと感動します。

講談社学術文庫から全訳注が出ております。↓はアマゾンのページ

「建礼門院右京大夫集 全訳注」

鎌倉時代に入ってから登場した平安女流文学の掉尾を飾る最高傑作の一つ、と言い切ってしまいましょう。ぜひご一読あれ。

2.能楽「忠度」と「定家」

ともあれ、どうやら藤原定家は思いやりのある粋な振る舞いができる人物だったようです。彼の日記「明月記」の内容などから「ちょっと気難しくて付き合いにくそう」なんて評価も見られますが、なかなかどうして、美点と欠点を併せ持った魅力的な男だったのかもしれません。

というわけで、冒頭の平忠度藤原俊成の話は事実とは言い難いわけですが、ここでひとつ問題があります。このエピソードを元に世阿弥能楽作品を作っています。その名もズバリ、「忠度」。

のような筋書き

www.the-noh.com

自分の歌が願望叶って勅撰和歌集の「千載集」に収録されたはいいものの、朝敵の立場を憚った俊成によって「よみ人知らず」として収録されてしまった忠度がその悔しさから化けて出てくる!🥶

そう、千載集においては忠度の歌もまた「よみ人知らず」として収録されていたのでした。

それが悔しくて化けて出てくる。和歌にかける昔の人たちの執念たるや恐るべし!ですねぇ。

この能楽作品では忠度ののもうひとつの代表歌

行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の 主ならまし”

の世界観も取り入れられているようです。とくに桜の木の下を宿に夜を過ごす主人公の前に忠度の霊が化けて出てくる部分に。

そしておそらくこの物語の背景には上記の平行盛「流れての 名だにも止まれ 行く水の あはれはかなき 身は消えぬとも」が意識されています。この歌にあるようななんとか後世に名前を残したい、という願望が「よみ人知らず」として収録されることで叶わなかったことで忠度は化けて出てくることになったのでしょう。

しかもこの話では忠度の霊が「千載集の歌に俺の名前を入れてくれと藤原定家に伝えてくれ」と主人公に伝えています。ですから世阿弥藤原定家平行盛をめぐるエピソードも知っていて、それをもとにこの作品を作り上げたと考えられます。

ちなみに平忠度も新勅撰集において「薩摩守忠度」の名前で1首、入選しています。新勅撰和歌集藤原定家を単独の選者として編まれたもの。となると定家はこの勅撰集を戦乱の時代を最終的に総括・集結させる意図もこめて編んだのかも知れません。もはや平氏も源氏も、朝敵もない。良い歌を詠んだ人物の名前はきちんと後世に残す、という意思とともに。

見方を変えれば、平行盛藤原定家によって千載集に「よみ人知らず」として収録された無念を新勅撰和歌集において解消してもらうことができた。だから平行盛は化けて出てくる理由がない。しかし忠度の方はそういったフォローがなかったので化けて出てくる余地がある。そんな話が作られちゃう!

よく「勝者は歴史を作り 敗者は文学(物語)をつくる」なんて言われますが、物言えぬ敗者は後世の人々によって「物語を作られちゃう」怖い面もあるみたいですねぇ。

この平”薩摩守”忠度さん、かつては「ただのり」の音からキセル乗車のことを「薩摩守」と呼んでいた、なんて経緯もあったりしてずいぶんと後世の人たちにイジられているキャラみたいですね。

こうして見ると昔の人たちにとって歌(和歌)とは読み手の魂がこめられた重要なものだったことが改めてうかがえると思います。これは単に「言霊」信仰だけで片付けられる話ではない、「言葉に神秘的な力が宿っている」だけではなくて、「言葉にそれを発した人の魂が宿っている」、それも一文字一文字、一音一音に宿っている、みたいな。なので一文字一文字、一音一音なりともないがしろにしようものなら恐ろしいことが起こる!

こうした考え方があったからこそ、藤原定家千載和歌集に収録された平行盛の歌を後に公表したのかもしれません。この名前の公表と、新しい勅撰和歌集にきちんと名前を記載してうえで別の歌の収録することが平行盛に対する一種の供養、鎮魂の儀式となっていたのか?

改めて、藤原定家に好感を抱きたくなるのですがいかがでしょうか。

このようにして藤原定家は実に粋な男である、と締めくくれればよいのですが、まだ話には続きがあります。

彼を主人公として作られた能楽作品もあるのです。その名も「定家」。↓のような内容です。

www.the-noh.com

金春禅竹作。驚くなかれ、なんと未練を抱えて死んだ定家が亡霊もどきの形でこの世に化けて出てくる!

定家が生前深く愛していた式子内親王(1149-1201)への妄執から葛(かずら/かづら。つる性植物の総称)と化して式子内親王の墓にまとわりつく。しかもそんな彼の妄執をテーマにした定家が主人公の話のはずなのに作品中には彼自身は登場しない。

言葉を発することもなく、姿も現さず、ただひたすら葛と化して式子内親王に絡みつき続ける…

怪奇小説みたいなよく出来た筋書きですよね。

この式子内親王歌人として有名ですが、あの以仁王のお姉さん、それも同母姉にあたります。賀茂斎院も勤めた経歴の持ち主ですが、朝廷内ではビミョーな立場だったらしく、なかなかに波乱に富んだ人生を送っています。は彼女のwikiページ

ja.wikipedia.org

このWikiページにも書かれていますが、藤原定家との男女の関係が二人の死後に取りざたされており、能楽の土台となった伝承が作り出されてまことしやかに語られていたようです。実際に恋愛関係にあったかどうかは定かではないようですが、それなりの親密な交際はあったらしい。式子内親王の方が定家よりも13歳年上。まるでクラシック音楽クララ・シューマンヨハネス・ブラームスの関係を連想させますね。

この能楽作品には2つのスポットが出てきます。ひとつは序盤に出てくる藤原定家の山荘「時雨亭」。彼が百人一首を編纂した場所とも言われており現在の嵐山エリアにあったとされていますが具体的な場所はよくわかっておらず、二尊院や常寂光寺などが「われこそが時雨亭の地である」と主張しております。

もうひとつは定家が化した葛がまとわりついていた式子内親王のお墓。こちらは彼女の墓所と伝わる塚が残されています。↓の画像。京都市上京区にある「般舟院陵(はんしゅういん/はんじゅういん)」。

これが入口

ご覧の通り天皇の一族の陵墓ですが、その敷地内、陵墓のすぐ脇にあります。あくまで伝承なので本当に式子内親王の墓がどうかはわかりませんが、伝承/能楽の舞台としての雰囲気は現在でも感じ取れる素敵な場所です。この陵墓そのものは豊臣秀吉の京都大改造(また出たよ!🤣)の際に現在の地に移転してきたものですが、この塚はそれ以前からあったそうです。

右手に見える塀の向こうが陵墓のエリアです。

石仏も置かれています

これが式子内親王の墓と伝わる五輪塔

ちょっとシャレた構図で撮影してみた!

訪れた時には茂みの奥にある式子内親王五輪塔を見ながら「ああ、ここに葛がまとわりついたのか」などとちょっぴりロマンに浸ることができました。

京都の隠れ(?)伝承スポットとして挙げておきたい。

3.新古今和歌集所収歌とつる性植物の恐怖!

話は少し変わって新古今和歌集。この歌集には藤原俊成式子内親王の歌が隣り合って収録されている箇所があります。第18巻「雑歌」収録。

まず俊成の歌は「崇徳院に百首歌たてまつりける、無常歌」の詞書つきで

世の中を 思ひつらねて ながむれば むなしき空に 消ゆる白雲”(1846

一方式子内親王の歌は「百首歌に」の詞書つきで

暮るるまも 待つべき世かは あだし野の 末葉の露に あらし立つなり”(1847

俊成の歌は「この世の中についてあれこれと思いにふけりながら空を見上げている間に白雲が虚空へと消えていく」みたいな感じでしょうか。

一方式子内親王はちょっと意訳が必要なのですが、基本的な歌意は「日が暮れるまでの短い間さえも待つことはできない世の中なのでしょうか。あだし野の草木に宿る露を吹き飛ばしてしまう嵐がやってこようとしている」といった感じ。

「あだし野(化野)」は有名な京都の葬送の地ですから、その草に宿る露も単なる水滴を意味しているのではないと思います。で「あらし(嵐)」も単なる自然現象ではないはず。なので「死んでいった人間があっという間に忘れ去られてしまうくらい慌ただしく変転していく無常な世の中ですね」みたいな意味がこめられているんだと思います。

 3-1.和歌から垣間見る無常観

間違いないのはどちらも「無常観」をテーマにした歌だと言うことです。無常観は仏教思想にも見られるものなので古くから日本人の心情に根付いていたと思うのですが、それが本格的に表面に出てくるようになるのはおそらく11世紀の末法思想を経て12世紀の武家の台頭と混乱の時代あたりだと思います。

なんだかんだありながらもいつまでも続くように思われた朝廷社会が本格的に動揺しはじめて、貴族たちが「この生活をいつまでも続けられるのか?」といった不安を深刻に抱えるようになったことで無常への意識が高まっていったのではないでしょうか。

この激動の時代は単に政治の中心が貴族から武士へと移り変わっていった政治史の面だけにとどまらず、日本の精神史においても重要な時代であったのでしょう。

この2つの歌はそんな当時の無常観が反映されているようにも思えます。式子内親王の歌にはほんの一時期時代の風雲児となりつつもあっという間に消えて忘れ去られていこうとしている弟の以仁王が意識されているのかも知れません。

そして俊成の歌は1150年に崇徳院に献上したものなのでまだ崇徳院は破滅には至っていないものの、すでに不穏な状況に突入していたと考えられる時期のもの。もしかしたら俊成はこの歌でもって「しょせん権力など束の間のはかないもの、無茶な考えは起こさないでください」となだめようとしていた…なんてことも考えたくなります。

で、平忠度は俊成から歌の指南を受けていたのですから、この歌を知っていた可能性が高い。しかも平家は政権を掌握していく過程で朝廷や貴族と深く関わったわけですから、無常観の概念もよく知っていたはず。

一方定家は新古今和歌集の選者ですから俊成の歌も、式子内親王の歌も当然知っていた。そもそも式子内親王の歌は上記のWikiページにも書かれていましたが1200年に後鳥羽院の求めで詠んで定家に見せた「百首歌」のうちの1首であると考えられます。

となれば、平忠度藤原定家能楽作品にあるような「死後に妄執に駆られて化けて出てくる」ような面は持ち合わせていなかった、と思いたいのですがいかがでしょうか? 

たとえ無念や未練を残しながら死に臨んだとしても「それも人生、仕方あるまい」と受け入れる人間であったと思いたい。

これは藤原俊成&定家の時代の「幽玄」の概念と世阿弥金春禅竹の時代の「幽玄」との違いといったテーマにも結びついてきそうで面白いのですが…

 3-2.つる性植物にご用心!

最後に、再び能楽「定家」について。じつはこの伝説をもとに名付けられたテイカカズラ(定家葛)なる品種もある! ↓はこの品種のWikiページ

ja.wikipedia.org

もし興味がありましたからこの品種の花言葉も調べてみてください。能楽「定家」の伝説を知った上で見ると猛烈に嘘くさく感じます(笑)

相模原市立博物館の職員ブログでこの恐怖の(?)品種について取り上げられていたのを見つけたのでリンクを貼っておきます

www.sagami-portal.com

このテイカカズラの葛(かずら/かづら)とは先述したようにつる性植物の総称で、そのサブジャンルとして「葛(くず)」という品種もいます。紛らわしいことこの上ないのですが、このクズは北米では大きな害をもたらす要注意植物と見なされているそうです。数年前に国立科学博物館で撮影した葛の模型とその説明板↓「Kudzu」が国際用語になってる!

おそらく昔の人たちはこうしたつる性植物の特性と怖さを知っていた。なので自然に対する知識も感受性も不足している現代のわれわれ以上に彼らは「定家」の筋書きにドロドロした面を感じ取っていたと思われます。逆に言えばわれわれがこの作品の真価を読み取るのが難しい。

歴史の難しくも面白いところといったところでしょうか。

そして前回ちょっと触れた安倍晴明の出生に絡む異類婚伝説の名前が「葛(くず)の葉伝説」。この伝説にもおそらくつる性植物のイメージが含まれている可能性が高い。この点に関してはいずれまた機会を改めて取り上げてみたいと思っています。

 

長文の内容をお読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできる範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

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葛の葉伝説が伝わる地、信太の森にて歌を鑑賞す ~源頼朝との意外なつながり

和泉なる 信太の森の 尼鷺(アマサギ)は

   もとの古枝に 立ち返るべし

By 源頼朝(1147-1199) from 古今著聞集

 

1.葛の葉伝説のルーツはいずこ?

上記の画像は安倍晴明にかかわる「葛の葉伝説」で知られる大阪府和泉市にある信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)。伝説ではこの地で安倍晴明の父親、安倍保名がキツネが化けた女性(葛の葉)と結ばれて生まれた子が安倍晴明、とされています。伝説的な安倍晴明の神秘の力は母親から受け継いだものである、みたいな典型的な異類婚の物語ですね。

ただこの物語と信太森葛葉神社に関してはよく知られている一方でさまざまな情報が錯綜して混乱している面もあるようです。そもそもこの伝説の舞台となった「信太の森」とはこの信太森葛葉稲荷神社ではなく、もう少し東南にある聖神社があるエリアで、現在でも森が史跡として残されているうえに資料館もあります。の画像

現地の説明板もご参照ください

は絵本作家にしてシンガーソングライターのイルカさん作。

が葛の葉伝説の資料を展示した資料館。小さいながらもなかなかに充実した内容。この伝説が好きな人なら必見…か?

で、がかつての葛の葉伝説&信仰の舞台と考えられている聖神社です。こちらは葛の葉伝説の痕跡がまったく見られませんが。

この聖神社にあったと考えられている葛の葉伝説ゆかりの稲荷神社が現在の信太森葛葉稲荷神社の地に勧請・移転されたことでわれわれが知る葛の葉伝説の形が最終的に定着することになったらしい。

信太森葛葉稲荷神社の地にはもともとは現在も境内にあるクスノキの巨樹を祀る神社・祠のようなものがあったらしく、いわばこの樹木信仰の祠が「庇を貸したら母屋を取られた」形で稲荷神社として広く知られるようになったことになります。

はその巨樹

しかも安倍晴明には茨城県(常陸の国)出身という伝説もあり、当地には「信太(しだ)」という地名も存在しており、現在でも大字で残されています。競馬好きの方には美浦トレセンがある地域のすぐ近く、といえば「OH!」となるでしょうか。

さらに茨城には葛の葉伝説と非常によく似た伝説を持つ「女化稲荷」という神社もあったりします。そのためなんとな~くもともと大阪の伝説が遠く茨城まで伝わった…という印象を持ってしまいがちなのですが、じつは話は逆らしい。まず茨城の地に安倍晴明と化けキツネにまつわる伝説があって、それが「信太」つながりで大阪の信太の森にこれが導入されることになった可能性が非常に高いようです。

そして葛の葉伝説と女化稲荷のそれとの類似も後者のほうが先、あるいは同時進行で形成されていったのが大きな理由として考えられる。

どうしても伝説・伝承において関西圏とその他の地域で類似の伝説・伝承があると前者がルーツでそれが各地に拡散していったような先入観を抱いてしまいがちですが、注意が必要みたいですね。

で、今回はこの葛の葉伝説の話でなく、冒頭で歌を挙げた源頼朝絡みの話がメインです。

2.源頼朝が信太の森を詠んだ歌

冒頭に挙げた歌、「和泉なる 信太の森の 尼鷺(アマサギ)は もとの古枝に 立ち返るべし」は源頼朝1195(建久6)年、2度目に上洛した年(彼が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようと画策した時ですね)に詠んだとされる歌です。

四天王寺を参拝した際にひとりのやせ衰えた尼が現れ、「先祖代々和泉の国で受け継いできた所領を他人に横領されてどうすることもできない状況です。そのため直訴しようと参りました」と頼朝に訴え出てきました。

その訴えを聞いた頼朝は彼女の訴えを正当なものと受け入れてこの歌を扇に書いて判を押したうえで尼に与えた。その後尼はこの扇を根拠に所領を取り戻すべく裁判に訴え出て無事勝訴することに成功したのでした。

こうした経緯を踏まえたうえでの歌意は「和泉国の信太森に棲息するアマサギが元のねぐらの古枝(上記のクスノキ)に戻ってくるように、そなたの所領も元に戻ってくるべきである」みたいな感じでしょうか。

これが歴史的な事実がどうか確実なところはわかりませんが、この歌が他人の創作だと疑う証拠もとくになさそう。少なくとも、こうした歌が詠まれるような状況が当時の頼朝や社会にあったと見ることはできると思います。

そうなるとこの歌からいろいろな面を見ることができると思います。まず…

 2-1.信太の森とはどこにあったのか?

まずの現地のマップをご確認ください

現在における葛の葉伝説の地、信太森葛葉稲荷神社(マップ上では信太森神社と表記)とかつての葛の葉伝説の地、聖神社との間にはちょいとばかし距離があります。そして先述のように伝説に登場する「信太の森」は後者の方ということになります。

なお、この地の信太の森に関しては清少納言が「枕草子」において「森はしのだ(信太)の森」と記していることがしばしば取り上げられますが、この「森は」と題された段は異文が多く、信太森が含まれていないバージョンもあります。なのでこの「森は信太森」は清少納言本人が書いたものではない、という可能性もあるので注意が必要かもしれません。

ただこの頼朝の歌にあるように、上記の現在信太森葛葉稲荷神社の境内にあるクスノキの巨樹(花山天皇が称えたことでも有名)があった地も「信太森」と呼ばれていた(少なくとも古今著聞集が編纂された13世紀には)ことがわかります。

となるとかつてこのあたりはかなり広い範囲に森が広がっていてそれが「信太の森」と総称されていたということでしょうか?

しかし江戸時代中期に葛葉稲荷神社(の元になった稲荷神社)が聖神社から現在の信太森葛葉稲荷神社へと移転した当時には開発が進んで現在のように別の森になっていたのか? それとも移転した後に開発が進んで別々になったのか?

 2-2.頼朝が握っていた権力の問題

鎌倉幕府のスタート年に関してはかつての「いい国作ろう」の1192年から「いい箱つくろう」の1185年へと変更されてこれが現在のところの一般的な定説となっているわけですが、鎌倉時代の統治体制については東日本は鎌倉幕府、西日本は朝廷が基本的に管轄する形でスタートしたとされています。

それを鎌倉幕府…というか北条政権がどんどん影響力を拡大していくのわけですが、この歌からは鎌倉時代初期の時点で頼朝が京都からもさほど遠くない大阪(和泉国)においても「ツルの一声」で所領問題を解決できてしまうほどの強い権力と影響力を持っていたことを示唆しています。

おそらく頼朝に直訴した尼が先祖代々所有していた土地は寄進地系荘園の類ではなかったかと推測されます。なので尼はいきなり頼朝に直訴したのではなく、おそらくまずは権力構造の上位にある荘園の領家や本所に訴えでたものの、まったく成果が上がらなかったために最後の手段として頼朝に直訴したのでしょう。

つまり、当時各地で伝統的な荘園の侵食(その犯人が必ずしも武士階級とは限らない)がすでに進んでおり、それを朝廷を頂点とした従来の統治システムが対処できない状況にあった。一方で東国に成立した新しい統治システムはトップダウンであっさりとこの問題を解決できるだけの力を持っていた。

たとえば藤原定家の「明月記」からは平家を失った後の朝廷の統治機能がほとんど機能しなくなっていた様子が垣間見られたりもするのですが、この歌からもそんな朝廷の残念な状況がうかがえるのではないでしょうか。

 2-3.女性の財産権の問題

この歌をめぐるエピソードからは女性が土地/所領を所有していた様子がうかがえます。上記の「明月記」からも当時の朝廷では女性が財産を相続・所有することができるだけでなく、自分の意志でその財産を処分することが可能だった様子が見られます。この尼もそのような環境のもとで財産を父親なり親族から受け継いでいたのでしょう(これが彼女の所領が寄進地系荘園と推測する根拠でもある)。

将軍が女性に対して所領を安堵するような形となるわけで、この歌は後代にはほとんど失われた所領安堵の形を伝える非常に貴重な記録になっているのではないでしょうか。

しかもこの歌を巡るエピソードからは女性の権力、ひいては地位が低下していく理由もうかがえると思います。女性が財産を所有し、処分する権利がどうして失われていったのか? それは武士団をはじめとしたさまざまな連中によって侵食・横領されていったから。

そして彼女たちがその土地を実力行使で奪っていく連中の脅威から財産を守るためにはどうすればいいのか? 朝廷の権門が頼りにならない以上、「毒をもって毒を制す」とばかりに武士の権威・武力に頼るほかなくなる。その結果女性の権利が武士社会の男性の論理に飲み込まれていく…

そんな当時の時代の変化もうかがえます。

 2-4.この地域を侵食していった勢力の存在

そしてもうひとつ、時代が下って鎌倉幕府が滅亡した際の大きな要因として「悪党」の存在がよく挙げられます。楠木正成がその代表としてよく挙げられるわけですが、そんな彼らのような既存の秩序を無視して勢力の拡大を目指す者たちの活動がすでに鎌倉時代初期の段階ではじまっていることをこの歌は示しています。

承久の乱においても荘園をめぐる朝廷と幕府の利害の対立があったわけですが、頼朝の時代から承久の乱の頃までには将軍や執権職の強大な権力でもってある程度コントロールすることができていたのが、鎌倉末期の北条政権にはできなくなっていた。

それはおそらく時の北条政権が無能だったからよりも、時代の変化とともに悪党の活動がより拡大・強大化していたのが大きな理由だと思われます。いずれにせよ、鎌倉時代がスタートした時点で破滅の種がまかれていたことがこの歌から推測することができそうです。

しかも、信太の森がある旧和泉国の地域と楠木正成の拠点とも言える赤坂城や千早城があったエリアはそれほどかけ離れているわけではない。となると頼朝の歌をめぐるエピソードに登場する尼の所領を侵食していた連中は鎌倉幕府の打倒に深く関与した「悪党」たちの遠い先祖である可能性も出てきます。

もっとも楠木正成の素性に関しては東国出身の得宗家被官の説もかなり有力なのでこの歌の時代には彼の一族はいなかった可能性が高いですが。

楠木正成の一族=得宗家被官説の根拠の一つとしてこの一族の地元に「楠木」という字は存在しない点がありますが(ちなみに気候上の理由で関東ではクスノキはあまり見られません)、もしかしたら、この地に移住してきた楠木正成の先祖が信太森にあるクスノキの霊木の神威にあやかって「楠木(楠)」と名乗ったのではあるまいか?

なんて妄想のひとつもしたくなります。

面白いのは吾妻鏡に頼朝が1190(建久元)年にはじめて上洛した際に「楠木四郎」という人物が同行していたことが記されていることです。となると歌が詠まれた1195年の上洛にも同行していたのではないか? 

もし頼朝が伝統的な所領を安堵した場に居合わせていた(かもしれない)この楠木四郎の子孫がのちにこの信太の森から遠からぬ河内国に移住・定住することになったのだとすれば、彼らがまさにそんな頼朝が築き上げた秩序を揺るがす活動を展開していったことになるわけで。しかもその子孫の一人によって頼朝が建てた鎌倉幕府が打倒されたのだとすれば、なかなかに面白い歴史のめぐり合わせですね。

 

お読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできる範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

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新年のご挨拶&狐火や古典文学の笑える説話についてなど

あけましておめでとうございます。

年の瀬も迫ったころになって急に年賀イラストを描きたくなって作業を開始、予期せぬ年末進行(?)突入して年の瀬の雰囲気を味わう余裕もなくあっという間に年が明けてしまいました。

で、なんとか描きあげたのが↓の絵。

この絵のためにわたくしの年末が消えたのでした(笑)

「かわいい笑顔と必殺技で世の悪を爆殺!」

これぞ魔法少女と特撮ヒーローの華麗なる融合…

...これは新年の初日の出に宿るめでた~い太陽光エネルギーを封じ込めた羽子板の玉が敵の体内にめりこむとそのエネルギーを放射、エネルギーが火花となって体外にあふれ出るほど大量に注ぎ込まれつつ内部から破壊、爆殺するという新年にふさわしいめでた~い必殺技である。

「こいつなに言ってんだ?」と思った方にはは論より証拠、↓の仮面ライダーBLACK RXの必殺技、リボルクラッシュをご覧いただきたい。

youtu.be

あ、それから右の「リンク」の部分にワタクシのPixiv(画像投稿サイト)のページを貼り付けましたのでもしよかったらご覧ください。

英語版も作ってみた!

大混乱な世の中ですが、なんとかよい環境・よい世界をわれわれの手で築き上げていこうではありませんか!

というわけで、初詣には東京都北区の王子稲荷神社へ行ってきました。本神社では毎年正月三が日に江戸時代に描かれたなかなか素敵な絵馬が公開されているというのでそれを鑑賞するのも大きな目的でした…が!

なんと公開していませんでした。北区の観光ホームページにも公開されているって書いてあったのに! 新年早々ズッコケでした。

どんな絵馬かと言いますとですねぇ、現地に説明板があります。

酒呑童子伝説に登場する源頼光四天王の一角、渡辺綱茨木童子と対決する伝説のワンシーンを描いた巨大な絵馬です。

渡辺綱茨木童子と対決、北野天満宮所蔵で知られる伝家の宝刀「鬼切丸(別名髭切)」で鬼の腕を切り落とすことに成功したものの、茨木童子渡辺綱の伯母に化けて彼に接近、彼が騙された隙をついて腕を奪い返す…

その鬼女に化けた茨木童子が腕を取り返したシーンを描いたものです。

この説明板によれば江戸時代に砂糖商人の同業組合(現存するらしい!)が商権の拡大を願って奉納した、とありますが、具体的には当時彼らが失っていたビジネス上の既得権益を取り戻すのを願って奉納したらしい。自分たちを鬼(鬼女)に見立てて腕ならぬ利権を取り戻せるよう神に祈る…

なかなかに大胆な試みではありませんか!

説明板には「毎年2月の初午・二ノ午のみ公開」と書かれています。約1ヶ月後か…それまでに完全に消失したやる気が復活するかどうか(苦笑)

絵馬の代わりに北野天満宮所蔵の「鬼切丸」を載せます。公開時には撮影OKという親切設定。

は王子稲荷神社。

個人的に大のお気に入りなキツネ像

みんないい面構えしてます!

この神社は幼稚園を経営しているらしく、正門は幼稚園の敷地内にあります。なので平日は正門から入れず拝殿向かって左手にある別の入口から入ることになります。今の御時世、正門から写真を撮影しようと試みるだけでも不審者扱いされかねません。

わたくし、今回はじめて正門から入った気がします。

なお、おそらく王子稲荷神社の絵馬の題材に関しては砂糖商人たちの思惑だけでなく、渡辺綱の出自とも関係していると思います。彼は関西のイメージが強いですが出身は関東の武蔵の国。かつては北足立郡箕田村(みだむら)と呼ばれていた地で出生したと考えられています。現在の埼玉県北部に位置する鴻巣市

江戸時代にはおそらくこの渡辺綱の出自が江戸の人たちの間でけっこう知られており、「武蔵のヒーロー」みたいな位置づけにあったのかもしれません。そんな渡辺綱の評判を土台にしたうえで砂糖組合の人たちは彼の伝説にまつわる構図の絵馬を奉納した、と。

この渡辺綱をはじめとした源頼光&四天王の出自については以前に投稿したことがあります。↓の投稿。ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

この投稿と重複しますが、源頼光の一族「多田源氏」はかつての摂津国の多田の地、現在の兵庫県川西市を拠点としており、京の都から見た西における「異界との境界」を守護する役割を担っていたと考えられます。

また四天王のうち金太郎伝説でもおなじみの坂田公時足柄峠碓井貞光碓氷峠と、それぞれ東国との境界線と見なされていた場所と縁があります。そして渡辺綱は武蔵の国、平将門に代表される朝廷に弓を引いた「異形のモノたち(朝廷の人たちから見て)」が住む地域。

そのため酒呑童子伝説とは「夷をもって夷を征する」的な考えを土台にして成立していると考えることができそうです。そもそも源頼光に代表される朝廷に出仕していた武士たちそのものが朝廷の貴族たちにとっては「異形の連中」だったのでしょうし、それが後の「征夷大将軍」という称号へとつながっていくのでしょう。

となると気になるのが四天王の残りひとり、卜部季武の存在です。四天王のうち彼だけ東国と縁がないというのもちょっと「?」な感じ。

この卜部氏は名前からして占いに従事してきた一族で平安時代前期から活動が見られます。中世になると吉田神道創始者吉田兼倶(1435-1511)や「徒然草」の著者としておなじみの吉田(卜部)兼好などを輩出しますが、この一族には大きく3つの系統、伊豆卜部氏、壱岐卜部氏、対馬卜部氏の系統が見られます。

伊豆、壱岐対馬のいずれも朝廷から見た異界との境界線(もしくは異界そのもの)を思わせる立地にありますが、おそらく卜部季武は伊豆のイメージから四天王に名前を連ねることになったのではないでしょうか(彼自身は実際に伊豆と縁がなかったようですが。そもそも坂田公時などは実在したかどうかも定かではないわけで。あくまで伝説における縁の話)。

さらに推測を重ねると現千葉県の安房国は卜部氏とともに朝廷の占いを司ってきた忌部氏と縁が深いエリア。現地の寺社には阿波国(おなじ「あわ」)の忌部氏紀伊半島から伊豆半島を経て房総半島に上陸した、という創建縁起も見られます。

そして房総半島といえば日本神話でヤマトタケルノミコト三浦半島から海を渡って上陸しようとしたものの大苦戦を強いられた地。そして平安末期には石橋山の戦いで惨敗を喫した源頼朝が逃れて再起を期した地。つまり中央権力の手が行き届きにくい「異界」の地。

ちなみにヤマトタケルと房総半島についても以前取り上げたことがあります。の投稿。ご一読いただければ幸いです。

aizenmaiden.hatenablog.com

なのでもしかしたら酒呑童子伝説を作り上げた人たち/語り継いだ人たちのなかで「卜部」と「忌部」が混同したか、「本当は忌部氏の人物がいいんだけど、適当なのがいないから卜部にしとこうか」とばかりに卜部季武が選ばれた…みたいな経緯があったのかもしれません。

これは完全な推測(妄想?)に過ぎませんが、少なくとも卜部季武もまた「夷をもって夷を制す」のコンセプトに乗っ取って選ばれた人物である可能性はとても高いと思います。

せっかくなので茨木童子に関連したヘヴィメタルの作品も紹介しておきましょう。アメリカのバンド、TRIVIUM(トリヴィアム)のリーダーにして日米ハーフ(山口県岩国市生まれ)のマシュー・キイチ・ヒーフィーによるブラックメタルプロジェクト、その名も「IBARAKI」。下のCD↓ タイトルは「Rashomon(羅生門)」。

これは全面的に日本を題材とした作品となっておりまして、「Ibaraki-Dōji(茨木童子)」とか「Susanoo no Mikito(須佐之男)」とか、「Kagutsuchi(迦具土)」とか、歴史・伝説好きの日本人なら「オッ?」と反応すること間違いなしの曲がズラ~り。

茨木童子渡辺綱との遭遇&対決の場所は一応オリジナルとされる一条戻橋バージョンと、後に能楽などで採用された羅生門バージョンがありますが、このアルバムでは後者が採用されていることになりますね。

はアルバム収録曲、室町時代に実在したとも言われる伝説的な遊女、地獄太夫を歌った「Jigoku-Dayū地獄太夫」。ブラックメタルは苦手、という人でも聴ける!...かもしれない。そもそもヘヴィメタルに興味がない方にとっては「ブラックメタルってなに?」でしょうが(笑)

youtu.be

さて、ここで話を東京に戻して王子稲荷神社がある王子エリアについて。この神社の近くには「装束稲荷神社」という神社もあります。

小さな神社なのですが、ここはヒジョーに有名な浮世絵の舞台となっております。歌川広重の「名所江戸百景」のひとつ、「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」です。

おそらく多くの方がなにかしらの形でこの作品を見たことがあると思いますが、先月東京国立博物館を訪れたら展示されていましたのでそれをご紹介

残念ながら現在の王子エリアにこの絵に描かれているような神秘的な雰囲気はほとんど残っていませんが…かろうじて桜の名所で知られる飛鳥山公園にちょっとだけ残っているくらいでしょうか。

この浮世絵に描かれているタイトルにもなっている榎(えのき)もすでに切り倒されて石碑が建てられているのみ。

近代化の功罪ってところでしょうか。

でのこの狐火ですが、各地で伝説が伝わっているもののルーツはよくわかっていないようです。どうして狐の体やその近くで火が灯されているのか?そもそも熱くないのか?(笑)

この狐火のルーツに関してはちょっと面白い資料(?)があります。これも有名な鳥獣戯画1213世紀作?)のワンシーン。です。

キツネの尻尾に火がついている!

どうもこれが狐火を連想させるビジュアルイメージのなかでももっとも古いもののひとつらしい。

もともとキツネは火事と関わりがある霊獣と考えられていたフシがあり、火事を予兆するために人間の前に姿を現す、といった説話も見られます。そして13世紀に編纂された説話集「宇治拾遺物語」にはそんなキツネと火の関係をうかがわせる話も収録されています。↓のような内容。巻3-20 タイトルは「狐、家に火付くる事

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今は昔のお話、甲斐の国のとある侍が夕暮れどきに馬に乗って帰宅途中にキツネと遭遇しました。不届き者なこの侍はそのキツネを追いかけて馬上から引き目の矢(鏑矢の一種)で射かけるとそれがキツネの腰に命中し、キツネは痛みに苦しみもがきながら草むらへと姿を消しました。

侍は地面に落ちていた矢を拾い上げて家路を急ぎますが、その前方に再びキツネが姿をあらわしました。もう1回射てやれと思った侍ですが、その前にキツネはこつ然と姿を消してしまいました。

家路を進んであともう少しというところで再びキツネが男の200メートル(2町)ほど前方で姿を現したかと思うと火を口に咥えた姿で走りはじめました。侍は「火を咥えて走るなんてどういうことなんだ?」と不審に思いつつ馬を走らせて追いかけましたが、キツネは先に侍の家にたどり着くなり人間の姿に変身、その姿で家に火をつけはじめました。

慌てた男は「人が家に火をつけたのか!」と矢をつがえつつ馬を急がせましたが、その人物は火をつけきってしまうや再びキツネの姿に戻り、そのまま草むらの中へと姿を消したのでした。

そんなわけで家は全焼。

このようにキツネのような動物であってもかならず仇返しをするものである。ゆえにこのように動物をいためつけてはいけないのだ。

めでたしめでたし(?)

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弱いものいじめをする人間への動物の復讐譚ですが、なかなかおもしろい内容になっていますね。キツネが火をつけるだけでなく、わざわざ人間に化けて火を付ける。

上記の歌川広重の浮世絵に伝わる伝説では毎年大晦日に狐火を伴ったキツネたちが現在の装束稲荷神社がある地で衣装を整えて(人間に化けて?)王子稲荷神社へと出向いていたという筋書きになっています。ここからは上記の説話にある「火を持ったキツネが人間に化ける」という構図を連想させます。

しかも不届き者の侍が放った矢は「引き目(蟇目)の矢」というのもなかなかに面白い。鏑矢は現在でも神社での魔除けの神事で使われますが、この引き目の矢もそうした意味合いを持っていた可能性もある(犬追物などに使う狩猟用の引き目の矢かもしれませんが)。もしそうならこの侍は単に不届きな男だったのではなく、キツネが怪しい霊獣だと見たうえで追い払おうとしたのかもしれません。しかし神獣でもあるキツネに矢を引くなどとんでもない不届きな行為(つまり道徳的にではなく信仰面において)のため、かえってバチがあたって家を焼かれる羽目になった…のかも。

シンプルな内容の話ですが、意外に奥が深い面を持ち合わせているのかも知れませんね。

ここでなぜ宇治拾遺物語の説話を取り上げたのかといいますと、この説話集の著者&編者と目される源隆国(この説話集の元ネタであった宇治大納言物語の著者。1004-1077)と、かつて鳥獣戯画の作者の有力候補とも目されていた鳥羽僧正こと覚猷1053-1140)は親子の関係にあるからです。

となると、鳥獣戯画に見られるキツネ&炎の構図と、宇治拾遺物語に収録されたキツネが家に火をつける話との間には関係がある可能性も出てきます。少なくとも、鳥羽僧正は宇治拾遺物語の説話を知っていた可能性が十分に考えられます。この話を参考に彼は尻尾に火をつけたキツネを描いたのか?

というか、逆に後世の人達はこの両者のつながりから連想して彼を鳥獣戯画の作者と見立てたのではないか?

この宇治拾遺物語は上記の源隆国著&編による宇治大納言物語のアウトテイク集みたいな作品だろうと考えられています(なのでタイトルも「拾遺」)。もしかしたら、本編たる宇治大納言物語にはもっと狐火と鳥羽僧正とのつながりを連想させるような説話が収録されていた可能性だってあるかもしれない!

そんな両者のつながりをうかがわせるような説話も宇治拾遺物語に収録されています。そう、源隆国は息子(たち)のエピソードも記録に残していました。

しかも収録されている説話はものすっごくバカバカしい内容。一読の価値ありありなのでご紹介したい。3-5「鳥羽僧正、国俊と戯れの事」

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今は昔のこと、大僧正覚猷というえら~いお坊さんがいました。ある日、彼の兄にあたる陸奥国の前司の国俊が訪れ、「参上いたしました」と告げました。すると取次の者が「すぐにお会いしましょう。しばらくお待ち下さい」と伝言を寄越してきたので待つことにしました。

しかし待てども一向に覚猷は姿を見せません。四時間ほども待っていたところで国俊もそろそろ堪忍袋の緒がキレて帰宅することにしました。そこで連れてきた下男に「おい、帰るぞ、靴を持ってきて牛車を用意しろ」と命じるとこの下男は驚くような答を返してきました。

なんと国俊が乗ってきた牛車を覚猷が勝手に乗って外出していたのです。しかも下男には「彼には少し待っていてと伝えてくれ。2時間位で帰るから」と命じたうえで。

「バカ、なんでそのときに俺に言わないんだよ」と国俊が責めると下男は「お二人は親しい間柄だと思いましたので。それの僧正さまは「じゃあ頼んだぞ」とおっしゃるなり出かけてしまったのでどうしようもありませんでした」との返答。

「くそ、やられた!」と思った国俊は反撃に出ることにしました。

ところで、この覚猷にはちょっと奇妙な習慣がありました。いつも入浴の際には浴槽に細かく切った藁をふかふかになるくらいたっぷりと入れ、そのうえに筵をしいたうえで「えさい、かさい、とりふすま!」と叫びながら飛び込んで仰向けに横たわるというものです。

この習慣を知っていた国俊は一計を案じました。覚猷の浴槽を確認してみると実際に筵が敷いてあり、それをめくるとたっぷりの藁が敷き詰められていたので彼はまずその藁をすべて取り除いてお風呂場の垂れ布で包みました。そして藁の代わりに囲碁盤を裏返しにして置いたうえでそこに筵を被せてカモフラージュして一見何もおかしいところはないように取り繕ったのです。

それからさらに4時間ほど経過してようやく覚猷は戻ってきました。牛車から下りた覚猷と入れ違いになる形で国俊はそれに乗って帰宅すると牛飼童に例の藁を包んで入れた垂れ布を渡して「この牛に食わせてやれ」と命じたのでした。

一方帰宅した覚猷は疲れを癒やすべくお風呂場へ向かい、着物を脱ぐのももどかしい勢いで「えさい、かさい、とりふすま」と雄叫びを上げながら湯船に飛び込みました。しかしそこに待ち受けていたのはやわらかい藁ではなく裏返しになった囲碁盤。

軽やかにダイブし仰向けに浴槽に着地した彼は囲碁盤の角の部分に尾骨を強打。あまりの激痛に反り返って倒れたまま死んだようになってしまいました。家中の者たちがなかなかお風呂場から出てこないのを不審に思い様子をうかがってみると半死半生の彼を発見、声をかけてみても返事がないので顔に水をかけてみるとようやく息も絶え絶えの状態でもごもごとよくわからないことを口走ったのでした。

このいたずらは、ちょっとやりすぎではないだろうか。

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いかがでしょうか。すばらしくバカバカしい話で新春初笑いにもピッタリ?(最後の著者によるツッコミもじつにクール!)

鳥羽僧正がダイブする時の掛け声「えさい、かさい、とりふすま」が意味不明で諸説あります。「とりふすま」は鳥の羽毛で作られた現在で言う羽布団のようなものらしい。そして「えさい、かさい」は「一切合切」の意味という説があります。なので超訳を承知で訳してみると「なんでもかんでもふかふか布団!」とか「なにはなくともとふかふか布団!」みたいな感じになるのでしょうか。

ただこの説話に見られる覚猷の言動からしてかなり本能の赴くままに生きていた人物らしく思えるのでそもそも意味なんかなくて、単に口に出して言うと気持ちいいから言ってただけ、という可能性もありそうです。っていうかこっちのほうがありそう。

ヘヴィメタルファンの挨拶、「Up The Irons!」みたいな感じ? 言ってみてなんとなく様になっていればそれでOKみたいな。

あるいはアントニオ猪木のテーマ曲、「イノキボンバイエ(INOKI Bon-Ba-Ye)」みたいな感じでしょうか。この言葉と曲を知っていても意味まで知っている人はあまりいません。でも何の問題もない。イノキボンバイエという言葉はイノキボンバイエという意味なのだ!みたいな。

まあ行動そのものが意味不明なので言葉の意味が判明したところでなんの足しにもならない気もしますが(笑)

それにしても最後は強烈な展開ですねぇ。スタンディングのライブハウスでステージに乱入した客がステージダイブを敢行したけど誰も支えてくれなくて床に顔面を強打しちゃった、みたいな感じでしょうか()

なお、この鳥羽僧正の奇癖ですが、最初にこの彼の習慣を説明する部分の文章では「湯船にダイブして着地してから仰向けになる」の意味でとれるのですが、後半で実際に鳥羽僧正が実践する部分ではこの意味だけでなく「ダイブして仰向けに横たわる(着地する)」という意味にも読めるんです。最初から尻から飛び込んで着地する形。尾骨を強打して死んだような状態に陥った(笑)状況を考えると後者かな、と判断しました。

いずれにせよ、いい歳こいた地位の高い坊さんがやっているポーズを連想するだけでも楽しい。

そんなわけで、兄を相手にバカバカしいいたずらを仕掛ける偉~い大僧正、それに対してバカバカしくも凶悪な仕返しをする兄、そしてそのエピソードを記録に残す父親…

なんなんだ? この一族は? 

そんなツッコミはおそらく昔からあって、それが宇治拾遺のキツネのエピソードと鳥獣戯画、そして鳥羽僧正とを結びつけ、「楽しいユニークな鳥獣戯画の作者=笑えるおっさん鳥羽僧正」が生み出された要因になったのではないか? そんな妄想を繰り広げたくなるのですかいかがでしょうか?

ちなみに鳥羽僧正の伯母にして源隆国の姉には日記&歌集の「成尋阿闍梨母集」の作者として知られる成尋阿闍梨などもいたりします。男性陣はヘンな奴らばっかりだったのに対して女性陣は真面目で優秀な一族だったのかもしれません。

最後に、王子エリアの名前について。この王子とはどこかの王族のプリンスのことではなく、熊野信仰の若王子(若一王子)のことです。この地に若一王子が勧請された(現在の王子神社)ことで「王子」という地名になったと考えられています。

京都には哲学の道の近くに「熊野若王子神社」があります。むかしはこの神を祀った神社がもっとたくさんあったのでしょう

の画像は東京国立博物館で撮影した「熊野曼荼羅

状態が良くないのでちょっと見づらいですが、童子にも女の子にも見える↓が「若王子」。左端に漢字で名前が書かれているのが確認できますでしょうか?

東京には「隠れ熊野信仰」とも言うべき痕跡がいくつか見られます。いずれそれらも取り上げることができたらな、と思っております。

というわけで、2025年がみなさんにとって良い年になりますように!

 

今回は正月のお雑煮のようにごった煮な内容でお送りしましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。今年も最後に恒例の😄わたくしがKindleで出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱりできる範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

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ここのブログにおける普段の投稿と同路線、「神・仏・妖かしの世界」を舞台にした創作小説(おもに怪奇・幻想・伝奇・ファンタジー系)です。もしご購読いただければ光栄至極にして御座候。

今月中に新作を出したいと思っているのですが…どうかなぁ。

 

 

 

中世のヘンテコ説話からかつての日本人の信仰世界と世界観を覗き見る ~京都・五条エリア

1.宇治拾遺物語」にあるちょいとおもしろい説話

京都市の中心部、五条駅周辺の五条エリアには五條天神社という神社があります。「天使の宮」などとも言われていて京都市内(洛中)でももっとも古い神社の一つ、らしい。名前が「天神社」ではありますが、主祭神は菅原”天神さま”道真ではなくスクナビコナノミコト(少彦名命)、ほかにオオナムチノミコト(大己貴命)アマテラスオオミカミが祀られています。↓はその五條天神社で撮影した画像です。

菅原道真の神号は「天満大自在天」。天神(あまつかみ)の中での最高ランクの神、みたいな意味なので、ほかの天神を祀っている天神社もある。このような天神社は現在ではもっぱらこの神社と同じスクナビコナ主祭神となっているようで、わたくしのような東国人は東京の上野公園にある五條天神社を思い浮かべたりします。

そんな五条エリアの五條天神社とも関連がある面白い説話が「宇治拾遺物語」(13世紀)に収録されています。

タイトルがちょいと長いですが「道命阿闍梨和泉式部の許(もと)に於いて読経し、五条の道祖神聴聞の事」。以下のような内容です

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昔々、道命阿闍梨という色好みの僧がいました。女遊びが大好きな破戒僧にもかかわらず読経が大変上手だった彼はあの女流歌人和泉式部とイイ関係になってしばしば彼女のもとに通っていました。

そんな彼女とメイクラブを楽しんだある夜。ことを終えて一眠りしていた彼はふと夜中に目を覚ましてしまい法華経の読経をすることにしました。時も忘れてどれだけの間読経を続けていたでしょうか、いつしか明け方近くになり、さすがの彼もうとうとしかけたところにふと人の気配を感じました。

そこでその気配に向けて「お前は誰だ?」と問いかけてみると「わたしは五条西洞院のあたりに住んでいる翁でございます」と答が返ってきます。「いったいどうしたことだ、なんでこんなところに現れたのだ」と再び問いますと「あなたのお経を今宵拝聴することができてのがとても嬉しく、一生忘れられない喜びにひたっております」と翁は言います。

この答を不審に思った道命は「オレが法華経を読むのはいつものこと、どうして今回に限ってそんなことを言うんだ?」とさらに問いかけてみました。すると翁は言いました。

「いつもあなたが清い身で読経なさるときには梵天帝釈天など高貴な神々が聴くのでわたしのような身分の低い身は近くで拝聴することができません。しかし今宵あなたは身を清めることなく読経なさいましたので梵天帝釈天は聴くこともなく、わたしはおそばで聴くことができたのでした。それがとても嬉しく喜ばしいのです」

このエピソードは良い教訓である。軽い気持ちで読経する際にも必ず身を清めなければならないのである。

めでたしめでたし

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バカバカしい話なのに最後だけ説教臭くまとめていかにも教訓話らしく装っているなかなかに素敵なお話。宇治拾遺物語にはこの手のちょっとバカバカしくてへんな話が非常に多くて目を離せません(笑) しかもこの話が宇治拾遺物語の第1話。「いきなりこんな話かよ!」とツッコミを入れつつの読書体験。

これまで何度か投稿において和泉式部を取り上げてきましたが、このエピソードでこれまで築き上げてきた彼女のイメージが台無しになる勢い😅。色好みで紫式部からも「身持ちが良くない」などと批判された和泉式部の面目躍如?… ちなみに和泉式部道命阿闍梨974-1020)の間に実際にこうしたセクシーな関係があったことを示すはっきりとした根拠はないらしく(ただし交流はあったらしい)、もっぱら説話・伝説の世界で語られている関係のようです。

なお、この道命阿闍梨の父親は藤原道綱。この道綱は藤原兼家の次男、つまり藤原道長のお兄さんにあたります。そして母親は「蜻蛉日記」の作者、そのまんま「藤原道綱母」とも「藤原倫寧(ともやす)娘」とも呼ばれる女性。

この藤原道綱母の姉妹の娘(つまり姪)が「更級日記」の著者、「菅原孝標の娘」、そして兄弟の理能(まさとう)の妻が清少納言の姉妹。

さらにさらに彼女の姉妹の夫(藤原為雅(ためまさ))の兄弟の娘の娘(つまり孫)が紫式部

こうしてみると当時の女流作家/歌人たちの多くが親戚/姻戚関係でつながっている。なんのかんの言って狭い世界ですね。

この藤原道綱はどうも凡庸な人物だったらしく、当時の貴族たちからバカにされていた様子が記録に残されていますが、血統が良いこともあってから源頼光の婿になっていたりします。

21世紀に入る頃から安倍晴明ブームが起こった影響でこの人物を祀った晴明神社がすっかり京都を代表する観光スポットになりつつありますが、頼光の婿になったことで道綱は頼光の邸宅もあった現在の晴明神社の近くで暮らしていたようです。もしかしたら安倍晴明とも近所付き合いしていたかも(安倍晴明の居宅の所在地は現在の晴明神社とは少しズレていますが)。

で、道命阿闍梨の母親は頼光の娘ではなくて源雅信の娘。彼女は藤原道長正室、倫子の姉妹でもある。

婚姻・血縁関係が複雑になってきたのでこれくらいにしておきますが(笑)、この道命阿闍梨、単なる色好みの破戒僧だったわけではなく、花山天皇と親しい関係があるなど政治にも関わっていた可能性もあるようです。興味がある方は↓のWikiページをご参照ください。

ja.wikipedia.org

四天王寺別当なども任じられていたそうで、ボンクラ扱いされた男の息子がなかなかの切れ者だった、というのも面白い話ですね。

 1-2.この説話に秘められた神仏の世界観

セックスをした後は身がケガレている状態だからちゃんと清めてから読経せよ! 言わんとすることはわかるような気がする一方でバカバカしい感想を禁じ得ないこの説話ですが、ここには昔の人々、少なくとも古代から中世にかけての日本人の神仏観が秘められていると考えられます。たとえば道祖神は神仏の世界では身分が低い扱いを受けていること、梵天帝釈天が高い地位にあることなどがこの話から見ることができますね。

じつはこれと似たような(でもまじめな)話が10世紀に成立したと考えられている説話集「三宝絵詞(もともと絵もあったが現在は散逸)」に収録されております。↓のような内容。

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山階寺(現興福寺)にて涅槃会が行われた翌日、とある童子熱田神宮の神さまが取り憑いてこの涅槃会を主催した僧侶に愚痴を並べたてました。

「せっかくあなたが貴い涅槃会を催すと聞いて訪れたのに梵天帝釈天に阻まれて聴聞することができなかった。どうなってるんだ? なんとかならんのか?」

この愚痴に応えてこの僧侶は改めて熱田の神のために法会を開催したのでした。

めでたしめでたし

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道祖神どころか三種の神器を祀った熱田神宮(愛知県)の神さまでさえありがた~い法会に参加することができない、しかもこの内容から明らかに梵天帝釈天よりもランクが低い神仏として扱われています。

そして宇治拾遺物語三宝絵詞の両方に梵天帝釈天が出てくることからかつての日本の信仰世界では梵天帝釈天が六道の世界(あるいは娑婆世界)、つまり人間が輪廻転生の範囲内で訪れることができる領域の管理者(または支配者)としての地位にあったらしいと想定することができます。

この娑婆世界の領域を超えてありがた~い仏の世界と接しようと思ったら梵天帝釈天の許可が必要、みたいな。

このあたりの世界観に関しては菅原道真が天神と化すエピソードを描いた「北野天神縁起絵巻」にも垣間見られます。藤原氏との政争に破れて太宰府に左遷された彼が自らの無実を山上(天拝山)から天に訴えかけるシーン(承久本の巻5に登場)において彼の願いは帝釈天梵天にまで達して受け入れられ、彼らの承認・支持を得たうえで「天満大自在天神」と化す、つまり神さまになります。

この点からも娑婆世界(現世)における人間の営みに関しては梵天帝釈天が管轄している、とかつての日本人は考えていたと見ることができそうです。

ここで京都の東寺にある立体曼荼羅を見てみましょう。は東寺の公式サイト。ページの下の方に立体曼荼羅の配置図が掲載されています。

toji.or.jp

イケメン仏像として名高い帝釈天も、梵天もごく端っこに位置を占めているに過ぎません。ちなみに↓は数年前に東京で東寺の特別展が開催した際に撮影したイケメン帝釈天。撮影可能なグッドな展示会でした。

人間はもちろんのこと、日本の神さまは総じて梵天帝釈天よりも下のランク。しかもこの2神(仏)さえも仏教の広大な世界では決して高いランクを与えられていない。

ここからは神秘の世界における恐ろしい階級社会が見て取れるようです。人間や伝統的な神々が梵天帝釈天よりも上の世界、阿弥陀如来や釈迦如来の浄土と接したかったら梵天帝釈天の許可が必要、さらに自らその世界にたどり着きたいと思ったら世俗の人間の身には無理、修行するなり功徳を積むなりして人間の枠を飛び越えなければならない。そんな厳しい壁があったのかもしれません。

仏教は現在でもランク分けがとても好きですが(鎌倉五山第◯位、とか)、そんな価値観が神仏習合本地垂迹思想の世界にも反映されていたのでしょうか。

こうした点を踏まえたうえで改めて東寺に訪れて立体曼荼羅を見ればその深淵にして壮大な面を楽しめるのではないでしょうか。

おそらくこの「立体曼荼羅」というのは平面で描かれた両界曼荼羅図に対して3次元で表現した曼荼羅世界、という現在における一般的な意味だけでなく、神仏の世界の深淵かつ壮大な立体的世界を表現した、という意味も含まれていたんじゃないか? とも思います。

そう、「ただ見るんじゃない、感じるんだ!Don’t just see, feel!)」 の世界(カンフーネタ。ちなみに某カンフースターの名言は曹洞宗の祖、道元が元ネタの可能性もアリ)。

ちなみに、江戸時代に遊郭として繁栄した吉原(現東京都台東区)はその当時「喜見城(きけんじょう)」と称されていたと言われています。この喜見城とは帝釈天が住む世界、忉利天(とうりてん)にある帝釈天の居城のことです。

吉原エリアが四方を堀に囲まれた城郭のような構造をしていたのでこの名前がつけられたのかもしれませんが、それだけでなく、帝釈天の世界が「欲望を抱えた人間がたどり着けるもっとも素晴らしい世界」という認識も背景にあったようにも思えます。帝釈天の世界よりもさらに上の世界は世俗の世界の人間にはたどり着けない、逆に言えば肉欲でたどり着けるの最高到達点は所詮娑婆世界の範囲内だよ、と。

現代の歴史用語としての「神仏習合」や「本地垂迹」では「神さまとは、仏さまがこの世に住むわたしたちの前に現れるために神の姿をとったもの」といった意味で説明されています。なので仏教のほうが優位だけれども、仏と神は同等の地位にある(だって仏が姿を変えたのが神なのですから)イメージがついてまわるわけですが、どうも実際の昔の日本人の信仰世界では違うらしい。

そしてその中でも宇治拾遺物語の説話に登場した道祖神はとくに下のランクに位置している神さまだった様子が話の内容からうかがえます。熱田神宮の神さまは僧侶に愚痴をこぼしながら要求しているのに対して道祖神は自分を卑下するような言い方をしてますから。

なぜ道祖神はランクが低いのか? 以前京都や福井でよく見られる「化粧地蔵」について取り上げたことがあります↓ よかったらご一読ください。

aizenmaiden.hatenablog.com

これら化粧地蔵は道祖神の一種である、みたいな内容です。道祖神はもともと「塞の神」とも呼ばれ、地域の境界において災いやケガレが内部に入ってくるのを防ぐ役割を担っています。となると、道祖神はそのケガレと接することになり、さらにはケガレを身に帯びることにもなる。

これがおそらく道祖神の神としての地位を低くしている理由だと思います。

五條天神社にも化粧地蔵があったりします

そしてこうした「ケガレが付着している道祖神の立ち位置はそのまま説話内の道命阿闍梨の状況、「イクラブを楽しんだばかりで身を清めていない状態」と結びつきます。

神仏と接するときには身を清めよ、さもなくば仏の世界とアクセスできないどころかランクの低い神が寄ってくるぞ」というのがこの説話の趣旨であり、かつての日本人の信仰/精神世界の基本概念だったのでしょう。

もうひとつ、道命阿闍梨について。彼の読経の素晴らしさは多くの人たちはもちろん、神仏をも感嘆させたようです。なんと熊野権現蔵王権現、松尾大明神、住吉大明神なども聴聞したとのこと。

この顔ぶれで気になるのはどれも「大明神」や「権現」といった「神さま」であることです(かなり仏教的な色彩を帯びた神とはいえ)。彼の優れた読経のスキルを持ってしても生身の立場で直接アクセスできるのは梵天帝釈天よりも下のランクの神々が限界だった、ということなのでしょうか。

この辺は複雑すぎてよくわからん。

2.かつての日本人の信仰/精神世界をさらに探ってみる

 2-1.浄土宗や修験道との関係

もう少し日本人の伝統的な信仰/精神世界を見ていきましょう。宇治拾遺物語で見られた概念は別の言い方をすることもできそうです。

たとえば「浄土行きや悟りを実現したいなら日頃から心身とも清らかな状態を心がけろ」とか、

煩悩にまみれた俗っぽい生活を送っていてはいつまで経っても高いレベルにたどり着けないぞ」とか、

さらには「いくら厳しい修行や功徳で高いレベルに達することができても心身を清める努力を怠るとたちまち転落するぞ」とか。

どうやらこれらの概念が日本のいろいろな信仰に大きな影響を与えている様子をさまざまな形で見ることができそうです。

例えば浄土宗。今年は法然による浄土宗の開宗から850年の記念イヤー(大々的に祝うにはちょっと微妙な数字だけど/笑)でしたが、彼が訴えた「念仏を唱えれば誰でも浄土に行ける」というコンセプトはこの伝統的な概念を完全に無視しています。身を清める必要もなければ、梵天帝釈天が待ち構えているハードルを気にする必要もなく、いとも簡単にはるか天上の高みにいるはずの阿弥陀如来と直接アクセスして浄土に行ける。

これはおそらく当時の価値観では現代の私たちが考えている以上に「とんでもない」考え方だったと思います。実際、旧仏教側からは「法然の一派は我が国の伝統的な神々をないがしろにしている」と厳しく批判されています。

逆に言えば法然はまさにこの伝統的な信仰/精神世界のしがらみから人々を解放するために専修念仏を訴えたのかもしれません。

そしてもうひとつ、修験道との関係も無視できません。修験道は基本的に女人禁制の世界、女人と接すると修行の妨げになるだけでなく、せっかく手に入れた験力を失ってしまう恐れがある。だから女人を遠ざけよ、と言われていました。

そのため、修験に入れ込んだ結果妻帯せず、子どもも作らずに跡継ぎのために養子を取った歴史上の有名人もいます。

そう、細川政元上杉謙信です。

しかもどちらも複数の養子をとった挙げ句死後に跡継ぎ争いが起こって家中・領内が大混乱に陥っています。とくに細川政元の方は甚大な悪影響を世にもたらしました。

本来、心の平安や死後の安息を求めるはずの伝統的な信仰/精神世界が戦乱の世をもたらす!

いや~恐ろしいですねぇ。

 2-2.五条の地に伝わる他の説話・伝説

宇治拾遺物語の説話に登場する道祖神と思われる神を祀った神社がじつは今でもあります。松原道祖神五條天神社から松原通りをちょっと東に行ったところにあります。

かつては五條天神社は現在よりもはるかに広い敷地を持っており、当時はこの松原道祖神もその敷地内にあった、とも言われています。

元は「五条の道祖神」。別名「首途(かどで)の社」が後述する源義経との関わり(首途八幡宮)をうかがわせて意味深ですね。明治の神仏分離以降、多くの道祖神の祭神がサルタヒコノミコトに変更されましたが、ここも同様でアメノウズメノミコトとセットで祀られています。

この松原道祖神社には道祖神の話とはまた違った面白い伝説が伝わっています。のような内容。

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今は昔、醍醐天皇の時代、この地には実がならない不思議な柿の大木がありました。ある日その木のうえになんと仏さまがまばゆい光を放ちながら出現し大騒ぎとなりました。

この仏さまは光を放ちながら花を周囲に降らせるなど見るからにありがた~いご様子。その話を聞きつけた多くの人たちが貴賤を問わず集まり、地域一帯が大変な賑わいとなったのでした。

しかしそんな騒ぎが起こってから1週間ほど経過したある日、源光(845-913)という人物がいかにも貴族にふさわしい装束を身にまとって現地を訪れました。彼はこの仏の出現を妖かしの仕業と疑っており、それを証明してやろうと考えていたのでした。

現地に訪れた彼はまさに木の上で仏が出現している様子を目の当たりにしましたが、その貴い様子を見ても心を動かさせることもなくじっと睨みつけはじめました。

瞬きすらほとんどせず、約2時間ほど睨んでいたでしょうか、急に仏さまが放っていた光が失われ、そこから鳶が姿を現しました。その鳶は翼が折れておりそのまま木から落下するとたちまち群がった子どもたちに打ち殺されてしまったのでした。

見事に妖かしを打ち破った源光は「本物のみ仏がこんな形で姿を現すものか。こんなものをありがたがって拝むなど愚かなことだ」と言い放ちながら立ち去っていきました。

この話を聞いた世の人々は彼を賢さに感嘆し称賛を惜しまなかったそうです。

めでたしめでたし

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これもまた変な話ですが、これは明らかに「天狗の偽来迎」のバリエーションです。天狗が信心深い人物(僧侶など)に阿弥陀如来が来迎するシーンを見せて騙す、という話。

一心に睨みつけると妖術を破ることができる、というこの話の内容は魑魅魍魎に悩まされる現代の我々にも役に立つ知恵かも知れません(?)。機会があれば実践してみよう!😆

そもそも道祖神とは先程も触れたようにある地域の境界に祀られる神さま、しかもこんな怪しい天狗もどきの妖怪も出現しているわけですから、この五条エリアはどうも怪しい「異界」の匂いがプンプン漂っているようにも思えます。

そして五條天神社はかの源義経と弁慶が出会った場所、と言われています。五條天神社の説明板。ちょっと見づらいですが。安倍晴明とも関係がある、なんて書かれていますね。

天狗と言えば天台宗比叡山とも縁が深いですし、弁慶も比叡山と関わりがある「異界の住民」じみた人物です。

そもそも義経からして天狗の「聖地」鞍馬で修行した人物ですし、いかにも二人が出会う場所としてこの五条はふさわしいのかもしれません。

この地には義経絡みの伝説がまだあります。

前に京都の北白川エリアを舞台に印地打ちについて投稿したことがあります。↓の投稿。もしよかったらご一読ください。

aizenmaiden.hatenablog.com

義経鬼一法眼という名前からしてちょっと妖怪じみた人物(法師陰陽師?)から秘蔵の兵法書を盗み出すためその娘をたぶらかすのですが(悪党!🤣)、それを察知した鬼一法眼が娘婿で北白川の「印地打ちの大将」と呼ばれていた湛海(たんかい)という人物に義経を襲わせます。その舞台となるのが他ならぬ五條天神社

の投稿でも紹介しましたが、大英博物館所蔵、歌川広重の「義経一代記 五条の社に牛若丸白河の湛海を討取」という作品です。

なお、源平合戦の際に熊野水軍を率いて義経に協力する熊野三山別当湛増(たんぞう。1130-1198)の父親の名前が「湛快(たんかい)」。湛海と読みが一緒。おそらくこれは偶然の一致ではないのでしょう。

熊野三山は父の湛快の頃には平家に協力していたのですが、源平合戦の際に子の湛増が源氏方に協力することに決めて(ただし熊野三山の間でも意見が分かれて平家方に協力する者たちもいた)見事勝ち組に乗ることに成功した…という歴史がこの「印地打ちの大将」の伝説が作られる際に影響を及ぼしたのかも知れません。

五条天神にせよ、↑の投稿で取り上げた北白川天神社にせよ、どちらも菅原道真ではない天神を祀った神社ですから、天神社系の神社で活動する神人(じにん)をはじめとした下級聖職者の活躍(暗躍?)が京都中心部における源義経を巡る伝説の下敷きになっている可能性もありそうです。

さらにさらに、この五条の中心、五条駅から徒歩数分のところには北野天満宮の前身にあたる「文子天満宮」や菅原道真の邸宅跡とも言われる地に建つ「菅大臣神社」などもある。つまり菅原道真信仰の震源でもある。

は文子天満宮北野天満宮の境内にも摂社として同じ名前の神社があります。

は菅大臣神社。

まさに京都の中心にポッカリと空いたダークゾーン、不用意に足を踏み入れると恐ろしいことが起こる…?

なお、先程の松原道祖神社の伝説ですが、じつは「めでたしめでたし」では終わりません。主人公の源光は史実において鷹狩で馬を走らせている途中に泥沼にはまって溺死するという驚くべき死に方をします。しかも沼に沈んでしまったのか死体も発見されなかったらしい。

まるでデンマークの泥炭地で発見されるミイラを思わせる話ですが、どうも当時の人達はこの奇怪な死に方に対して道真の怨霊の仕業ではないか、と噂したそうな。どうも源光は道真失脚に一枚噛んでいたらしい。

恐ろしいですねぇ~😱

デンマークのミイラに興味がある方はナショナルジオグラフィックの記事をご参照ください。

natgeo.nikkeibp.co.jp

もしかしたら、いつか源光のミイラと化した遺体が発見されるかも!🤣

そんなわけで、宇治拾遺物語のエロ話(?)からずいぶん遠いところまで来ましたが、最後にもうひとつ。

かように京の都のダークゾーンとも言うべき五条エリアですが、戦国時代の終焉後に豊臣秀吉によって大ナタが振るわれます。京都大改造(復興でもあり)の一環として彼の手で五條天神社の境内を突き通す形で新たに道が作られたと言われており、五條天神社の別名の天使社を貫いたことから通りを「天使突抜通」と呼ぶようになったとか。

しかも現在でもこのけったいな名前が残されているほか、地名にもなっております。

いわば異界への境界をぶちぬいて扉を開いてしまったようなもので、これによって異界の住民たちを京都に解き放ってしまったのではないか?

あるいは、自分たちの世界を壊された異界の住民たちの怒りを秀吉が一身に受けることになったのではないか? それが豊臣家の滅亡を引き起こしたのかも…

なんて考えるのもちょいと不謹慎ですが面白いです。

秀吉といえば伏見稲荷大社を「オレの願いを聞き入れなかったら国中の狐を皆殺しにするぞ」と脅迫したことでも知られていますが、晩年の彼はいろいろと越えてはいけない一線を踏み越えてしまったんでしょうかねぇ。善光寺阿弥陀如来の呪い説もあるし、キリシタンも弾圧してますしねぇ。挙句の果てには自分自身を神として祀ろうとしたりして。

 

最後までお読みいただきありがさうございました。最後に毎回恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。やっぱり可能な範囲内で全力でアピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

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伊勢神宮と仏教との関係を探る ~新古今和歌集から奈良の大仏を経て朝熊ヶ岳へ。ちょっと鎌倉初期の政治事情も。

神風や みもすそ川の そのかみに

   契りしことの 末をたがふな”

---by 藤原(九条)良経1169-1206from 新古今和歌集1871

前に何度か新古今和歌集の神祇歌をネタにしたのでもう一度。歌の作者九条良経源頼朝と朝廷の橋渡し役を担った藤原(九条)兼実の息子です。百人一首にもこの人の歌が収録されています。

その百人一首の選者である(新古今和歌集の選者のひとりでもある)藤原定家は彼の九条家の家司的な立場にありました。この良経さん、定家からも将来を嘱望されていたようですが、満年齢37歳の若さで死去。

この歌は彼が平重衡によって焼け落ちてしまった奈良の大仏&大仏殿が無事再建されたのを天照大御神に報告するために伊勢神宮に派遣されたとき(1195年)に詠んだとされています。

歌に出てくる「みもすそ川(御裳川)」は壇ノ浦で平家が滅亡した際に平時子が入水に臨んで詠んだ歌にも出てきますが、これは伊勢の内宮に流れる五十鈴川のこと。

平清盛一門は伊勢平氏、そして彼らの血を受け継ぐ安徳天皇は伊勢の天照大神の子孫という位置づけですから、この平時子の歌には安徳天皇は平家・天皇家両方から「伊勢の御裳川の流れを受け継いでいますよ」との意味がこめられています。現在壇ノ浦にある「みもすそ川公園」はこの歌・エピソードから名付けられたものです。

歌意は「五十鈴川(みもすそ川)の上流におわします天照大御神よ、我々の一族と交わした約束(契り)をどうか末永くお忘れにならないでください」といった感じ。

ただこれだけだと意味がよくわからないですよね? これは日本神話の天孫降臨のエピソードを踏まえたもので、天照大御神の孫にあたるニニギノミコト瓊瓊杵尊)が地上(葦原中国)に降臨する際にお供としてアメノウズメ、アマノコヤネ、フトダマ、イシコリドメタマノオヤ5柱の神が同行することになりました。このうちアマノコヤネ(天児屋根命)は中臣氏の祖神とされています。なので藤原氏の祖神でもある。

また、この日本神話をもとに後代になると天孫降臨の際に天照大御神の子孫が天皇になり、天児屋根命の子孫がそれを補佐する約束が交わされたという「二神約諾神話」が生まれ、これが藤原家による朝廷権力掌握の根拠とされたそうです。

この歌はそんな神話上のエピソードを背景にしたもので、「天照大御神さま、これからも末永く藤原家にご愛顧のほど、よろしくお願いしますよ」的な意味合いがこめられていることになります。

そうなるとどうして九条良経がこんな歌を詠んだのか? が気になります。大仏再建の報告のために訪れたのになんでこんな個人的な歌を詠んでいるのか?

そしてもうひとつ、そもそも大仏再建の報告をどうして伊勢神宮にするのか? しかも摂関家の御曹司を派遣してまで。

これが本投稿のメインテーマです。

1.奈良の大仏伊勢神宮との意外な関係

1-1.大仏づくりに必要とされた伊勢の水銀

まず大仏再建と伊勢神宮との関係について。奈良の大仏には表面に金メッキが施されていますが、この金メッキを造る際には水銀を使用した「アマルガム法」という技術が採用されていました。

これはけっこう有名な話だと思うのですが、この水銀を使った金メッキを施す作業によって作業員の間で水銀中毒が発生、さらには奈良の都周辺で水銀汚染が発生するなど問題が発生したため、歴史上最初の労働災害/公害なんて言われることもあります。そしてこの大仏の金メッキの際に使用した水銀はおもに伊勢地域から調達されたものでした。

最初に聖武天皇が大仏建立を志したときにはあの勧進僧、行基668-749)を伊勢神宮に送り込んだことが「元享釈書」という鎌倉時代に書かれた仏教史を記した書に記されています。

しかも内容がとても興味深く、聖武天皇行基に対して仏舎利をもたせてそれを伊勢神宮に奉納せよ、と命じています。

神社、それも仏教色を排除していたと言われる伊勢神宮仏舎利を奉納!

これだけでも面白いですが、さらに実際に伊勢神宮を訪れた行基が託された仏舎利を奉納し祈りを捧げていると天照大御神からの託宣が下されます。それも「わたくしは今、このような素晴らしい大願(大仏建立)と接して渡りに船を得た思いです」と感激した内容の。

これが事実かどうかはともかく、伊勢周辺には行基による創建と伝えるお寺があちこちに見られます。少なくともこのエピソードが広く知れわたっていた間違いないのでしょう。

時代は下って歌の作者、九条良経の時代、大仏を再建するため源頼朝俊乗房重源1121-1206)に再建の大役を託します。そして彼は必要な資金・資材を調達するべく勧進活動を開始するとともにやっぱり伊勢を訪れて伊勢神宮に参拝しています。なんでも重源の夢に天照大御神が現れたのが神宮参拝の理由だとか。

もともと伊勢国は古くから水銀(辰砂)の産地として知られていたらしく、租庸調の「調」として朝廷に収めてもいました。そこに目をつけた聖武天皇源頼朝が大仏建立/再建に必要な水銀を確保するために行基/重源を派遣した…

というより、勧進僧としての豊富な実績を持つ行基/重源が伊勢の水銀に目をつけて権力者に進言したのかもしれません。

さらにわざわざ建立/再建事業のトップが直接出向かなければならなかった点から伊勢神宮が伊勢の水銀ビジネスを掌握していたこと、そしてかなりの力を持っていたことがうかがえるように思えます。ときの最高権力者が頭ごなしに「おい、大仏造るから水銀くれや」と命じてもうまくいかないくらい。

とくに聖武天皇の時代は彼自身が「三宝の奴(さんぽうのやっこ)」と名乗るなど仏教による鎮護国家の確立を進めており、大仏建立はまさにその象徴でした。となれば皇祖神を祀る伊勢神宮としては自分たちの立場が相対的に弱まることを警戒していた可能性が高い。なので「仏教を盛り上げるために協力せよ」と言われてもおいそれとは従えなかったのかも知れません。

そこでトップ自らが出向いて懐柔策に出た。これが行基/重源の伊勢訪問と伊勢神宮参拝の実情ではないでしょうか。天照大御神の託宣を得たとか、夢に出てきたといった神秘的なエピソードは奈良の大仏伊勢神宮を結びつけるために作り上げられた(当時としては)もっともらしい話なのでしょう。

こうした懐柔策の影響なのか、伊勢では全国でも唯一の水銀のギルド「水銀座」が作られます。しかも伊勢神宮を本所にいただく形で。

伊勢と志摩と言えば九鬼嘉隆に代表される「伊勢水軍」で名高いですが、「すいぐん」だけでなく「すいぎん」も無視できない勢力を持っていたようです。

伊勢水銀に関しては簡単ですが三重県の公式サイトにページがあったので興味がありましたらご一読を

www.bunka.pref.mie.lg.jp

このページでは水銀座の資料上の所見が1195年とあります。この年はまさに大仏殿の落慶供養会が行われた年、さらに九条良経が伊勢を訪れて冒頭の歌を詠んだ年でもあります。

となると、摂関家の御曹司である彼(当時は左大将。同年中に内大臣に昇進)がわざわざ伊勢の地まで訪れたのもこの水銀座(の利権)を巡って朝廷と伊勢神宮との間に何らかの話し合い・調停の場を設ける必要が生じていたからではないか…

なんて妄想を巡らせたい衝動に駆られるのですが、いかがでしょうか?

はおなじみ奈良の大仏と大仏殿。ご存知江戸時代の再建。

東大寺華厳宗の総本山としても知られていますが、現在のように華厳宗の総本山と位置づけるようになったのは実は明治時代に入ってから。それ以前はさまざまな宗派が入り乱れた兼学の地でした。

このあたりは寺社の説明だけではなかなか本当の歴史が見えてこない、というもどかしさを感じます😤。

1-2.伊勢神宮と仏教信仰との交流の痕跡

先程少し触れましたが神仏習合が進んでいく状況において伊勢神宮はかなりその流れに抵抗していたらしく、仏教色の排除に努めていたと言われています。九条良経の同時代人、あの西行法師が伊勢神宮を訪れた際に↓の歌を詠んでいますが…

なにごとの おはしますかは 知らねども

  かたじけなさに 涙こぼるる”

「どんな神さまがいらっしゃるのかわからないけど、そのありがたさに涙が止まりません」みたいな意味。自分が祈っている神がどんな神なのかわからなくても大した問題ではなく、その神の威光に触れて祈りを捧げるのが大事なのだ…いかにも日本人らしい宗教観が出ている歌としても知られています。

ただこのとき彼は坊さんだったので伊勢神宮(内宮)の拝殿に参拝することができなかったと言われています。かつて伊勢内宮では僧侶は現在の風日祈宮がある風日折宮橋の手前までしか境内に足を踏み入れることができなかったらしい。

は現在の内宮の境内図と風日折宮の位置。

は正宮。

このように仏教色を排除しながらも利権のためなら大仏建立/再建にも協力する。

なかなかにしたたかな姿勢がうかがえるようではありませんか。

ところが、そんな伊勢神宮の仏教色排除の姿勢からはどうも「うわべだけ」の気配が感じ取れます。その根拠となるのがの史跡。伊勢内宮の北東(鬼門の方向)に位置する朝熊ヶ岳の山中から発掘された経塚群。

伊勢市観光協会の紹介ページもご参照ください。

ise-kanko.jp

朝熊ヶ岳は標高555メートル。東京の高尾山(599m)や広島宮島の弥山(535m)あたりと似たような高さ。登山慣れしていない人でも頑張れば登れる「身近な霊山」といった趣ですが(山頂から海を臨む絶景は弥山を彷彿させます)、この山には伊勢神宮の鬼門を守護するお寺とされた金剛證寺が今もあるほか、天から天照大御神がこの山に降臨した、なんて伝説も伝わっています。は山頂エリアからの眺め。

しかもこの経塚群は出土品の銘から伊勢神宮の関係者によって造営されたと考えられています。

経典を収めた容器(経筒)などを地中に埋める経塚の習慣は平安後期、末法思想の高まりとともに広がったと言われています。藤原道長が吉野の大峯に埋めた経筒がとくに有名ですね。そんな経塚が伊勢神宮のお膝元ともいえる霊山に、しかも伊勢神宮の関係者によって造られれている。

なお、この朝熊ヶ岳の経塚からの出土品から確認できる銘からは平安末期、1120年代~1180年代に埋められた事実が見て取れます。碑文には1173年の銘のことが書かれていますね。まさに風雲急を告げていた時代です。

出土品の中でも国宝に指定されているのが阿弥陀如来像というのもいかにも末法思想らしい感じがします(藤原道長も晩年は極楽浄土行きを目指して必死になって阿弥陀如来に祈りを捧げていました。)

さらにこの朝熊ヶ岳の経塚と同時代に伊勢の外宮近くに埋められた経塚もあります。こちらは東京国立博物館所蔵の出土品の画像を↓。小町塚経塚。

こちらは近代に入るまで伊勢外宮の祠官を世襲し、度会神道伊勢神道)を提唱した度会氏の人々によって行われています。

の瓦経(1173年)は上記の朝熊山経塚群とまったく同じ時期ですね。

↓は伊勢神道Wikiページ。

ja.wikipedia.org

ここに書かれているように度会氏による伊勢神道では本地垂迹思想に反発するように伊勢神宮から仏教を排除したうえで仏よりも神を上位に置く姿勢を示しています。

そんな考えを作り出した一族が仏さまに死後の救済を求めている。

これを日本の宗教のおおらかさと見るべきか、いい加減な部分と見るべきか(笑)、あるいは神さまを祀りながらも「神さまだけでは不安」だった伊勢神宮の人たちの屈折した感情のあらわれと見るべきか。

今年(2024年)になにかと話題になった紫式部の「源氏物語」では怨霊として他の登場人物たちに害をなす六条御息所のエピソードに伊勢神宮の話が出てきます。

彼女は伊勢の斎宮になった娘に同行して伊勢の地で暮らすのですが、そんな彼女が「伊勢の地で暮らしたせいでみ仏との縁が遠のいてしまった」みたいな愚痴をこぼすシーンが出てきます。

この点からも末法思想の世における「神さまだけではちょっと不安、たとえそれが最高神たる天照大御神でも」という風潮がうかがえるのではないでしょうか。

となると、日本宗教史の最大のテーマのひとつとも言える神仏習合はまさにこの末法思想が普及した時期に急加速したのではないか? という推測も成り立つと思います。

死後に救済を得るためには仏さまにすがる必要がある、でも伝統的な神さまへの信仰を捨てるのは忍びない。ではどうしようか? じゃあくっつけちゃえ!…というのはちょっと乱暴すぎる表現ですが、じわじわと広まっていた神仏の習合がこの時代に末法思想の波に乗って一気に加速していった可能性は十分に考えられるのではないかと。

天照大御神と仏教の関連については中世に語られた「第六天魔王織田信長でおなじみ)」との関係を伝える伝説もよく知られています。大雑把な内容は↓のような感じ。

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第六天魔王が「この国(日本)は仏教の国だから滅ぼしてしまおう」と言ったところに天照大御神が「わたしがこの国から仏教を排除するから滅ぼさずにわたくしにお任せあれ」と魔王にお引き取りを願いました。しかしそれは嘘も方便、天照大御神はこれによって日本国土の支配権を獲得しつつ、仏教も大事にしたのでした。そのため日本では仏教が繁栄する素晴らしい地になったのでした。

めでたしめでたし

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織田信長第六天魔王を名乗ったとされる(事実かどうかは不明)のもこのエピソードを元に「オレは仏教の敵だぜ」とアピールするためだった、なんて話も。

このエピソードのせいで中世には天照大御神が「嘘つき呼ばわり」されたりもするのですが、ここからも仏教と縁を切ることができなかった伊勢神宮の事情がうかがえるような気がします。

1-3.伊勢神宮式年遷宮における仏教の貢献

そんな伊勢神宮ですが、室町中期以降の戦乱の世においては経済的に厳しい状況に追い込まれてしまい、20年に1回行われる式年遷宮1462年に行われた内宮の遷宮(しかもこれも31年ぶり)を最後に長期の中断を余儀なくされます。1563年に外宮の式年遷宮が再開されるまでじつに100年以上かかりました。(内宮の中断期間が123年、外宮は129年。次の1585年に実施された式年遷宮から内宮・外宮ともに同じ年に式年遷宮が行われることに)

天皇の即位儀礼とも言える大嘗祭からし1466年に中断してから1687年に再開されるまで221年も中断していたことを考えるとこれも致し方なし、といった感じもしますが…伊勢神宮のほうはなぜ大嘗祭よりもずっと早く、それもまだ戦国時代が収束の気配すら見せていなかった時期に再開できたのか?

これは尼僧を中心とした勧進活動によって実現したものでした。その立役者が清順?-1566年)。は彼女のWikiページ

ja.wikipedia.org

そう、伊勢神宮最大のイベントの復活は仏教僧によって成し遂げられたのでした!

先述した朝熊ヶ岳金剛證寺には彼女と、彼女の後を継いで式年遷宮復活に尽力した周養(しゅうよう。?-1611)の墓(供養塔?)もあります。

ちなみに伊勢神宮の公式サイトにおける式年遷宮の歴史についてのページ

www.isejingu.or.jp

ここでは彼女たちの勧進活動について「清順・周養の勧進によって織田信長豊臣秀吉遷宮費用を献納し、復興することができました」と書かれています。

これだとまるで彼女たちが権力者にうまく取り入って費用を調達することができたように受け取れてしまいます。そもそも遷宮の再開が実現した1563年の段階では秀吉はもちろんのこと、信長だって遷宮費用を負担できるような状態ではなかったはず(清順も1566年に死去しています)。

彼女たちの尽力、勧進聖の活躍、そして費用を寄進した人たちの信心を過小評価しすぎです。

清順のwikiページにもあるように外宮遷宮が実現した際に彼女は伊勢・近江間の関所を一ヶ月にわたってフリーパスの状態にすることに成功しています。

どうしてそんなことをしたのか? もちろん、勧進活動に協力して寄進してくれた人たちが参拝しやすいようにするためでしょう。

神社の解説・説明では全般的に神仏習合の時代・仏教との歴史的な関わりから目を背ける傾向が見られますが、この伊勢神宮の記述には明らかに問題があると思います。

そんな仏教僧の協力を得て遷宮の復活にこぎつけた伊勢神宮でしたが、やはり仏教僧が式年遷宮の活動を仕切るのが気に食わなかったらしく、江戸時代に入って幕府に抗議して排除することに成功します。

ではその伊勢神宮はその後どうやって式年遷宮の費用を捻出したのか?

そう、幕府に出してもらうことになったのでした。(伊勢神宮の公式サイトの中途半端な説明はこの点に触れたくないのもあるのでしょう)

こうして書くとわたしが伊勢神宮を批判しているように見えてしまうかもしれませんが…伊勢の地を訪れたり、伊勢神宮系の神社を訪れるとよく「伊勢は日本人の心のふるさとです」というキャッチフレーズを見かけます。

しかしこれまで見てきたように徹底して時の最高権力者に寄り添う姿勢を保ってきたこの神社にこれを言う資格があるのか? という気もしないことも、ない。(それどころか、これまで触れてきたように神社の人たちからして仏教が「心のふるさと」だった痕跡がある!)

決して伊勢神宮を批判しているわけではなく、もう少し歴史と向き合うべきじゃないか? という話です。念のため。伊勢は素晴らしいところです。だからこそ、歴史と正面から向き合う姿勢が求められるのではないでしょうか。

2.歌の作者、九条良経が当時置かれていた微妙な立場について

さて、冒頭の九条良経の歌に戻りましょう。なぜ伊勢神宮に大仏再建の報告に出向く必要があったのか? については答が出ました。ではもうひとつの疑問、「どうして九条良経はこんな個人的な歌を詠んだのか?」についてはどうか?

彼が生きた時代は平家の台頭~全盛から源平の争乱、そして源頼朝による鎌倉幕府の創立という激動の状況下でした。そして頼朝は朝廷から征夷大将軍の任命(九条良経の父、兼実の尽力もあって)を受けたものの、どうもその関係にはギクシャクした部分があったようです。頼朝の娘、大姫の後鳥羽天皇への入内計画(とその頓挫)はそんなギクシャクした状況がもたらした失敗例のひとつなのでしょう(このせいで一時期九条家と頼朝の関係もギクシャクしちゃう)。

そんな状況下において朝廷では親幕府派と反幕府派の間で権力闘争が繰り広げられており、九条良経の一族、九条家は親幕府派の筆頭に位置する立場にありました。

とくに後白河法皇が死去して後鳥羽天皇(のちの上皇)が朝廷の主導権を担うようになって以降は対立が先鋭化していたらしく、九条家側にいた藤原定家後鳥羽天皇から蟄居の処分が下されたりしています。

そんな情勢下において微妙な立ち位置にいた九条家の跡継ぎの御曹司は公務のドサクサに紛れて😆皇祖神たる天照大御神に一家の繁栄を祈願したのではあるまいか? この歌はその証ではあるまいか?

ちなみに彼が伊勢に赴いた1195年のうちに内大臣に昇進するものの、その翌年に反幕府側の攻勢を受けて失脚の憂き目を遭っています(建久七年の政変)。ですからこの歌を詠んだ時点でかなり緊迫した情勢であったと見てよいと思います。

それにしても、幕府寄りのスタンスで天皇方と距離をとっていた者が皇祖神に祈願するあまり、なかなかにあつかましさを感じます(笑)。

しかし当時の後鳥羽天皇は壇ノ浦の合戦で失われてしまった草薙の剣を用意できずに三種の神器」が揃わない状態で即位した天皇。当時からそのことをかなり言われていたらしく、後鳥羽天皇もかなり負い目を感じていたらしい。

となるとこの歌からは後鳥羽天皇とその取り巻き連中を「天照大御神の正統後継者として認めない」くらいの考えを持っていて、「こっちのほうが天照大御神の意に適うことをしている」自負をこめてこの歌を詠んだのではないか?

さあ、どうでしょうか?

この九条良経1206年に亡くなりますが、その後朝廷内の対立、さらに朝廷と幕府の対立がさらに緊迫の度合いを増してついに1221年に承久の乱の形で朝廷と幕府が直接対決することになります。

結果は幕府の圧勝。これを転機に幕府寄りだった九条家はかなり恵まれた立場を朝廷内に確立することに成功します。藤原定家もそれまで不遇だった状況から脱して出世街道に乗っていくことに。

この九条良経の子ども、道家藤原定家の義兄弟(定家の姉妹と結婚していた)西園寺公経の娘との間に生まれたのが鎌倉幕府4代将軍、九条頼経

このあたりもこの一族の幕府との深い結びつきがうかがえますが、この九条頼経がまたクセ者で将軍になった鎌倉の地で「オレはお飾りの将軍じゃないぜ」とばかりに権力掌握のためにいろいろと画策してそれが実家の九条家に悪影響を及ぼしたりします。

そもそも名前の「頼経」からして「頼朝+義経」って感じでいかにも不協和音が鳴り響きそうな印象ですよねぇ🤣。

で、九条良経ですが、名前が源義経と同じく「よしつね」。なので義経が朝敵となったときには朝廷側が勝手に彼の名前を「義行」後には「義顕」に改名したりしています。頼朝が提案したらしく、この点からも彼と九条家との深い結び付きがうかがえるのですが(弟の名前を勝手に変えようとする頼朝の血も涙もない面も😅)…

九条良経は将来を期待されながらも満37歳で死去。それも夜中に「頓死した」というのですから穏やかな話ではありません。

この良経の非業の死を考えると義経の名前を変えるのではなく、こちらの名前を変えたほうがよかったのでは? という気もしないこともない。長生きできるように「良行」とか。

もうひとつ、九条良経の歌は新古今和歌集に収録されています。となると当然藤原定家はもちろんのこと、後鳥羽上皇の目に留まっていたことになります。

承久の乱の後、この2人はこの歌をどんな感慨を持って鑑賞したのか? 想像してみるとなかなか面白いです。

後鳥羽上皇との仲が決裂していたおかげで承久の乱後に出世できた定家の方は「この歌の祈願が天照大御神に聞き届けられたのだろうか? おこぼれにあずかれてラッキー!」などと思っていたのかも知れません。

一方後鳥羽上皇は…流された隠岐の地でも新古今和歌集の編纂を続けていたという彼はこの歌をどう受け止めていたのか?

「くそっ、天照大御神はオレを見捨てたのか?」

か、はたまた…

「やっぱり三種の神器が全部揃ってないとダメなのか? オレは所詮ニセモノの天皇だったのか?」

だったか。

はてさて。

一首の歌からいろいろな想像を巡らせることができるのも日本史ならではの楽しみのひとつでしょうか。

 

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現世と異界のあわいで ~琵琶法師と霊犬伝説に秘められし謎を探る! In 山形県

1.異界との媒介者たち

 1-1.琵琶法師とは何者か? 

の画像は平家伝説と小泉八雲の「耳なし芳一」ゆかりの地、山口県下関市赤間神宮にある芳一堂に鎮座する芳一の像です。はそのお堂。

は現地の説明板。もともとの阿弥陀寺という名称にはおそらく「安徳天皇や平家の怨霊を(阿弥陀如来の慈悲で)浄土へと導く」みたいな意図がこめられていたと考えられますから、廃仏毀釈による阿弥陀寺の廃止と現在の名称への変更はもともとのコンセプトを大きく損ねてしまっていることになりますねぇ。

そして時宗創始者一遍1239-1289)の足跡を描いた一遍聖絵一遍上人絵伝13世紀末作)の1コマ。

1巻での甲斐善光寺を舞台にした場面で遍歴の琵琶法師が犬に追い立てられている様子です。

各地を遍歴しつつ平家物語を語って聞かせた琵琶法師は僧侶にして芸能者であり、その立場から聖俗の、さらには現実世界と異界との境界に住む存在だと見なされていたようです。二つの世界の境界で両者を仲立ちするような立ち位置。

僧侶としての立場はもちろんのこと、かつては芸能関連もしばしば神仏と関わる職種として見なされていたのもこうしたポジションになった理由なのでしょう。

また、「普通の」人たちが暮らす共同体の外に位置していながら、しばしばその共同体の世界に訪れ、足を踏み入れて人々と交流する。そんな彼らの境遇もこうしたイメージの形成を促したはず。別世界から訪れる神秘の存在、みたいな。

しかも共同体に属さず「外」の世界の住民であったがゆえに共同体に良いことをもたらしてくれる「お客さん(いわゆる「マレビト」)」としての面と、災いやケガレをもたらす「異人」としての面の両方を持ち合わせていた。そのため神聖視されて大事にされる一方で卑賤視されて蔑まれもした。

もともと「聖なるモノ」とはご利益をもたらす「良い存在」と、災いやケガレをもたらす「悪い存在」のいずれに対しても使われる両義性を備えた言葉であった。この点は「祟り神」や「疫病神」をはじめとした日本の「神」の概念にも残っていますね。御霊信仰のようにもともと恐ろしい祟りをもたらす神が祀られることによってご利益をもたらす神になる、なんて考え方もある。善悪二元論では説明できない世界観。

琵琶法師、とくに平家物語を世に伝える役目を果たした中世の彼らもそんな善悪両方の面を持ち合わせた「聖なるモノ」だったのでしょう。

妖怪好きの間では有名な「百鬼夜行絵巻」に登場する付喪神たちの中で琵琶がとりわけ印象的に描かれているのも単に擬人化しやすい形をしていたから…だけではありますまい。

国立歴史民俗博物館所蔵、狩野洞雲益信(とううんますのぶ)作(1684年以前)の百鬼夜行

さらに江戸時代に全国各地を巡って自ら書写した法華経を奉納してまわっていた巡礼者「六十六部(六部)」なども各地で「聖なる人」として扱われる一方、滞在先で所持品を奪う目的で住民に殺害される「六部殺し」と総称される民話のパターンも存在しています。これなども同じように善悪/聖俗両面を備えた「聖なるモノ」として扱われていたことを示唆しているのでしょう。

はその「六部殺し」の民話についてのWikiページ。

ja.wikipedia.org

耳なし芳一」の話はまさに現世と異界を行き来できると考えられた琵琶法師のイメージが非常にわかりやすく現れていますね。

物語は「モノがたり」でもある。妖怪や亡霊が出てくる「モノがたり」を語ることによってこれらの「モノ(物の怪)」たちと交流し、荒ぶるこれらの「モノ(魂)」をなだめる、鎮めるといった役割を彼らが担っていたのかも知れません。

 1-2.神秘の動物、犬

一方、犬は神秘的な力、とりわけ破邪の力を持つ動物としてしばしば伝説に登場します。日本では有名な長野県と静岡県にまたがる「早太郎/しっぺい太郎」の伝説が有名ですし、ハリウッド映画の「ターミネーター」シリーズでは犬が人間の姿をしたアンドロイドを見分ける能力を備えている設定になっています。

化け物の正体を暴いて追い払う、または倒す能力を持っている。ほかにも「花咲かじいさん」のように飼い主に幸運をもたらしたりもする。

なので「一遍聖絵」の絵に出てくる琵琶法師も単に犬によそ者として警戒されて追われたシーンとしての意味だけでなく、犬が琵琶法師が持つ神秘的な能力を敏感に察知して警戒したために追い立てたのだろう、と考えることもできます。

一遍聖絵」に興味がある方は国立国会図書館デジタルコレクション一遍聖絵をご覧ください 犬に追い立てられるシーンは第1巻なので見つけやすいと思います。

dl.ndl.go.jp

さらに有名な戦国末期の京都の様子を描いた「洛中洛外図屏風」にも犬にちょっかいをかけられる琵琶法師が描かれています。国立歴史民俗博物館が所蔵する通称「歴博乙本」を公開している当博物館の公式サイト

www.rekihaku.ac.jp

左隻の右から四番目、真ん中やや下の左端、川沿いの道の橋の前で棒(杖?)で犬を追っ払おうとしている琵琶法師と見られる人物を見ることができます。

このページでは説明入り画像版で当時の京都の寺社の配置を見ることもできます。前に取り上げた誓願寺行願寺(革堂)なども現在とはずいぶんと違う場所にあるのが見て取れて面白いです。

多くの人が行き交う京都の場合、犬が見慣れないよそ者を追っ払う、という状況は少ないと思われますので、やはり琵琶法師の神秘の力を警戒した様子を描いているのではないか? という気もしてきます。

ともあれ、このような複数の絵画で「琵琶法師&犬」の組み合わせが出てくる以上、両者の間に深い結び付きがあった、と昔の人たちは考えていたと見てよいと思います。

もうひとつ、琵琶法師の場合は盲目なのも重要な要素になっていたと考えられます。現実の光景を見ることができないがゆえに神秘の世界を見ることができる、さらには真実を見通すことができる、といったイメージを持たれていた。ゆえに重宝されるとともに警戒されたのではないでしょうか。人間には誰でも知られたくないことがあるものですし。

2.霊犬伝説の解析を試みる!

 2-1.山形県に伝わる2つの霊犬伝説

というわけで、今回は各地に伝わる「霊犬伝説」を取り上げてみたい。このタイプの伝説にはこれまで触れてきた伝統的な神秘の世界に対する概念がかなり濃厚に見てとることができます。

謎めいた神/化け物に娘を生贄を差し出すよう強いられていた人たちを霊犬がその神/化け物を退治して救う…というこの聖犬伝説。とくに有名なのが先述した長野/静岡県にまたがって伝わる「早太郎/しっぺい太郎」が活躍する伝説ですが、今回は山形県に伝わる2つの伝説をご紹介します。

まず山形県鶴岡市椙尾神社(すぎのお)に伝わる「めっけ犬」の伝説。場所は↓のような感じ。近くにかつて「人面魚」で大ブレイクした善寳寺もあります。このお寺に関してはまたいずれ。

伝説の内容は↓

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その昔、椙尾神社の裏山に化け物が住んでおり、毎年美しい娘を生贄として差し出すよう住民たちに強要していました。拒否しようものなら化け物が村にあらわれて田畑を荒しまわり、生活できなくなってしまうため、住民たちはその要求に泣く泣く従っていたのです。

そんなある年、ちょうど生贄を差し出す時期にこの地を訪れたとある廻国の六部が話を聞き、生贄が捧げられる夜にこっそりと椙尾神社に身を潜めて様子をうかがうことにしました。

その夜、生贄が差し出されるや2体の大入道が出現、「丹波の国にいるめっけ犬にはこのことを聞かせるなよ」とつぶやきつつ生贄の娘の体を二つに引き裂いてしまいました。そして2体の大入道のうち「東の坊」が引き裂いた体の頭の方を、「西の坊」が足の方を手に入れたうえで「じゃあ、また来年会おうぜ!」と姿を消したのでした。

この様子を目撃した六部は丹波の国まで訪れて大入道たちが口にしていた「めっけ犬」を発見、村に連れていくと次の生贄のときに生贄になる娘の代わりにこの犬を籠に入れて神社に供えました。

そんな事情を知らずに生贄を手に入れるために現れた2体の大入道が籠を開けるなりめっけ犬が飛び出してきて大激闘が開始、見事めっけ犬は大入道たちを噛み殺すことに成功。しかし自身も深手を追って息絶えてしまいました。

自分たちの窮地を救ってくれたことに感謝した村の住民たちはこのめっけ犬を丁重に弔うとともに村の守り神として祀ることにしたのでした。

そしてこの出来事をもとに村ではめっけ犬を称えるお祭りを執り行うようになり、それは300年後の現在でも「大山犬まつり」の名で受け継がれているのでした。

めでたしめでたし

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この霊犬の名前「めっけ」とは「物の怪を滅ぼす」という意味の「滅怪」のこと。

この話では先程少し触れた六部(六十六部)が重要な役割を演じる主人公として、そして村(共同体)に訪れる「異人」として登場しています。

現地ではめっけ犬をかたどったらしいとても素敵な狛犬(文字通り犬)が入口でお出迎えしてくれます。しかも二体に分身して!😆

の階段の左右に控えているのが例の「犬の」狛犬。それが

なかなかかわいい

今でも夜になると物の怪の一体でも出てきそうななかなかいい雰囲気です…というか素性がよくわからない境内社があちこちにポツンと建っています。

当神社の祭神は積羽八重事代主命天津羽々命竜田彦大神竜田姫大神 大物忌大神と月山大神の六柱。一応最初の積羽八重事代主命主祭神らしいですが…誰が見ても「めっけ犬のための神社」の趣です。

ちなみに先述したこのめっけ犬を称える「大山犬まつり」は「庄内三大まつり」に数えられて今でもかなり賑やかに行われているようです。はその様子を伝える山形NEWSチャンネルの動画

www.youtube.com

次は山形県東置賜郡高畠町にある「犬の宮」に伝わる伝説。場所は↓のような感じ。現地では公共の交通機関がほぼ機能していない状態なので(わたしのような)鉄道で訪れる方は要注意!(駅でレンタサイクルが利用できます)

こちらの伝説の内容についてはの現地の説明板をご参照ください(手抜き?😆)

基本的な話の枠組みは同じ。化け物(タヌキ)を倒した犬が最後に死んでしまうところも。こちらは犬を祀ったことで安産のご利益が得られています。東京には撫でると安産のご利益が得られるという犬の像がある水天宮(安徳天皇建礼門院徳子、平時子を祭神として祀る)があります。平家物語との意外な接点?。

こちらの伝説では苦しめられている共同体に犬を持ち込むのは座頭。時代劇でお馴染みですが、座頭とは江戸時代における琵琶法師やあん摩師など盲目の職業に対して使われていた名称。この伝説の座頭は話の内容から考えても僧の姿をしていた琵琶法師の類なのでしょう。

ちなみに映画の座頭市では主人公は仕込み杖を武器にしていましたが、上記の「洛中洛外図屏風」では棒(杖)で犬を追っ払っている琵琶法師の姿が描かれていました。さらに前回の投稿では「市の聖」こと空也903-972)の系統に属する遊行僧が鹿角を先端にはめ込んだ「鹿角」を携帯していたと書きました。

座頭市はあくまでフィクションですが、こうした点からも遊行・遍歴の生活を送る人たちにとって杖は重要な護身具でもあったことがうかがえますね。

が伝説の舞台となった犬の宮。説明板にもあるようにこの神社は伝説に登場する霊犬そのものを祀った社です。すぐ近くには猫を祀った「猫の宮」なんかもあって動物好きな人には見逃せないスポットにもなっております。

新旧の(?)犬の像もあちこちに見られたりして面白いです。

 2-2.霊犬伝説から垣間見る日本の伝統的な世界/異界観

さて、山形県に伝わるこの2つの霊犬伝説からいくつかのポイントを見て取ることができそうです。

まず犬と遍歴の僧がタッグを組んでいる点。先述の「一遍聖絵」や「洛中洛外図屏風」では敵対する関係にあった両者がここではともに悪を退治する立場にある。なぜか?

それは絵画に描かれている犬は共同体に属している「内側の(聖なる)モノ」であるのに対して、琵琶法師は遍歴の途中でその共同体に訪れた「外側の(聖なる)モノ」であるため対立する立ち位置にあった。

一方これらの伝説では犬も遍歴の僧侶もどちらも「よそから共同体を訪れた」立場にある「外側の(聖なる)モノ」だからだと考えられます。

このことは置かれた立場によって敵が味方になり、味方が敵になる。あるいは善悪の価値観がひっくり返る。物事の価値観とはあくまで相対的なものである、という世の真実を示しているのかも知れません。ヨーロッパによく見られる固定的な善悪二元論はあまり良い考えとは言えないことも。

さらにこれらの伝説からはしばしば圧政による搾取に晒される一般人がその苦しみから解放される手段として「外から来たヒーロー」に期待せずにはいられないという封建社会における閉塞して行き詰まった状況が透けて見えるようにも思えます。

「内側の世界」を形成する共同体は「外側」に対して閉鎖的であればあるほど結びつきが強まっていく(&同調圧力も高まる)が、閉鎖的であればあるほど予期せぬ事態が起こった時の適応力や柔軟性に欠ける。

そんな閉鎖的な環境を訪れた外部の人たちがもたらす情報や物(モノ)がそうした閉塞/硬直した状況に風穴を開ける。

これらの伝説を通して共同体で属して暮らす「普通の人たち」がよそ者に対して警戒と歓迎の両方を見せる、という封建社会における「ムラ社会」の実情が垣間見られはしないでしょうか?

さらにこの

「化け物を退治するきっかけをもたらす人間も、実際に退治する霊犬も外部からやってきた「外側に属する聖なるモノ」である」

という設定には「マレビト信仰」の要素も見てとれると思います。外部からやってきた異人(犬)が訪れた先で幸運をもたらす。そして受け入れる共同体の人々はその幸運に預かるために彼らを歓待する。

しかしその滞在・歓待はあくまで一時的なものに過ぎず、化け物を退治した霊犬は最後には死んでしまう。幸運をもたらした「よそもの」は結局最後までよそ者であって、どれだけ良いことをしてもその地に定住することはできない。

ここには「普通の人が属する内側の世界」と「異人が属する外側の世界」との間に大きな一線が引かれていた村社会、ひいては日本の伝統的な考え方が見てとれるのではないでしょうか?

 

さて、ここで改めて2つの伝説に登場する交通ルートを見てみましょう。

椙尾神社の方は丹波の国(現在の京都府、兵庫、大阪の一部)にいためっけ犬を六部が連れてくる設定になっています。この丹波の国は京の都や大阪にも近く、さらに瀬戸内海と日本海を往来して広い商業圏を形成していた北前船の海運貿易とも少なからぬ関わりがあった陸運・海運ともに重要な地。

そして鶴岡市を含む山形県西部の庄内地方はかつて北前船貿易で栄えた地域。鶴岡市のお隣酒田市には江戸時代に日本一の大地主とも言われた大豪商、本間家が活躍していました。上記の椙尾神社の鳥居の説明板にもありましたが、椙尾神社の関西文化の影響が強いうえに材料の石材はおそらく船運で運ばれてきたものです。

一方犬の宮の伝説では犬が甲斐国出身とあります。この伝説が伝わる東置賜郡山形県の最南部に位置する置賜地方に属する内陸の地域。そして甲斐国は古代から東海道東山道が交わる結節点であったことから「交ひ(かひ)」の国と名付けられたと言われています。

このように2つの伝説からは(現在の)山形県でかつて頻繁に利用されていた交通/通商ルートを垣間見ることができるようです。庄内地方のめっけ犬の伝説は海運(北前船)をメインとした「西国つながり」、置賜地方甲斐国とかかわる犬の宮の伝説は陸運(東海道東山道)をメインとした「東国つながり」の内容と言えるのかも知れません。

なので話の筋は似ていますが、それぞれの伝説が生まれた経緯、または伝わったルートはおそらくまったく違うと思われます。

ただし、置賜地方に関しては現在の新潟県を経由した海運と陸運の両方を利用したルートも頻繁に利用されていたらしい…形跡をうかがえる伝説も伝えられています。こちらもいずれご紹介したいと思っております。

長野/静岡の「早太郎/しっぺい太郎」伝説においても化け物を退治する霊犬「早太郎/しっぺい太郎」は秋葉街道をたどって長野(信州)から静岡(遠江)を往来しています。秋葉街道と言えば火防の神で知られる秋葉神社への巡礼ルート、さらにかつては史上に名高い武田信玄の西上作戦においてもこのルートが利用されたとも言われています(ただし別ルートを推す説もあり)。

霊犬伝説をはじめとした「異人が訪れる」パターンを持つ伝説からはこうした昔の重要な交通・移動ルートを垣間見ることができる点も面白いところですね。

現在の公共の交通機関を使って山形県内の海に面した庄内地方と内陸側の置賜地方村山地方、最上地方を行き来するのはけっこう大変なのですが、そのこともあってか同じ山形県内でも別の文化圏といった印象も持ちます。

また、犬の宮の伝説における「置賜地方←→甲斐国」ルートは山形新幹線もあってそれなりのアクセスしやすい環境にあります(リニアの中央新幹線が開通すればもっとよくなるでしょう)。

一方めっけ犬の伝説における「庄内地方←→丹波国」ルートは海運による移動が機能しなくなっていることもあってかなりアクセスが面倒になっています。

そのため日本海側の交通に関しては昔のほうが便利だったんじゃないか? なんて気もしてきます。

 

さらにもうひとつ、伝説に登場する生贄を要求する化け物はしばしば神社に出没し(椙尾神社の伝説やしっぺい太郎/早太郎の伝説)、しばしば「ヒヒ神/猿神」のように「神」として扱われる。

ここには「聖なるモノ」が善悪両方の面を備えていたこと、といった日本の伝統的な考え方が背景にある。

こうした「聖なるモノ」に見られる安易に善悪二元論ではくくれない両義性が日本に非常に多様な妖怪とその伝説をもたらした大きな理由となっているのは間違いないのでしょう。

なお、昨今アニメや漫画では妖怪退治系の作品が人気を得ていますが、これらの作品では決して妖怪・化け物・幽霊を全面的な「悪」と見なさずにさまざまな形(鎮める、なだめる、慰めるetc)で決着をつける、というパターンも多い。それが陳腐な勧善懲悪モノにならずに魅力的なものにしている面もあると思います。

そう、伝統的な「聖なるモノ」が持つ両義性は現代の物語の世界においても多様な魅力をもたらしているである!🤘

 

最後に、は同じ楽器をルーツとしていると考えられる楽器群。浜松市の楽器博物館にて撮影。まずは想定される伝播ルート。

はおなじみヨーロッパのリュート

は中東のウード

は中国のピパ

そしてが琵琶。

こうしてみると琵琶がダントツで擬人化しやすいな(笑)日本人の擬人化好きは昔から? でもウードもなかなか捨てがたい。三つ目の妖怪にできそう😆😄

お読みいただきありがとうございました。最後に恒例の(笑)わたしがKindleにて出版している電子書籍の紹介をさせてください。可能な範囲内で全力でアッピールしないと誰の目にもとまることなく埋もれてしまいかねないので。なにとぞご容赦のほどを。

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このブログにおける普段の投稿と同路線、「神・仏・妖かしの世界」を舞台にした創作小説(おもに怪奇・幻想・伝奇・ファンタジー系)です。もしご購読いただければ欣快至極にて御座候🙏